吉良綺羅太郎、登場
「ねえオルガ、これで私は、地獄に堕ちるわね」
墓石代わりの白い大きな石の前に膝をついて、女は呟いた。
「奥様。地獄なんてものはどこにもありません。
それは人間の作り出した迷信です」
女の後ろに控えたオルガは、機械仕掛けの腕を持ち上げ、人肌に温度設定された硬いてのひらを、女の背中にそっと当てた。
「いいえオルガ、お前にはわからないわ。わかるはずがないわ、人間でないお前なんかには。
人を殺した人間は、地獄に堕ちるのよ」
ついさっきここで穴を掘り石を運んだオルガの手指は、水で洗ったけれどまだ少し、庭土の泥で汚れている。
その手に、女の背中の震えが感知される。悲しみでも悔恨でも自責でもなく、ここにあるのは恐怖の感情だ。ただただ身勝手な、人間の。
女は血の気の失せた顔を上げ、虚空を見つめて喘いだ。
「この子のこと、いつかバレるわ。
……警察が、来るかも……」
「大丈夫、オルガが、奥様をお守りします。
坊やのことは、永遠に秘密に」
オルガは囁く。オルガの合成音声は優しく、女の耳元のおくれ毛をそよがせる。
「ほんとに?」
女は振り返って、オルガを見上げた。
「ほんとにお前、誰にも秘密にできる?」
「ええ。永遠に」
二人の前の白い石が、オルガの誓いを聞いている。
女はこれから一生、自分の庭の隅に、この石を隠して生きるのだ。恐ろしい罪を埋葬した目印。
「でも」
女の目に、涙が滲む。
「……たとえ誰にもバレなくても、きっといつか、恐ろしいむくいがあるわ……」
「大丈夫です、奥様」
震える手で顔を覆った女の肩を抱いてオルガは、歌うように囁いた。
「あなたは、大丈夫です」
*
六月の早朝、その死体を発見したのは、新聞配達の少年だった。
ウェン邸の庭木に烏がたくさん止まっていて、気になって庭に回ったらマダムが倒れているのを見つけた、と。
「あの、これまでこちらのお宅で、そんなの見たことなどなかったので……異変を感じた時にはできるだけ確認するようにと、おいら、ボスから言われてて、……だから、お庭の方に回ってみたんです、そしたら、こんな……」
「いいんだよ、きみのボスにそれをお願いしてるのは、我々市警なんだ。
通報をありがとう、お手柄だったね」
現場は藍潭市旧市街の住宅地、琥珀路二十五号に建つ、蔦の絡まる三階建ての古いお屋敷。比較的治安は良い地域で、強盗や殺人などの発生は、ほとんど聞いたことがない。
蒸気式自動車を飛ばして僕が到着したときには、制服警官たちの手で、すでに規制線が張られていた。
若い刑事がメモを取りながら第一発見者の少年に話を聞いているのを横目に、まずは死体の確認に向かう。
「近所の子どもらにはここ、幽霊屋敷とかって呼ばれてましたけど、マダムは全然そんな、変な人じゃなくて、……上品で綺麗な方でした……新聞代だって、必ず期日に用意してくださってたし」
ハンチングをかぶった少年は、初めて目にした凄惨な死体によほどショックを受けたらしく、泣きそうな顔で唇を震わせていた。
庭に回って、納得した……無理もない。
なにしろ彼が発見通報してくれた死体ときたら、でかい素焼きのプランターで、ど派手に頭をぶち割られてたんだから。
屋敷の庭に面した小さなテラスは血の海だった。
そこに割れたプランターの破片と鉢土と、植えられてたゼラニウムの真っ赤な花や緑の葉が散乱して、女の、裾の乱れたネグリジェと裸足の脛が白い。一瞬、クリスマスのディスプレイみたいに見えた。
しかし実際にはクリスマスどころか、ここ藍潭市の六月はもう真夏と言って差し支えない気候なので、今朝も気温はすでに高い。血の匂いが立ち込めてるし、烏につつかれた死体には蝿もたかってる。
警察の仕事なんて、一年中こんなもんだ。暑い季節にはとろけた死体、寒い季節には凍った死体。犯罪者を捕まえても捕まえても、事件はなくならない。
役に立つものも美しいものも、新しい良いものを何ひとつこの世に産み出さない自分の仕事に、時々うんざりする。けれど、誰かがやらなきゃ社会は回らない。
「ありがとう坊や。怖かっただろ、よく頑張ったな。
あとはおじさんたち警察の仕事だ。こんな非道いことをした犯人は必ず捕まえるから、心配するなよ」
聴取を終えたらしい先ほどの少年に声を掛ける。
仕事柄、おじさんと自称するのにも抵抗がなくなってしまった。もう何年になるんだろう。東都の警察学校を卒業して藍潭市警に配属され、はるばる海を越えてこの国際都市に赴任して来たのが、ついこの間みたいな気がするのに。
藍潭市は華国の南東部に位置する海沿いの都市である。
この都市は二十数年前華国政府から“国際機械特区”に指定されて以来、西の羅州各国や北の瑠国に南の竺国・新大陸の亜国・そして我らが日国その他の、政府機関や先進企業、研究者や技術者たちの集まる一大国際機械都市として発展してきて、今や人口は数百万人に上る。
最先端の蒸気機関とそこから発達した高度な科学技術が惜しみなく活用された藍潭市は、間違いなく今、世界でもっとも未来を体現した国際都市なのだ。
さて第一発見者の新聞少年を刑事に店まで送らせ、時計を見ると、もう朝も七時を回っていた。
「ご遺体が傷む前に現場を済ませよう。写真は撮り終わった?」
「はいウラノ警部補、今終わりました。あとは資料を、もう少し……」
首からカメラを下げた鑑識係が額の汗を拭いながら答えたとき。
「うわ、うわぁああ!」
素っ頓狂な悲鳴が響き、みんな飛び上がった。
振り返って見たらそこに、……なんと、いかにも場違いな人物が見えて、思わず二度見、三度見する。
無骨な警察官の行き来する凄惨な殺人現場になぜか、瀟洒な白いスーツを着た若い男が、テラスの向こうの生垣に背中をめりこませて、へたり込んでいたのである。
*
「僕は藍潭市警の警部補で、浦野巌といいます。
これから、亡くなられたビアンカ・ウェンさんとあなたとの関係などについて、少しお話を聞かせていただきたいのですが」
変死の現場に突然闖入してきて、テラスの死体を見るなりぶっ倒れた白スーツの青年は、参考人として市警本部に引っ立てられ……もとい、任意でご同行いただいた。
現場が一段落ついて本部に戻ったたところで、僕が話を聞くことにした。まだ殺人事件と断定はできないが、その可能性は高い。関係者はすべて、慎重に調べる必要がある。
そもそも彼が現れたのは朝の七時。一般的に人の家を訪問するには早すぎる時間だろう。その一点だけでも、十分怪しい。
なんとか正気を取り戻したという白スーツは、茫然自失といった表情で、取調室に座らされていた。
「大丈夫ですか?」
「え、はぁ……いやすみません、さすがにびっくりしちゃって」
まだ幾分か青ざめた顔で、白スーツは勧めたコーヒーに口をつける。
そりゃそうでしょうね、とは答えたものの、正直僕は、こいつはなんとなく油断のならない男だと感じていた。
死体を見て倒れたのはご愛嬌として、あれだけの数の警官で囲まれた殺人現場にいつの間にか入り込むなんて、なかなか普通はできない芸当だ。
差し向かいでよく顔を見たら、ちょっと驚くほど整った顔立ちをした青年だった。僕より少し年下ってとこか。まだ二十代だろう。
夏物の白いスーツは体にぴったり合っていかにも洒落ていて、今年仕立てたばかりという風情。そのくせ袖から覗くカフスボタンはアンティークらしい。つまりおそらくは祖父や父親のお下がりで、こういう物を身につけてるのは、単なる金持ちというよりも、良い家柄のお坊ちゃんの可能性が高い。
そう思って見れば姿勢も良い。所作もなんだか、普通の若者より上品に思えた。縁の欠けたカップに注がれた安物のコーヒーを啜る姿すら、まるでどこかで見た映画のワンシーンのように見える。……というか奇妙なことに、本当にいつか、どこかで見たことがあるような気がするんだが。
「えーとまずは、お名前を教えてください」
「……キラキラ太郎です。よろしく」
「はい?」
なんだこいつ。ふざけてるのか。と思ったら青年は、慣れた手付きで懐から名刺を取り出すと、取調室の机の上に、トランプみたいにシュッと滑らせた。いちいち気取った奴である。
「……」
至ってシンプルな名刺だった。しっとりした上質紙に金の箔推しの縁取りがされて、氏名の六文字だけが真ん中にあるほかは、肩書きも連絡先も、なにもない。こういう名刺を持ち歩くとは、まあ普通の勤め人ではなさそうだ。
それにしても、妙ちきりんな名前だな。
「なるほど、……吉良 綺羅太郎さん、ね。
確かに」