美少女・ゼラニウムの鉢
「まさか、そんな! それ本当のことなのか?
じゃあ僕が探してたビアンカ・ウェンは、もうとっくにあの屋敷には住んでなかったのか?」
吉良綺羅太郎は呆然と天を仰いだ。
「畜生め!」
「そういうわけだ。
で、教えてくれよ。きみがそんなにも会いたかったビアンカ・ウェンが何者なのか」
「ああ、ビアンカ・ウェン、……彼女は、……」
こちらの狙いどおりについ毒気を抜かれた吉良綺羅太郎が、口を開きかけた時だった。
「おい浦野君! まさかここか!」
バーン! と勢いよく扉が開いて、禿げ上がった頭頂部まで真っ赤になった大男が、取調室にどかどかと駆け込んできた。
「せんせ、先生! 吉良綺羅太郎先生!
あーーッ浦野君! なんてことをしてくれたんだ、きみは!」
いや、それはこっちの台詞である。
重要参考人と話してる最中の取調室にいきなり乱入するなんて、たとえ警察局長だって許されない職務妨害だぞ! ……と思ってよくよく見たら、なんとそいつは僕らの大ボス、藍潭市警察局長その人だった。洒落にならない。
「はぁーッこれはもう、ま、こ、と、に、もぉーーーし訳、ございませんでしたッ、吉良先生!」
そしていきなり綺羅太郎に向けて、ガバッと腰から直角のお辞儀をする局長。あっけにとられる吉良と僕。
「なにぶん、末端まで私の指導教育が行き届かず! 部下がこのような非礼をしでかしまして!
先生には大変にご不快な思いをさせることとなりッ! 平に平に! お詫び申し上げますッ!!」
たまたま殺人事件の現場に居合わせた怪しい奴に話を聞いてただけだし、それがたまたまちょっと金持ちの有名人だったというだけのことなのに、この人、何をそんなに慌ててるんだろう。
もしかして音又財閥ってのは、市警の上層部に余程のコネでもあるんだろうか。
しかしたとえあったとしても、それで無条件に相手を捜査対象から外してよいはずがない。なんなんだ、この局長。普通に仕事してた僕を、なにか不祥事でも起こしたみたいに。
怒鳴られた僕が慌ててオロオロうろたえるのを期待されてたんだろうが、むしろ怒りしか湧いてこない。
日頃ふんぞり返って部下を人とも思わないような態度だった局長が、真っ赤な頭頂部に汗を浮かべてペコペコするのが、見ものですらある。
「浦野君ッ! 浦野ッ! アタマ、アタマッ!」
憮然と突っ立ったままの僕に、頭を下げて謝罪するよう促す局長。
こりゃ面倒なことになるなぁ、なんか処分されるのかな、と思いながら吉良綺羅太郎を横目で見ると、明らかにドン引きした顔でこちらを見ていた。
「いえ、別に……じゃあ僕、帰っていいのかな?」
「いやちょっと待て、さっきの話がまだだ」
「ハッあちらにお迎えの方々がお待ちです先生!
どうぞこちら、お足元にお気をつけて……ああっこんな汚い取調室の汚い椅子なんかに……素敵なお召し物が……」
局長は帰りかけた綺羅太郎を止めようとする僕を制し、間抜けな盆踊りみたいに、頭を下げたまま両手をぶんぶん振って綺羅に退室を促す。
これから大事なことを追求するはずが、とんだ番狂わせだ。大ボスの許可を得た吉良綺羅太郎は、僕の顔を見ながらヤレヤレと言わんばかりに肩をすくめて立ち上がった。
「綺羅太郎!」
その時。
下手すりゃ下げた禿頭より高いくらい飛び出した局長のお尻の向こうから、なんだかすごいオーラを醸し出す、和服姿に白髭の老人が現れた。
*
「ここにおったか、綺羅太郎」
「お兄様!」
白髭の重々しい声に、可愛らしい女の子の声がかぶさった。
え、と思ったら老人の後ろから、十歳ほどの洋装の女の子が、ひょいと現れる。
「ああっ吉良様! お嬢様!
こんなむさ苦しい場所にお入りになってはいけません、ささ、どうぞあちらに! あちらに!
先生もただ今すぐに、ええ、よろしれば応接室の方でご休憩いただければ!」
今度は背後の老人と女の子に向き治り、慌ててまたペコペコし始める局長を、白髭の老人はゆったりと微笑みながら制した。
「いやいや局長さん、どうぞお気遣いなく。
すみませんでしたな、研究のこととなると見境なく、どこにでも入り込んでしまう子で」
「いえいえいえいえ!」
すごい。見た感じ八十は越えていそうな老人だが、声には強い張りがあり、なんとも言えない威厳を感じる。只者ではなさそう。
しかしこの方、吉良綺羅太郎の何なのだろう。吉良様と呼ばれていたからには身内なのだろうけど、父親にしてはだいぶ老けてるし、祖父だろうか。
その老人の羽織の袂を掴みながら、黒髪の女の子は大きな黒い瞳をぱちくりして狭い取調室を見回した。
その眼差しが、最後に僕のところでぴたりと止まる。
形のよい眉が、きりりとつり上がった。
「貴方、こんな物置みたいな部屋に私の兄を閉じ込めて……いったい兄に、何をなさってたんです」
「えっとその、事件の現場に居合わせた関係で、色々お尋ねしてました」
「兄が、音又の吉良綺羅太郎ともあろう人が、恐ろしい人殺しをしたとお疑いですか!」
「いえ、いえもちろん、犯人と決めつけてのことではありませんよ。被害者の方との関係についてうかがっていた次第で」
まだちゃんと聞かせてもらってはいないけど。
「まあ……」
女の子は、年齢に似合わぬ大人っぽい表情で眉をひそめた。
まだ小学生くらいなものだろう。美人とかそういう目で見れる年齢じゃないけど、まさしくお人形みたい、という形容がしっくりくる、整った顔立ちのお嬢さんである。
じっと見つめられて、思わず後ずさりたくなってしまった。正直、禿頭から湯気を立てて怒鳴り散らす局長なんかより、この子の真っ直ぐな視線の方が、ずっと凄みがある。
美少女は僕を忌々しげに睨みつけてから、綺羅太郎に歩み寄ると、そのままぎゅっと抱きついた。
「お兄様、……ご無事でよかった」
「ごめんよ、ごめんよ凛子」
「もうお昼になるのにお帰りにならないから、凛子は心配で……聞けば琥珀路で殺人事件があったとかで、お兄様が警察に逮捕されたと聞いて……」
お兄様と呼ぶところをみると、この美少女は綺羅太郎の妹なのだろう。
髪を乱した白いスーツの美青年と、臙脂色のベルベットのワンピースドレスを着たお人形のような美少女は、互いを慈しむようにひしと抱き合い、見つめ合った。
「僕は逮捕なんてされてないよ、凛子。連絡せずに悪かったね」
「だけど無理矢理に警察に連れて行かれたのでしょう? ひどい仕打ちだわ」
うわぁ、なんというか……このふたり、絵になる。
背景が殺風景な取調室というのが、またニクい。映画のワンシーンか、美術館に飾ってあるでっかい油絵みたい。
自分の表現力が乏しいのが悲しいが、とにかくこのふたりの醸し出す神秘的な雰囲気たるや。金持ちとか美形とかいう枠で括れない、なにか神々しさすら感じる。
僕の隣に突っ立った警察局長も、見ればぽかんと口を開けて、ふたりに見とれていた。
「局長さん、刑事さん、では綺羅太郎を連れて帰りますが、よろしいかな」
白髭の老人が局長と僕に頭を下げた。腰は低く言葉も丁寧だけど、起きなおってこちらを見つめる眼力には、有無を言わせぬものがある。
ハッと我に返ったらしい警察局長に促され、杖をついた白髭の老人と、手に手を取り合った綺羅太郎とその妹の美少女の三人は、取調室を後にした。
局長がギロリと僕を睨んだが、それに気づいた老人がすかさず声をかける。
「ああそれと、そちらの刑事さんは誠実に職務を遂行されただけのこと、どうぞお咎めなどなきように」
ハッそれはもう、ハッ、ハッ、勿論でございます! と平身低頭している局長の隙をついてその時、吉良綺羅太郎が僕に駆け寄ってきた。
「浦野君! ちょっといいか」