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スネアウルフ

エディン・サンティの首とお別れしてから数時間後、少女はまだ天狼の森の内部を彷徨っていた。

既に夜の帳は下りていて、あれほど明るかった森は息苦しいような闇に包まれている。月が出てさえいれば月光が森を照らすのだが、今日は生憎の新月で、時折ちらちらと洩れる星明かりが唯一の光源だった。

迷っている訳ではない。

方位磁石コンパスは正常で、歩いた時間から考えればダンジョンの出口はもうすぐそこに有るはずだ。

そう、あと一度でも立ち止まって方位を確認できれば森を出られる。

こうも暗くてはコンパスの針など見えないが、光源を用意する手段はいくつかあった。けれども、今はそのどれもが使えない。

少女はちらりと背後を振り返る。

深い闇の先には、炯炯けいけいと輝く獣の瞳。


「ああ、どうしよう…」


淡々とした口調には何の緊迫感もなかったが、それでもその声色は心底疲弊していた。




少女が、背後に居るモノに気がついたのは一時間ほど前。コンパスを確認するために立ち止まった時のことだった。

さくり、と苔を踏む音が聞こえた気がして、少女は背後を振り返る。

先ほどまでは確かに誰も居なかったはずのそこには。

大きく開かれた獣の口があった。


「え……?」


呟いた少女の鼻先に、獣の息が吐きかけられる。その血生臭さは、彼女にエディン・サンティを殺したのがこの生物だと悟らせるに十分だった。

慌てて飛び退く少女だが、獣は首を軽くひねっただけで飛びかかろうとはしない。まるで彼女の力量を見定めようとするかのように両の目を光らせ、悠然と座っている。

銀色の体毛と、額から尾にかけて連なる蛇のような鱗。大きく裂けた凶暴な口に嘲笑うような赤の瞳。

それは、このダンジョン唯一のAランクの魔物、スネアウルフの姿に異ならなかった。

スネアウルフであれば、少女は何度か目にし、仕留めたことすらある。だからといって目の前の個体を同列に扱う気にはなれない。

少女を睥睨するスネアウルフの体躯は、人間ならば丸呑みに出来そうなほど大きかった。




こうして今の状態が出来上がった。

スネアウルフは少女が背を向けても襲いかかりはしなかった。ただ数十メートルの間隔を開けて影のようについて行く。そして少女が立ち止まる素振りを見せれば、少女の真後ろで口を開ける。


きっとこの魔物は遊んでいるのだ。猫が鼠をいたぶるように、弱者が必死に逃げる様を楽しんでいるのだ。そして動きを止めれば殺すのだろう。エディンのように首をぽおんと跳ね飛ばして。


だから少女は立ち止まれない。

立ち止まらなければコンパスは見れず、見れなければ出口はわからない。どうにもならない状況の中、少女は兎に角歩くことにした。運良く看板が見つかるかもしれないと考えて。勿論その可能性がほとんど無いことは少女も理解していたが。


「…っ」


踏み越えようとした木の根に足をとられ、少女は地面に倒れ込む。疲労のためにうまく足が上がっていなかったらしい。しっかりとした休憩もなしに一日森を歩いていることを考慮すれば、それは当然起こり得ることだった。


自身の体力が限界に近いことを察して、少女は腰元に手をやる。

もう逃げ続けることは出来ない。であれば、残された道は反撃だけだ。

右手には樹脂製の容器の感触。指先の感覚だけで、容器の栓をはね飛ばす。

少女の指先は微かに震えていた。


そこに宿る感情は恐怖ではなく、緊張でもなく、わずかな期待。

あのスネアウルフは、弱者と侮る相手に傷を負わされたとき、どのような反応をするのだろう。嘲るような瞳は変化するだろうか。

無論勝てるかどうかは分からない。いや、まず勝つことはできない相手ではあるけれど。

それでも少女は別段怖いとは思わなかった。それは、彼女に大切なものが何一つ無いから。

だから、スネアウルフが怒って唸り声のひとつもあげるのならば、その後命を落としたとしてもそれはそれで満足だった。

そう、これから彼女がすることは嫌がらせに近かった。


ゆっくりと、動かない少女に狼が近づいてゆく。

獣の顔だというのに、その表情は明らかに嗤っていた。


それはそうだ。Bランクの冒険者程度、スネアウルフにとっては警戒するに値しない。身体能力が違いすぎるからだ。赤ん坊が玩具を振り回したところで大人には何ら脅威を与えない。つまりはそういうことだった。


スネアウルフにとって誤算だったのは。

彼女が魔法を使えたこと。


「ゆらうゆらうひよ、すがたなきかたち」


歌うような呟きが少女の舌の上を転がる。それは魔法を編む言の葉。呪文と呼ばれるもの。

空気中に漂う魔素が少女の体内に取り込まれ徐々に形を成してゆく。


スネアウルフの鼻先に淡く光る魔方陣が現れた。

スネアウルフの歩みは止まらない。

周囲の空気が変化したことを察しつつも、それが自身を傷つけ得るものだとは分からない。


ついにスネアウルフは少女の目前で動きを止めた。

獣の嬉しそうな喉の震えが肌に伝わるような至近距離に、それでも少女は恐怖を見せない。


「はらうことのかぜをひらうちに」


ささやく言葉は新たな呪文。

少女とスネアウルフを分かつように別の魔方陣が現れる。

後は起動式を唱えれば魔法が発動するのだと、彼女だけが知っている。


少女の右手が動いた。その手に握られた容器から、小さな石の欠片が空中にばらまかれる。

欠片は星明かりを反射しながら、魔物の鼻先に当たった。


その瞬間に。


「火魔法【フレイムボム】、風魔法【ウィンドウォール】」


少女は起動式を唱えた。


少女が投げたものは火の魔石。火魔法の威力を跳ね上げるその石の力は、たとえ欠片だとしても絶大だ。

攻撃系統の魔法の中でも最低火力であるはずのフレイムボムは、夜目にも明るい大爆発を引き起こした。音と光がスネアウルフの頭部を巻き込んで乱舞する。

スネアウルフが上げたはずの悲鳴は、風の壁に阻まれた。

けれども、その壁も限界だ。

すさまじい熱量の爆発に風の壁がピリピリと振動し…

パリン、と軽い音を立てて割れた。


あ、と声をあげる暇も無く、とっさにとった受け身の体勢のまま小さな体は吹き飛ばされる。

何もかもよく分からないままどこかに体を打ち付けて、少女は気を失った。

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