ベビーシューズの断頭台
*
吉良綺羅太郎の身柄を引き受けに訪れた、あの白髭の老人。
記憶を頼りに引っ張り出してきた古い新聞のスクラップに、その写真を見つけた。
数年前、華国の辺境の地で巨大コンビナート建設が始まったとき、現地で行われたセレモニーに出席していた際のものだった。少数民族の代表と笑顔で握手を交わす中央政府代表の背後に控えている。
どうやらあのじいさんが、音又財閥総帥の、吉良 馬米治その人であったらしい。なるほど大物だ。それが、あのキラキラの大伯父だそうである。
後で聞いたが音又財閥は、警察局どころか藍潭市政府の肝煎りで官用装備資機材開発に食い込んでるので、上の方はかなりズブズブだという噂だった。
道理で、局長が尻尾を振るわけだ。
「あーあ、まったく変なのと関わっちゃったよ……」
「相手が悪かったなあ、ウラノ。……ていうか、局長が」
市警の自分の席に戻って、手持ちの仕事をまとめ、同僚に頭を下げて引き取ってもらった。ビンジリンもアレクセイも、迷惑そうではあったけど、この流れについては僕に同情してくれている。
「というわけで、明日から一週間、よろしく」
「困るわよ。現場が回んないわよ」
「別のお仕置きを考えてくれりゃいいのに、なあ」
一週間の出勤停止処分。それが僕に、昨日の今日でいきなり下された処罰である。
白髭じいさんの口添えでお咎めなしかと思ってたら、甘かった。局長の顔色を伺うことに余念のない刑事部長が、「吉良の馬米治翁と綺羅太郎先生に大変な失礼のあった不届きな警官に厳重な処分を」つまり僕を、先回りして生け贄に差し出したのである。あの局長にしてこの部長あり、である。
そもそも先方が望んだ処罰じゃなし、なのに僕は見せしめみたいに晒されて、同僚の仕事の負担は増えて、誰ひとり得をしてない。
というか、局長だってこんなことで刑事部長の評価を上げるとも思えないんだけど……まったく、他人の尻を進んで舐めたがる奴のやることはわからない。……わからないけど、それを面白がって乗っかっては人を上げたり下げたりする連中がいるから、組織ってのは嫌なものだ。
ともあれ、僕の警官バッヂは取り上げられて局の金庫の中だ。今日から一週間は、安アパートの部屋に蟄居して、飼い猫を腹に乗せテレビでも見て過ごすしかない。
「くそっ……」
現像が終わって送られてきたばかりの写真をまとめた束を、机に放り出した。
琥珀路の古い洋館。血まみれの女の死体。ゼラニウムの鉢。そして忌々しい白スーツ姿の男。今朝の現場写真が、トランプみたいに机上に流れる。
「……あ、そうだ、ビンジー。
参考までに、いちおう気に留めておいてほしいんだけど……」
以上。
僕が担当するはずだったこの事件はビンジリン警部補に引き継がれ、僕は市警のビルを後にした。
*
「ウラノ! あの事件、やっぱりヤバいわよ」
「え……あ? うん?
なに? だれ?」
「あたしよ。仕事がないからって、何時まで寝てるのよあんた!」
あれから散々飲み散らかし、ふてくされて朝寝を決め込んだ翌日の昼過ぎ。
同僚のビンジリン警部補からの電話で、僕は叩き起こされた。
琥珀路における身元不明女性殺人事件の捜査に進展があったとの報告である。
もちろん、彼女には処分中の僕にいちいち事件のことを報告する義務なんてない。というかむしろ、そんなことしてるとバレたら上にいい顔はされないはずだ。
それでもわざわざ仕事の合間を見て描けてきたということは、よほど「ヤバい」なにかがあったのだろうか。
「あんたの言ったとおりだった。
屋敷の三階の出窓に、あの鉢に合う大きさの、鉢皿だけがあった」
「……」
あのとき帰り際に吉良綺羅太郎が、僕に囁いたのだ。
『死体が倒れていた場所の真上に、三階の出窓があるだろう。ゼラニウムの鉢は、その窓から落とされて、被害者の頭を直撃したものだと思う』
彼が言っていたとは明かさず、僕の推理としてビンジリンに伝えていた。まあ、参考程度にと。
「ご明察、というところ。
冴えてるじゃない、大したもんね!」
僕は唸った。既に自分に関係がなくなってしまった事件とはいえ、気にならないと言えば嘘になる。理不尽に捜査を外された悔しさもあいまって、事件のことは結局ずっと、頭を離れない。
「だけどそもそも、そんなことって可能かしら?
十メートル以上の高さから、動き回る生きた人間の頭を直撃するように、正確に鉢を投げつけるなんてことが?
ウラノ、どう思う? あんたが抜けたのは厳しい。もう、なにから手をつけていいのかわからない!」
「ああ、うん、ああ。……落ち着いてビンジー、きみの声、すごく二日酔いの頭に響く……」
参った。ビンジリンは優秀な警官だけど、興奮すると早口になり、声もどんどん高くなって、しまいには何を言ってるのかよくわからなくなる時がある。
「薬物反応もなかったし、死因はあの鉢の一撃に間違いないって、検死結果は出ているの。だけどやっぱり、無理がある」
「そう……遺体の下から、なにか出てきた?」
「何もかもが、あまりにもおかしいのよ。三階のあの部屋はもう、気が狂ってるとしか思えないし……え?
遺体の下?」
「言ったろ?
『死体を移動させたら、頭の下をよく調べろ』って。
なにか、“普通じゃない物”が出てくるはずだとも、言ってた……言った」
「ああ、そうね、待って、そうよ、……血まみれの遺体の下から、……変なものが、出てきた」
「変なものって?」
「赤ちゃんの、沓の片方」
「クツ?」
実用の革靴ではない。生まれたばかりの赤ん坊の足に履かせる、手作りの、柔らかい絹のベビーシューズ。
幸福な妊婦が、間もなく産まれる我が子のため、揺り椅子に腰掛けて鼻歌を歌いながら細かい刺繍を刺す、あの小さな小さな布沓だそうな。
その片方が、遺体の潰れた頭の下にあったと。
「それだ」
僕は言った。ようやく少し目が覚めて、頭が回りはじめた。そうか。それだ。吉良綺羅太郎の言っていた、“普通じゃない物”は。
「ビンジー、想像して。きみがあの被害者で、そのとき、外に物音を聞いたとする。それでなにかと思って、様子を見にテラスに出る」
「……ええ」
「テラスに、なにかが落ちている。木の葉やゴミみたいな、ありそうなものじゃない。また、いかにも怪しげだったり危険そうな、警戒心を抱かせるようなものでもない。なにか小さくて興味深い、“普通じゃない物”が、落ちているんだ」
「それが、あのベビーシューズってこと?」
「きみはそれを覗きこむ。よく見ようと身を屈め、顔を近づける。さっきまでこんなものはここになかった。テラスに人が来たのも見ていない。どこから来た?」
「……上から、落ちてきた?」
「小さな沓は、今ある場所の、まっすぐ真上から落ちてきたんだ。
それを落とした犯人は、きみがそれを覗き込んだとき、まったく同じ地点からもう一度、今度はゼラニウムの鉢を落とす」
「ああ!」
「“普通じゃない物”は、被害者をおびき寄せる罠だ。
まるで断頭台に掛けられる死刑囚のように、被害者の頭が自分から、鉢の落下予定地点にやってくるのさ」
「うえー……」
いつも表情豊かなビンジリンが、電話の向こうで思いっきり顔をしかめたのが目に見えるようだった。
「悪趣味……」
「殺人に趣味がいいも悪いもあるもんか」
それにしても驚くべきは、どうやらこの殺害方法をいち早く看破していたらしい、吉良綺羅太郎の慧眼である。
ちゃっかり僕の手柄にしてしまったけど、まあそれはよかろう。
「ウラノ……あんた、ほんとに冴えてる。どうしちゃったの?
ねえ、また困ったら電話する。現場は大変なの。あのお屋敷、絶対に変よ」
こんな称賛と尊敬の混じったビンジリンの声を聞くのは初めてかもしれない。なんだかすごく気分がいい。頼られてるって感じだ。
「変って、どんなふうに?」
「ゼラニウムの出窓があった三階の部屋は、その、なんて言ったらいいのか、……人形部屋なの」
「人形部屋?」
「まるでおままごとみたいに、等身大の機械人形が、部屋のあちこちに置かれてるの。お茶を飲んだり煙草を吸ったり、編み物をしたり楽器を演奏したり。
すごく古いもので、みんな壊れてるのは一応、確認したんだけどね。正直、気味が悪い」
「へえ」
「この中のどれかが動き出して、窓を開けて、……ゼラニウムの鉢を落としたんじゃないか、って。
馬鹿馬鹿しいとは思うけど、そんな気になる。だってあの屋敷には、生きてる人間は、あの遺体の女性しか暮らしてなかったんだもの」