第八幕
傾き始めた夕日の日差しが眩しい五月晴れのその日。
喫茶石切堂の扉の前に、大きく深呼吸をする姫子の姿がありました。
「よしっ、今日は可憐ちゃんに謝って、絶対に仲直りするぞ」
自分に言い聞かせるように小さく呟き、姫子は石切堂のドアノブに手をかけました。
その時、ふと視界に女の子の姿が映り、ドアノブから手を放し、姫子は少女の方に振り返りました。
「可憐ちゃん……」
いつもなら、姫子を見つけるとニコニコしながら駆けて来る可憐でしたが、今日の可憐は、顔を背けながら姫子の前に歩いてきて、姫子の目も見ずに小さく言いました。
「おはよう。風邪、治ったみたいで良かったな」
「え……あ、うん。ありがとう」
様子の違う可憐に戸惑った姫子でしたが、そのまま石切堂へ入ろうとする可憐に、姫子は慌てて声をかけました。
「あ、あのなっ! 可憐ちゃん……その……この前はホンマにひどいこと言ってしまって、ごめんなさいっ!」
姫子は思い切り頭を下げました。
「……わたし、気にしてへんから」
可憐は姫子に振り返ることもなく、そのまま店内へと消えて行きました。
一人残された姫子は、ぼそっと呟きました。
「……めっちゃ気にしてるやん」
時刻が夜の七時を回り、今日も石切堂では、劇団おとぎの花園の稽古が始まっていました。
基礎練に続き、立ち稽古が始まり、舞台上には姫子と可憐が立っていました。
七海が舞台の前で『海豚』を抱えながら見守る中、そばにいた作菜が「いきまーす」の言葉の後に、手をパチンッ! と、叩きました。
それは、演技開始の合図でした。
「じゃあ赤ずきん、このバスケットの中のケーキとワインを無事におばあさんの家まで届けてちょうだいね。おばあさんは病気で弱っているけれど、これを食べるときっと良くなるわ」
台本を持ったままの姫子が、まだまだたどたどしい演技で、赤ずきんのお母さんのセリフを言いました。
「わかったわ、お母さん」
対して赤ずきんを演じる可憐は、稽古2週間目にしてすでに台本を手放し、普段とは全く違う表情と声で、姫子との違いを見せつけます。
「それとね、赤ずきん」
姫子のセリフがまた続きます。
「行くときは、ちゃんと静かに歩いて、森には入らないようにするのよ。森にはこわいオオカミが出るからね。そして、おばあさんの家に着いたら、ちゃんとおはようございますを言うのを忘れちゃダメよ。あと、ご挨拶の前にあちこち覗き込んだりしないでね」
「よーく気をつけるわ、お母さん。じゃあ、行ってきまーす」
そのセリフが終わると、パチンパチンッと、作菜が二度手を叩きました。
「はい、そこまで。えっとなー……姫、まだまだ病み上がりやからしょうがないと思うけど、もうちょっと声大きくっていうのと、言葉に抑揚も無いから、注意して。で、もっとゆっくりセリフ言ってもいいから、滑舌に気をつけて」
「は、はいっ」
言われた姫子は、すぐさま台本に言われたことをペンで書き込みました。
「で、2人とも。親子やねんから、もっと親しい感じを出して。ちょっと他人行儀やわ」
それを作菜に言われて、姫子と可憐は、ドキリとなりました。
「どうしたん? お2人さん」
作菜が微妙な雰囲気に気づいて尋ねると、可憐が口を開きました。
「あの……お母さん役を別の人に変えてくれませんか?」
「えっ?」と、姫子は振り返りました。
可憐はそんな姫子の顔も見ません。
「……そんなん出来るわけないやろ。役みんな埋まってんねんから」
「……分かりました」
可憐と作菜の会話を聞いて、姫子は少しうつむきました。
そこに、カウンター席の方から声がしました。
「演出、ちょっと来てー」
それは、カウンター席で裏方作業をしている明の声でした。
ちなみに『演出』とは、『演出家』を略したもので、役者以外にも演出家を兼任している作菜のことを指していました。
「あいよー。あ、姫、前に教えた半身がまだちゃんと出来てなかったから、可憐に教えてもらっといて」
そう言って、作菜は明の元へと行きました。
「えっ……」
作菜の言葉に、姫子と可憐は気まずそうにしました。
「あ、あの……」
姫子が可憐に歩み寄ろうとすると、可憐は慌てて、奥の部屋へと駆けて行きました。
「わたしオシッコっ。七海、パスっ!」
「えっ、ちょっとっ! もぅ、女の子がオシッコとか言うな」
可憐に突然振られた七海は、口を尖らせました。
別の意味で可憐にフラれた姫子は、七海に向き直りました。
「……可憐ちゃんにフラれちゃったみたいや。七海ちゃん、ゴメンやけど、教えてくれる?」
「……わかった」
七海は姫子に『半身』を教えるために、舞台へ上がりました。
ちなみに『半身』とは、相手に対して体を斜めに向けることです。
舞台上では、たとえ相手が後ろにしても、基本的にお客さんにお尻を向けないようにすることが鉄則ですので、――例外を除いて――役者たちは、話し相手に対して半身をとって会話をします。
演技ド素人の姫子はまだ、真横を向いたり、後ろを向いたりしていました。
七海が姫子に半身を教えている様子を、作菜と明がカウンター席から見ていました。
「な~んか、突然倦怠期って感じやね、お姫ちゃんと可憐ちゃん。なんかあったんかな? やっぱりこの前の雨の日?」
明が、明のメモ書きが書かれた台本に目を通している作菜に、ぼそっと言いました。
「さあな。どっちにしても、子供ちゃうねんから、そのうち仲直りするやろ」
「よう言うわ」
作菜は台本から明に目を移しました。
「どういう意味?」
「あんたはいつまで経っても仲直り出来へんやん、奏ちゃんと」
作菜は、「そのことか」という感じで、台本に目を戻しました。
「……それとこれとは話が別や。それに、奏とはケンカちゃうし」
「ふ~ん……それにしても、そろそろお姫ちゃんに奏ちゃんのこと言わんでええの? 奇跡的にまだ遭遇してへんみたいやけど、公演前の1週間合宿の時には、遭遇するかもしらんで」
「人の妹をサルかクマみたいに言うなっ。……まあ、奏も姫のことを避けてんのかもな。姫は公演前日と当日しか泊まっていけへんみたいやから大丈夫やとは思うけど……まあ、公演が終わったら、姫にも紹介するつもりや」
「絶対やで。そもそも、作菜が奏ちゃんと早く向き合って仲直りすれば、わたしらも気苦労せんで済むねんから」
「へいへい。あ、稽古に戻らな。照明と音響、このプランでええと思うわ」
そう言い残して、作菜は逃げるように舞台の方へと戻っていきました。
「あっ、逃げたっ! ……仲直りか……まあ、わたしも人のこと言われへんけどな……」
トンっと、明の前に水の入ったグラスが置かれました。
「あ、マスター。ありがとう。……なあ、マスター、仲直りするんて、やっぱり難しいことやねんな」
「ホンマに、そう思うわ。この年になってもな」
マスターもまた、何か思いつめたように、言葉を返しました。
やがて店内に、また稽古の声が響き渡りました。
それから月日は流れていき、舞台稽古は音響や照明を合わせた本格的なものになっていき、台本の始めから終わりまでを通した『通し稽古』も何度か行いました。
明の手作り衣装の衣装合わせをしたり、七海の手書きイラストを印刷したポスターも仕上がり、いよいよ、舞台の本番に向けて、否応無しに各々の胸に緊張感が生まれ始めていました。
……そんな中にあっても、姫子と可憐の関係は修復を見ませんでした。
そして、公演前日。
梅雨入りした街の上には、6月の分厚い雲が浮かび、閉店後の喫茶石切堂内では、公演のための仕込み作業が行われていました。
木造の舞台上には『パンチカーペット』という小さめのカーペットがしかれていました。
通称『パンチ』と呼ばれるそのカーペットは、草原や砂浜、コンクリートの上など、演劇のシチュエーションに合わせて、様々な色のものが選ばれます。
今回は、草原に合わせた黄緑色のものが使われ、演技中にパンチがずれたりしないように、四方向や中心部をしっかり固定したのち、おばあさんの家の部分には、パンチの上から別のカーペットがしかれていました。
奥の壁には七海お手製のイラストが大きく貼られ、それを背景に、おばあさんの家を模した小道具や、木箱を積み重ねて作られた簡易ベッドが置かれていました。
待機している役者たちを隠すための『袖』は、物置から使い込まれた大きな板を取り出し、やはりそれに、七海のイラストを張り付けたものでした。
そのどれもこれもが、金銭のかからない、手近なものばかりでした。
「舞台って、中から見たらこんな風になってたんですねぇ」
舞台づくりを指揮する作菜の隣で、出来上がっていく舞台を見て、姫子が言いました。
「まあ、リアリティのためにお金をかける人もおるけどな。がっかりした?」
作菜の質問に、姫子はブルブルっと首を横に振って、答えました。
「初めてここで『シンデレラ』の舞台を見たときは、なんかホンマに夢の世界って感じに見えてましたけど、こうやって裏側を見たら、逆に親近感が沸くっていうか、もっと好きになりました」
「それは良かったわ。あ、ちなみに、あの照明器具も工事現場とかにある安いやつやねんで」
袖のそばに設置された赤い照明器具を指さして、作菜が言いました。
「スピーカーやって、店に内蔵されてるもんを借りてるだけやしなぁ」
2人の話を聞いていた明が、話に加わりました。
「……はじめは、デカい劇団みたいに良い物を作ろう、集めようって思っててんけどな。どっかで観た小さい劇団の芝居を見て、それが、ホンマに音響も照明もちゃっちい機材使ってて、舞台上の小道具とかも全部手作り感満載で、でも、本番を見てたら、いつの間にかその世界に引き込まれて行ってて、ああ、別に何もかも良いもんを集めんでも、観てる人に夢を与えることは出来るねんなぁって、思ってな。で、背伸びすんのはやめてん。なあ、明」
「出た出た、いつもの昔話。ま、照明もいくつか壊れかけのやつがあるから、そろそろ買い替えて欲しいけどなぁ」
冗談ぽく笑う明に、作菜も笑いました。
「考えとくわ」
「……ステキやと思います。わたしにも出来るかな? 夢を与えること」
姫子の言葉に、作菜は姫子の頭を小さくポンポンっと叩いて答えました。
「出来るわ。相手を楽しませたいっていう気持ちがあればな」
姫子は、作菜の手が、まるでお母さんの手みたいだなぁなんて思いながら、小さく言いました。
「……相手を楽しませたい気持ち」
「ま、わたしらもまだまだ出来てへんけどな」
作菜は少し自虐的に笑いました。そんな作菜を見て、姫子も笑いました。
そうして、やがて舞台が出来上がり、マスターお手製の夕食をはさんで、本番同様の条件下で行う通し稽古の総まとめ・『ゲネプロ――ゲネラールプローベ――』が終わるころには、すっかりと時計は深夜0時を回っていました。
そして深夜2時。
静まり返った舞台の上で1人、姫子が座って台本を読んでいました。
姫子は、みんなの迷惑にならないように、小さめの声でセリフを口ずさんでいました。
そんな姫子のほっぺに、ヒヤッとしたものが当たり、姫子は「ひゃっ!」と、体を震わせました。
ほっぺに手を当てて姫子が目をやると、タオルとカップアイスを持った作菜が立っていました。
「作菜さん……もぅ、驚かさないでくださいよ~」
「ごめんごめん、姫のリアクション好きやから、つい。ほれっ、差し入れ」
作菜は持っていたカップアイスとスプーンを姫子に差しだしました。
「えっ、良いんですか?」
「明日は姫の初公演の記念日やからな。お祝いや」
少し恐縮しがちだった姫子でしたが、「そう言う事なら」と、ありがたくアイスを受け取りました。
姫子はそのアイスを見て、何か思い出したように、笑みを浮かべました。
「どうしたん? アイス見ながらニヤニヤして」
「えっ? あっ、いえ……この前、わたしが風邪を引いちゃった日に、弟が買って来てくれたんを思い出して」
「ふ~ん……弟君か。いくつぐらいやっけ?」
「11歳です。この前、小学5年生になりました」
「11歳か……。ええ弟君やな」
姫子は少しほっぺを赤くしてうなずきました。
「それで、明日お母さんと一緒に観に来てくれるって言ってくれたんです」
「へぇ。そう言えば、5月公演も、お母さんは仕事で来られへんかったんやっけ?」
「はい。でも今度は、わたしの初舞台やからって、無理して来てくれるみたいで」
「ええ家族やん。そら、頑張らなな」
姫子はうれしそうにうなずきましたが、すぐに少しうつむきました。
「でも、明日が本番やって思ったら、急に不安になって。さっきのゲネプロでしたっけ? その時も、全然あかんかったし。もうちょっと時間があったらええのになぁって」
「まあ、公演の前になると、誰でもナイーブになるもんや。特に、初舞台の姫なら、なおのことや。心配せんでも、最初に比べたら、見れるようになったとは思うで」
「ホンマですか? ……それやったらいいんですけど。家族が来るって思ったら、うれしい反面、余計に怖くなっちゃって」
「……そういうもんかもな」
作菜は何か思い出したように黙りました。
「作菜さん? どうしたんですか?」
「え? ……いや、とにかく、体壊したら元も子もないし、明日に響かんように、ほどほどにしときや。あ、アイス、早よ食べなとけるで」
「えっ、あっ、はい、いただきます」
姫子は、カップアイスのふたを開けて、スプーンで一口食べました。
「おいしい~」
「あ、でも、夜中にアイス食べたら太るで」
姫子は作菜の言葉にドキッとしました。
「もぅ作菜さんがくれたのに、イジワルなこと言わないでくださいよ~」
ほっぺをふくらませる姫子を見て、作菜は笑いました。
「ごめんごめん」
2か月も一緒に居れば、イジリイジラレといった、大阪らしい関係が、姫子と作菜に間にも出来ていました。
姫子は、明と作菜、急に2人もお姉ちゃんが出来たようで、こうしてちょっかいをかけられるのも、内心うれしく思っていました。
突然、「あっ、そうや」と、姫子がアイスを食べる手を止めました。
「無理言ってすいませんでした。合宿のことで」
「え? ……ああ、今日と明日しか泊まらへんって話? 別に気にせんでええよ。姫には姫の事情があるわけやし。あ、そう言えば弟君は今日は大丈夫やったん?」
「今日はお母さんが早く帰って来てくれるって言ってたんで、大丈夫やと思います」
「そっか」
「……いつもやったら、この時間、新聞配達のバイトをしてる時間なんですけど、今日と明日は無理言って休ませてもらっちゃって。なんか、演劇が出来てうれしい反面、申し訳ないなぁって思います。みんなに迷惑かけちゃってるから」
「……まあ、自分のしたいことをしようって思ったら、多少は迷惑をかけなあかんのちゃうかな。わたしも、この店に迷惑かけてるし」
「……やっぱり頑張らなな。助けてくれるみんなのためにも」
「おう、その意気や。じゃあ、これ以上しゃべってたら姫も練習出来へんやろうから、わたしはそろそろ風呂行ってくるわ」
作菜はそう言って、立ち上がりました。
「あ、アイス、ありがとうございました」
「うん。あ、上行くときは、ここの電気消しといてな。おっちゃんそういうのうるさいし」
クスッと笑いながら「はい」と、うなずいた後、姫子は歩いていく作菜の背中に尋ねました。
「あっ、あのっ……可憐ちゃんは、まだ起きてましたか?」
「ん? ああ、風呂上がってから布団でゴロゴロしとったなぁ」
「可憐ちゃんらしいですね」
「……可憐に気をつかって下に居るん?」
「あ、別に、そういうわけじゃないですけど……やっぱり、わたしが居ると嫌かなぁって」
「……そういうの忖度って言うんやっけ? あんまり気にせん方がええで」
「……でも、わたし、正直どうしたらええか分からないんです」
姫子は少しうつむいて、言葉を続けました。
「わたし、この前の雨の日、可憐ちゃんにひどいことを言ってしまって……ひどいことをしてしまって……それで、謝ろうって、そうしたらきっと仲直り出来るって思ってたんです。けど、可憐ちゃん、許してくれへんくて。なんか、避けられてるのが分かって……。それで、どうしたらええんか分からへんくなって……どんどん、一緒に居ずらくなっちゃって……」
作菜はため息をついて、姫子に歩み寄りました。
「……難しいな、人の気持ちって言うのは。役者で色んな役を演じてみても、結局、人の気持ちなんて一つも分からへん」
ちらっと、最奥の開かずの扉に目をやり、作菜は続けました。
「それが一番知りたいことやのにな」
「……作菜さんも、誰かと仲直り出来ないんですか?」
「まあな。けど、姫、これだけは言っとく。可憐も姫も、やさしいええ子や。それはわたしが保証する。だから、なんかきっかけがあれば、きっと元通りに仲直り出来るわ」
「……はい。ありがとうございます」
作菜は姫子の頭をやさしくポンポンっと叩き、部屋を出て行きました。
姫子は、作菜に叩かれた頭を手で触れて、「よしっ」と、大きく一つ息をつきました。
そうしてアイスを片手に、再び台本を読んでいると、「ザー、ザー」という雨音が窓の外でしてきました。
姫子は窓のそばまで行き、外を眺めながら呟きました。
「雨……か。おんなじやな、あの日と」
その頃、2階の、所狭しと布団が敷き詰められた少女たちの部屋には、寝間着姿の可憐と七海と明がいました。
可憐は布団の上でゴロゴロしながら台本を読み、七海は海豚を抱きながらスマホをいじり、明は鏡の前で洗い立ての髪の毛にドライヤーをかけていました。
ふと、七海がスマホを置いて立ち上がりました。
「どこ行くん?」
台本を見たまま、可憐が聞きました。
「……お花摘み」
「なんや、オシッコか」
「だから女の子がオシッコとか言うな」
「別にええやん。減るもんとちゃうし」
「なんか減る気がする」と、ぼそっと言いながら、七海は海豚と一緒にトコトコトコっと部屋を出て行きました。
そんな2人の会話を、ドライヤーで髪の毛を乾かしながら、明はクスクスっと笑いながら聞いていました。
2人だけになった空間で、可憐が口を開きました。
「……なあ、明さん」
カチャっと、ドライヤーのスイッチをオフにし、明が振り向きました。
「どうしたん?」
可憐は明の方を向いて座りました。
「……久しぶりに、ハグしてもいい?」
少し照れた様子で、目をキョロキョロさせる可憐に、明は一つため息をして、両手を広げました。
「どうぞ」
やさしく迎え入れてくれた明の胸に、可憐は抱きつきました。
「やっぱり明さん、気持ち良い」
「そうか? そう言えば可憐ちゃんがこうやってわたしに抱きついて来るんて久しぶりやなぁ。お姫ちゃんにも抱きついてないみたいやし、抱きつき魔の可憐ちゃんが全然誰にも抱きつかんで、よう我慢してたなぁ」
明は抱きつく可憐の頭を暖かく、よしよしとしました。
「……けど、やっぱり違うなぁ。匂いも、柔らかさも」
「失礼な子やなぁ」
明は冗談っぽく言いました。
「ごめんなさい」
何も言い返さず、素直に謝る可憐に、明はやさしく問いかけました。
「……何があったんか知らんけど、お姫ちゃんと、このままでええの?」
可憐は何も答えませんでした。
「いっそのこと、思い切って抱きついてみたら? 案外、お姫ちゃんやったらやさしく受け止めてくれるかもしらんで」
やはり可憐は何も言いませんでした。
「……な~んてな……そんなん出来たら、苦労せえへんか」
しばらく何も言わない可憐に、明は続けました。
「お姫ちゃんのこと、怒ってんの?」
可憐は首を横に振りました。
「じゃあ、お姫ちゃんのこと、嫌いになったん?」
可憐はより強く、首を横に振りました。
「じゃあ、なんで?」
可憐は明の胸から離れ、ようやく口を開きました。
「わたし……姫子のことを傷つけてしまったから。だからもう、姫子に抱きつく資格無いねん。たとえ、姫子が手を差し伸べてくれても……」
「可憐ちゃん……」
そんな会話を、部屋の外でそっと聞いていた七海は、抱いていた海豚のぬいぐるみをギュッと強く抱きしめました。
「わたしのせいや……わたしが姫子に、あんなこと言ったから……」
石切堂の外には、梅雨の雨が激しく降り注いでいました。
結局、2人が仲直りすることなく、公演当日を迎えようとしています。
姫子と可憐、お互いが何か誤解をしているようですね。
それにしても、可憐はなぜ、姫子を傷つけたことをそうも悔やむのでしょうか?
そして2人は、また再び、『あの日』に帰ることが出来るのでしょうか?
それはまた、次の幕でお話するとしましょう。では。