長い一日の始まり
オルゴールの音が聞こえる。
私は優しい腕の中でまどろんでいる。秋の日だ。窓からは赤みを帯びた日の光が差し込み、机の上のグラスまでをセピア色に染め抜いている。
私を抱く人は、小さくオルゴールの旋律を口ずさんでいた。
ああ。
この穏やかな時間が長くは続かないことを、私は知っている。
懐かしい夢を見ていた。悲しいくらいに、幸せな夢を。
小さな部屋の中で、少女は目を覚ました。
身を置くベッドはひどく固く、上体を起こした際に目尻から流れた夢の名残も相まって、少女は沈鬱な気分になる。
ふらふらと立ち上がってのぞき込む鏡には、灰色の髪と、鈍色の瞳の少女。
なんと覇気のない瞳。細い顎。主張のない顔立ち。死人のような顔色。
端から見ればその容貌は整った部類に入るのだが、少女は自分の生気の抜け落ちたような顔が好きではなかった。
鏡に微笑んでみても、瞳に光の宿らないそれは、まるで空虚な空箱のようだ。
どうしようもないと眉を顰めれば、鏡の向こうの少女もそれに習った。
軽く首を振って、少女は準備を開始する。
ワンピースに似た夜着から、苔緑色の上衣と動きやすい下衣に着替え、革の太いベルトには、愛用のナイフにポーションを何本か差しておく。背には重量軽減効果のついたリュック。防具は体格の関係で身に着け辛いため、少女が選ぶのは防護の術式が組み込まれた長い繊維布だ。この布を急所である首に巻き付ければ、薄い布であるにも関わらず、大抵の攻撃は防ぐことができる。
足には薄い鉄板が仕込まれたブーツ。こちらも重量軽減効果がついている。属性付与された武器や防具は高額だが、それがなければ仕事にならないのでは仕方ない。
最後に指の第二関節までを覆う手袋をつければ、彼女の支度は完了だ。
「よし」
小さな白い手が、粗末な借家のドアを開ける。
途端に、生温い空気が彼女の鼻先を撫でた。季節は初春。ついこの間まで強固に居座っていた冬は春風にさらわれて、空の高さにその名残を残すばかりだ。
こうして、少女の冒険者としての一日が始まる。
大通りには、まだ夜明け前だというのに大勢の人間が動き回っていた。
仕入れに走り回る食事処の下働き、露店の開店準備を進める商人や職人たち。けれどもこの時間帯に最も数が多いのは、おそらく冒険者だろう。
冒険者とは、冒険者ギルドに所属し、クエストの受注やダンジョン探索によって生計を立てる人々の総称だ。
冒険者はその実力によってランク分けされる。最低はDで最高はSSとなっているが、SSランクの冒険者は、半ば伝説の存在であり、現在は生きているか死んでいるかもわからない男がひとり登録されているだけだ。彼の生存確認がとれないので、実質的な最高等級はSになっている。
Sランクの冒険者は、十万人を超える冒険者人口の、ほんの一握りで、そこに到達するには相当の実力が必要になる。
少女はといえば、Bランクに位置していた。
Bランクといえば、全冒険者のうちでは中堅に位置する。
その地位を担う者としては、彼女はあまりに若かった。どう見積もっても15を超えないだろうその容貌は、彼女が冒険者となって1,2年のうちにBランクに至る昇級試験を突破したことを表している。
冒険者の多いこの都市においても、その速度は希なものだった。
だから、少女は気味悪がられた。
最初のうちは引く手あまただった。この街に来て1年でBランクになった才能ある少女。命の危険を常に伴う冒険者にとって、優秀な味方は何をおいても必要なもので、だからこそ彼女はよく勧誘を受けた。
けれども少女は差し出されるどの手をもつかまなかった。
そうして一人でクエストを受け続けていると、噂が流れ始めた。例えば、冒険者の身分を借りて仄暗い仕事に手を出しているだとか。本当の実力はBランクに遠く及ばず、金の力で昇級試験を合格したのだとか。パーティーメンバーを殺してギルドから厳重注意を受けたのだとか。
少女は否定も、訂正もしなかった。
なぜなら、その噂の全てが、事実よりもましだったから。
そのうちに冒険者たちの興味は他へうつり、後には彼女に対する苦手意識、あるいは不可解さだけが残ったのだ。
「よお、ノア。ダンジョンに潜るのかよお」
道を歩く少女の肩を、革鎧に身を包んだ少年が背後から無遠慮に叩いた。
衝撃にほんの少し上体をふらつかせた少女は、振り返った先の鮮やかな赤髪を見て、にこりと笑った。
彼の名前はエディン・サンティ。この街の冒険者で、まだ年若いにも関わらずBランクに達したことを折に触れ自慢する彼は、年下のBランク冒険者がとかく気に入らないようで、よくこうして少女に絡んでくる。
最近はほとんどの冒険者に無関心を貫かれる少女は、エディンのことが嫌いではなかった。
「今日も薬草取りかよお、さすがお嬢ちゃんはお花が好きだよなあ!」
言いながらエディンは周囲のパーティーメンバーへと視線を送る。
彼の視線を受けて、パーティーメンバーたちがはじかれたように笑い出した。本当は私に関わりたくないだろうに、と少女は少しだけ彼らを不憫に思う。
「同じBランクでもよお、お花摘みしかしないお前と、魔物を狩る俺が一緒ってのはおかしいよなあ、そう思うだろ、ノアあ」
「はい、そうですね。私もあなたと一緒だなんておかしいと思いますよ」
笑顔で吐き出された返答に、エディンはなんだか複雑そうな表情で「まあな」と頷いた。きっと、少女の言葉に違和感を覚えたものの、どこがおかしいのかまでは分からなかったのだろう。
馬鹿にしているはずなのに笑みを崩さない少女に、彼は眉をいらだたしげに寄せる。
「とにかくよお、天狼の森は今日は俺らの縄張りにするから入ってくんなよ。魔物と間違えて殺しちまうぜえ」
言いたいことはそれだけだったのか、エディンは最後にドンと少女の肩を突き飛ばして去って行った。
彼の言う天狼の森は、この都市に隣接する迷宮のひとつだ。彼の言葉が正しければ、エディンとその仲間たちはそこで狩りをするのだろう。
間が悪いのか何なのか、少女の目的地も天狼の森である。とはいえ、天狼の森は迷い森の別名を持つほど広大なダンジョンで、ダンジョン内での目標も異なることから、内部で出会う可能性は限りなく低いと言えた。
少女とて、いくらエディンを嫌いでないと言っても、危険なダンジョンのなかでまで彼らに出会いたいわけではない。
彼らに会わないことを祈りつつ、少女はダンジョンへ歩を進めることにした。




