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スネアウルフの記憶

その魔物はひどく腹を空かせていた。

群れの中でも体が小さく弱い彼は、狩りの取り分も相応に少ない。群れの仲間たちが食べ終わった後の骨と皮、そして食べこぼされた小さな肉片だけが彼の食事だ。

彼は生まれてこの方、満腹になったことがなかった。


ああ、お腹が空いた。

肉を食べたい。

一度で良いから、お腹いっぱいに、肉が食べたい。


そんなことを考えて、ふらふらと群れを離れた魔物は、そこで二足歩行の生き物に出会った。


ニンゲンだ。


黒い布のようなものをすっぽりかぶっているが、その大きさと匂いは間違いなくニンゲンのものだった。ニンゲンは強い。彼よりも体が大きくて強い仲間が、ニンゲンの群れに殺されるのを、彼は見たことがあった。反対に群れのボスがニンゲンに勝った姿も見たことがあるが、とても自分が敵う相手だとは思えない。

後ずさる魔物の前で、ニンゲンが振り返った。


「ほぅ、スネアウルフか。なんとも貧弱な個体だな。毛艶も悪い……ふむ」


杳としてしれない黒いフードの下から、枯れた声が響く。

無論、魔物にはその声が何を意味するのか分からない。警戒する魔物に、人影は一歩近づいた。


「だが、その目……悪くない。飢えた目だ。身の丈に合わぬものを欲しがる目だ」


一歩、また一歩とニンゲンは近づいてくる。

異様な雰囲気に立ち竦む魔物の前で、ニンゲンは何かを取り出した。

それは、宝石のような赤い玉。

妖しく光るそれを親指と人差し指の間につまんで、ニンゲンは魔物の目の先で振ってみせる。


なんだか、とってもおいしそうな匂いがした。

肉なんかじゃないのに、まるで肉のような。


「ああ、目が光ったな。こんなものが欲しいとは、よくよく業が深いものだ。ほら、やろう。腹が空いているのだろう。お前に、やろう……」


無造作に玉が放り投げられる。

魔物は、待ちきれないとばかりにその玉にかじりついた。

魔物の口の中で玉は果物のように弾ける。血よりも香り高く、骨よりも豊かな味が口内で広がって、魔物は初めて食べ物を食べたような気がした。


「アオン!」


勢いよく鳴いた魔物は、自身の声の響きが妙なことに気がついた。

そういえば、足の爪と肉の間がむず痒い。耳の裏が痛い。心臓は破れそうなほどに脈打って、全身の骨が軋んだ。


「ア、ガ、ガァ…」


魔物の毛が逆立った。それは、猫が威嚇をして体を大きくみせるときの体勢に似ていた。けれども魔物は猫ではなく、魔物の体は実際に大きく膨らんでゆく。


「ガ、ウ、ガゥアァァァアアアアッ!」


身をよじって吼えた魔物は、不意に訪れた痛みの間隙に息をついた。生きているのを確かめるように首を振って、そうして魔物は呆然とする。


景色が、違う。


より正確に言えば、視点が異なっていた。それもそのはず、今や魔物の体躯は元の二倍以上の大きさになっている。

地面が、遠い。景色が、広い。

体には、今まで感じたことのない力が漲っていた。


ああ、これならきっと、お腹いっぱいに肉を食べられる。


魔物はまず、群れの仲間たちの下へ向かった。

魔物が姿を見せると、仲間たちは一様に寝転んで腹を天に向けた。鱗を持たない腹を見せるのは、スネアウルフという種にとって、紛れもない恭順の印だった。

雲の上の存在だったボスが、自分の足下で情けなく媚びる姿を見て魔物は思った。

この森で一番強いのは自分だ、と。


魔物は群れを捨てて森の中を駆け巡った。

森の全てが、彼の縄張りだった。

出会った生き物は、魔物であれ草食獣であれニンゲンであれ、全て殺して食った。体躯が倍になったことを差し引いても、食べ過ぎだと思えるほどに。

それでもなぜか、満腹にはなれなかった。


なぜだろうと考えて、魔物は群れの中にいた頃のことを思い出す。あの頃は、狩りをしていた。同じくらい足の速い草食獣や小型の魔物を、知恵と工夫を以て、有らん限りの力で追いかけた。そうして狩った獲物を、仲間たちは満足そうに食べていた。


そうか。そうすればいいのか。


魔物は出会い頭に相手を殺すことを止めることにした。音を抑えずに獲物に近づき、驚いて逃げる相手を追いかける。ただし、逃げる相手と同じ速度で。

数時間も追いかけていれば、獲物はやがて疲弊して動けなくなる。獲物を絶望させてから食うこの方法は、手間がかかる分、確かに満足感があった。


魔物が特に気に入った獲物はニンゲンだ。

ニンゲン以外の獲物は、魔物の姿を認めた途端一目散に逃げていく。一方で、ニンゲンの反応は様々だった。あるニンゲンは座り込み、あるニンゲンは逃げ、あるニンゲンは立ち向かってくる。

特に立ち向かってくるニンゲンは、より深い絶望を見せてくれるので、魔物を楽しませた。


けれどもニンゲンのなかにも、油断してはいけない相手がいるようだった。

例えば、小さなニンゲン。魔物が追いかけても、必死に逃げることはなく、あまつさえ火を生み出して反撃してみせた。そのニンゲンの匂いは、顔の火傷の痛みとともに魔物の鼻に刻まれている。

そして、まるで赤い玉をくれたニンゲンのように、強者の匂いがするニンゲン。このニンゲンに出会わないように、魔物はしばらく狩り場を移していた。


しかし、それももうおしまいだ。

あの強者の匂いは感じない。


魔物は空気の匂いを嗅いだ。微かに感じるのは、自身に怪我を負わせた小さいニンゲンの匂い。

魔物の目が爛と輝いた。


大丈夫だ。怖いのはあのきらきらした石の欠片と、空気がざわめく時だけ。空気に異変が生じたら、すぐにその場を離れればいい。

これだけ手間をかけて、怪我までしたのだ。きっと、きっと。


あのニンゲンを食べれば、お腹いっぱいになれるだろう。

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