天狼の森
迷宮、それは人知の及ばない場所の総称だ。
砂漠の塔、海底都市、地下洞窟等、様々な形態を持つダンジョンだが、それらを「ダンジョン」と一括りにできる共通点が存在する。
それは、その内部の環境が、周囲と明確に異なっていること。
天狼の森も、無論その例に異ならなかった。
「ふう…」
小さく息をついて、苔緑色の衣服を身につけた少女が足を止める。
彼女の目の前に広がっているのは、昼間であるというのに日の光を通さない陰気な森。いや、実際には森というよりは林と呼称する方が正しいような林立の具合だったが、それでもこの場所は森と呼ばれていた。
少女の数メートル先には、木にもたれるようにして立っている古びた看板。
その先には変わらず暗い森が続いているようにしか見えないが、そこが、ダンジョンの入り口だった。
ダンジョンに入る前に、少女は今一度装備の確認をすることにする。とはいえ、リュックの中まで見ていては時間を喰うので、腰回りだけだ。
手の感触で有るべきものが有ることを確かめた少女は、看板の向こうへ一歩踏み出した。
途端に、景色が切り替わる。
鬱々とした森は、光差す巨大樹の森へ。茫々たる雑草の道は、輝く苔の大地に。
後ろを振り返れば、目の前と同様の美しく静謐な森が広がっている。
ただ字の消えた看板だけが、ダンジョンの入り口の存在を教えていた。
ダンジョンの中では、全てが違う。
景色も、気候も、植生も、動物も、魔物の種類も、全てが。
まるで遠い空間を無理矢理に繋げたように、ここでは何もかもが異なっている。
周囲の様子を伺いながら、少女は胸ポケットに手をやる。
取り出したものは、一見方位磁石に似ていた。手のひらに乗るほどの小さなケースの中に薄い針が浮かんでいる。けれどもよくよく見れば、ケースの中に方角を表す記号は無く、針は木片で出来ていた。
針の代わりの木片は、このダンジョンの木から削り出されている。どういう理屈かは不明だが、このダンジョン内の木は呼び合うらしく、針は常に自身の木を指し示すのだ。
この性質を利用して、冒険者たちは天狼の森に潜る。
少女が持つコンパスは二つ。ひとつは、入り口近くの木を指すもの。もうひとつは、今回の目的である薬草の群生地近くの木を指すもので、それぞれ取り違えないようケースが色分けされていた。
少女はそのうちの緑色の方、つまり目的地への道標が指す方角を確認してから、ダンジョンの奥に歩き始めた。
少女の動きは、重力を感じさせない軽やかさだ。幽霊が歩く真似事をしているように、ぼこぼこと不規則に横たわる巨木の根も、恐ろしい魔物のことさえ気にしなげに、唇に微笑さえ浮かべながら森を進んでいく。
もちろんそれは、油断ではなく、このダンジョンに何度も潜った経験と、客観的な自身の能力を知っているがゆえの余裕の表れだ。
少女とて、初めてこのダンジョンに潜った時は、余裕など無かった。
不思議なものだ、と少女は思う。このダンジョンの難易度も、自分の強さも、大して変わりはしていないのに。
天狼の森は、ひどく静かだった。
普段ならばもう魔物の数体にも遭遇しているはずだが、苔に包まれた悠久の森にはまるで生き物の気配が無い。
まさか、エディン・サンティとその仲間たちが周囲の魔物を狩り尽くしたのだろうか、と冗談交じりに考えた少女は、彼の燃えるような赤髪を幻視する。
ほんの少し可笑しな気分になって、けれどもいつまでも幻を見ているわけにもいかないので、少女は数度瞳を瞬かせた。
視界の赤色は、消えなかった。
いや、違う。
その赤は、実際にそこに有った。
ああ、美しい苔の大地に不釣り合いの鮮やかな赤。
胴体から離れたエディン・サンティの首が、そこには落ちていた。
ほんの一瞬だけ、少女は呆ける。
死体を見るのは初めてでは無い。けれど、今し方思い浮かべた相手の首がすぐそこに落ちているなどということはさすがに経験が無かった。
手袋に包まれた小さな手が、エディンの生首を収める。
まだ、かすかな温もりが残っていた。まだ年若い顔は恐怖のためか、それとも苦痛のためか引き攣り、叫ぶように開いた口は嘘のように赤い。
首の切断面は粗かった。
周囲を捜索すると、離れた場所からもうひとつの首と誰かの胴体の一部が見つかった。
首の様子はエディンのものと同様であまり参考にはならなかったが、胴体の方には獣が噛んだような傷跡が残されていた。
少女は人差し指の関節を唇の下に当てる。
このダンジョンでこの傷跡を残すのならば、この惨状を成した生物はAランクの魔物、スネアウルフに間違いないだろう。
スネアウルフの外見は狼に似ており、通常群れを作って行動している。体長は2メートルほど、体高は大人の腰にまで至る肉食の魔物だ。特徴は体表の大部分を覆う固い鱗。
この森の頂点に立つ魔物はしかし、常ならばダンジョンのより深部を縄張りにしているはずだった。
加えて、頭のいい彼らは滅多に冒険者を襲わない。武器や防具を身につけないそこらの草食獣の方が狩りやすいからだ。
なぜスネアウルフはこんな場所まで現れ、狩りにくい冒険者を襲ったのか。
納得できる答えは、今のところ見当たらない。
目に残る赤色から顔を背けるように、少女は頭上を見上げた。薄い木の葉を通して降り注ぐ光は、先ほどよりもオレンジがかっている。
夕暮れが近付いているのだ。
穏やかな時の流れを感じさせる光が、唐突に少女の本来の目的を思い出させる。
このまま先に進むか、それとも一度帰るかを逡巡して、少女は結局後者をとった。目的地まであと少しであることが惜しかったが、それだけの感情で全てを失うとすれば、そちらの方が馬鹿らしい。
転がる首と胴体に一粒ばかりの未練をも見せること無く、少女はくるりと踵を返した。




