第七幕
8年前。
お父さんが亡くなり、姫子の家庭環境は一変しました。
それまで、どこにでもある平凡な家庭で育った姫子は、一日中働かなければならなくなったお母さんの代わりに、家事の手伝いをしたり、弟の面倒を見なくてはならなくなったのです。
そのため、次第に大好きだったお洋服にも気を遣えなくなり、いつも同じような服で過ごしたり、ろくにアイロンのかかっていない制服で小学校に行ったりするようになっていました。
そんな姫子は、学校内では、引っ込み思案で人見知りな性格も手伝い、孤立する存在となっていました。
クラスメートたちは、直接的には言いませんでしたが、口々に姫子の悪口を言ったりしていました。
その筆頭とも言える少女が、鶴橋麗花でした。
「はぁあ、また貧乏くさい臭いがするわねぇ」
麗花は近所でも有名なお嬢様で、いつも女子たちの中心にいました。
「バラの芳香剤でも置いておいてもらいたいわぁ」
嫌味っぽく話す麗花の言葉に、周りの女子たちはいつもクスクスと笑っていました。
わざと姫子に聞こえるように話す麗花でしたが、姫子は何も言い返しませんでした。いえ、言い返せなかったのかもしれません。
「いつもあんなしわくちゃの制服を着て、貧相ったらないわねぇ。いっそ、貧子にでも改名すればいいのに。だって姫子っていうガラじゃないでしょ?」
麗花が嫌味を言うたびに、周りの女子たちは大笑いをしていました。
姫子は只々、耳をふさいで、唇をかみしめていました。
そんな様子に、教師たちも気づいていましたが、何も言ってはくれませんでした。
姫子は、悔しくて、悲しくて、辛くて、苦しくて、でもお母さんにさえ気を遣って何も相談できず、只々いつも、1人トイレにこもっては、涙を流す日々を送っていました。
「お金持ちなんか大っキライや……わたし、姫子やもん」
それから8年。
どんなに馬鹿にされても、笑われても、姫子は耐えられるようになっていました。
なっていたはずでした。
けれど、可憐が言った「貧乏くさい」という一言だけは、なぜか耐えられませんでした。
その理由は、姫子にも分かりませんでした。
「わたし……なんであんなひどいことを……最低や……最悪や……」
泣きじゃくる姫子の耳に、遠くの方から声が聞こえてきました。
「……ちゃん……姉ちゃんっ!」
姫子が目を覚ますと、目の前に優也の顔がありました。
「ぎゃあぁあぁああっ!!」
姫子はあられもない叫び声を上げて、勢いよく飛び起きました。
その拍子に、ゴツンっと大きな音を立てて、2人の頭がぶつかりました。
2人はしばし、その痛さに身もだえしました。
「痛っ~、いきなり起きんなよなぁ」
おでこを押さえながら優也が言いました。
「だって! ……なんで優也が目の前におんねんな~」
姫子もおでこを押さえながら答えました。
「姉ちゃんが寝ながら泣いてたから、心配して顔見てたんやろ? 昨日の晩やって、びしょ濡れで帰って来たしさぁ」
「え……?」
「覚えてへんのか?」
姫子は、優也に説明されて、ようやく昨夜のことを思い出しました。
可憐にひどいことを言ってそのまま喫茶石切堂を飛び出したこと。大雨の中を傘も差さずに自転車で家まで帰ったこと。そして、びしょ濡れで家に帰り、そのまま意識を失ってしまったこと。
「ホンマに大変やってんから。熱もだいぶあったし。お母さんが早く帰って来てなかったら、どうなってたか」
「そうやったんや……ゴメンな、優也。ありがとう」
「……別にええけど。それより、なんかあったんか? あんな姉ちゃん、初めてやった」
姫子は、少し間をあけて、首を横に振りました。
「大丈夫。心配かけちゃってゴメンな」
「……それやったらええけど。それにしてもよう寝てたなぁ。もう8時やで」
「え?」
姫子はそばにあった目覚まし時計の時刻を見て、目を見開いたまま叫び声を上げました。
「ええええええっー!! うそっ、もうこんな時間やんっ! 新聞配達あったのにっ!」
姫子は喫茶石切堂でバイトをするようになってからも、新聞配達のバイトだけは続けていました。
「最悪や……もう遅刻とかいう問題ちゃうやん。もう終わってるやん……ていうか、学校も遅刻やんっ! いやいや、ていうかなんで優也、学校行ってへんの? もう学校の時間やろ? 早よ行かなっ」
「とりあえず落ち着けって。今日は日曜や」
パニックで動転状態の姫子に、優也はなだめるように言いました。
「え……? 日曜日? な~んや、それ早よ言うてぇや~……あ、でも新聞配達は休みちゃうやん……。最悪や。なんて電話しよう。絶対、怒ってるやろうなぁ。うん、間違いない」
目の前で乱高下する姉のテンションを見て、「俺がしっかりせなな」と、改めて思う優也でした。
そこに声がしました。
「ちゃんと電話しといたで。さすがに行けそうになかったし」
「あっ……お母さん」
着替えを済ましたお母さんが、姫子の部屋へとやって来ました。
「やっと起きたと思ったら、賑やかやねぇ」
「……ごめんなさい、心配かけて。バイト先にまで電話してもらっちゃって」
お母さんは姫子の目の前に座ると、申し訳なさそうに謝る姫子に、やさしく微笑みました。
「昨日はどうなるかと思ったけど、姫子が大丈夫そうで良かった」
「お母さん……」
「それにしても、姫子、ずいぶん大きくなっててんねぇ。久しぶりに着替えさそう思ったら、ずいぶん難儀やったわ」
「え……お母さんが着替えさせてくれたん?」
お母さんの言葉に、姫子は途端に恥ずかしくなりました。
「他に誰がおんの?」
姫子は、チラッと優也の顔を見ました。
優也は、ブルブルっと首を横に振りました。
「俺は出来へんよっ」
姫子は「そりゃそうか」と、心の中で納得しました。
「昨日はたまたま早くに帰って来てて良かったわ」
「……ごめんなさい。ホンマに、いろいろと」
より一層、申し訳ない気持ちで謝る姫子の額に、お母さんが額をくっつけました。
「熱はだいぶ下がったみたいやけど、まだちょっと熱いかな?」
子どもの頃以来に、こんな風にされた姫子は、弟の優也がそばにいることもあり、恥ずかしそうに目をキョロキョロとさせていました。
「今日は一日休んどき」
「うん……あ、そうやっ、石切堂のバイトっ!」
姫子は思い出しました。喫茶石切堂でのバイトは、姫子が学校の無い日曜日だけは、開店30分前の8時30分からだということを。
「じゃあ、お母さんがお店に電話しとくわ」
「……でもホンマに休んでもええんかな?」
姫子は少し不安げにうつむきました。
「食べ物扱うお店やねんから、風邪が移ったら大変やろ? それに――」
お母さんは姫子の頭を、いつものようにポンポンっと叩きました。
「姫子はいっつも頑張ってんねんから、今日ぐらいはゆっくり休んどきなさい。いろいろ、大変なこともあったんやろうしな」
まるで全てを見透かしたようなお母さんの言葉と手のぬくもりに、姫子は泣き出しそうになりました。けれどギリギリのところで、グッと涙をこらえました。
「お母さん、今日もお仕事休まれへんからそばにいてあげられへんけど……」
姫子は、首を横に振って、ニコッと微笑みました。
「大丈夫。お母さんはお仕事に行って。あと、やっぱりお店にはわたしから電話するわ。ちゃんと謝りたいし」
姫子の強がったような笑顔に、少し後ろ髪を引かれるような気分でしたが、お母さんは名残惜しそうに立ち上がりました。
「今日は出来るだけ早く帰ってくるから。優也、悪いけどお姉ちゃんのこと、頼むね」
「へーい」
そうして、お母さんはお仕事へと出て行きました。
「あっ、もしもし? 作菜さんですか? おはようございます」
お母さんが出て行ってすぐに、姫子は石切堂へと電話しました。
そして姫子は、風邪をひいてしまってバイトに出られないことや、昨日、突然店を出て行ってしまったことなどを、謝りました。
作菜は別段怒ることも無く、「じゃあ今日はゆっくり休んどき」と、言ってくれました。
その後、電話を代わった明は、「風邪大丈夫なん?」と、姫子の体をいたわってくれました。
姫子は結局、あの後、可憐はどうしたのか? と、いうことを聞くことは出来ませんでしたが、作菜と明のやさしさに、うれしいやら、申し訳ないやら、複雑な心持になりました。
姫子が電話を終えるのを見て、優也が声をかけました。
「姉ちゃん、朝ごはん食べる?」
その言葉を聞いたとたん、姫子のお腹が鳴りました。
姫子は、少し顔を赤くしました。
「そういえば、昨日のお昼からなんも食べてない……」
姫子は基本的に間食はしませんし、昨日は夜ご飯を食べずに寝てしまったので、最後に食事をしたのは昨日のお昼までさかのぼりました。
「お姉ちゃん、用意するわ」
「ええから、姉ちゃんは布団で待っといて」
優也は姫子を制止し、ダイニングへと向かいました。
「でも……」と、姫子は心配と申し訳ない気持ちで優也の姿を目で追いましたが、優也はなんてこともなく、朝食の準備を終えて、戻って来ました。
優也が持っていた盆の上には、柔らかな食パンと、コーンスープと、ヨーグルトが乗っていました。
「おいしいぃ」
姫子は、ホコホコと湯気の立ったコーンスープをスプーンですくって、ゆっくりと口に含むと、幸せそうな表情を浮かべました。
「スープにパンつけたら食べやすいやろ? 後でコーヒーも持ってくるわ」
「気が利くなぁ。優也、ええ旦那さんになるわぁ」
「な、何言ってんねんっ。じゃあ、俺は向こうで食べて来るわ」
優也は少し照れた表情で、食卓へと向かおうとしました。
「優也、こっちで一緒に食べへん?」
「え?」
「……あ、でも、優也に風邪移ったらあかんね。やっぱりええわ」
優也はそのままダイニングへと行ってしまいました。
姫子はため息をつき、少し寂しそうにスープをもう一口飲みました。
すると、姫子の隣に優也が座り、持っていたパンをちぎって、姫子のコーンスープにつけ、そのまま口に入れました。
「うん、おいしい」
その光景を、姫子はキョトンとした目で見ていました。
「どうしたん?」
「え? いや……優也、風邪移っちゃうよ」
「ええよ、別に移っても」
「え?」
「今度は俺が看病してもらうし」
冗談っぽく言う優也に、姫子は微笑みました。
「なんやねん、それ。……でも、ありがとう、優也」
「いちいち、お礼とかいらんから」
そう言って、優也はまた姫子のスープにパンをつけて口に入れました。
今日は姫子の看病のために、2人の部屋を隔てていたカーテンが開かれていて、いつもより広い部屋の片隅で、姫子は人のやさしさを実感し、「たまには風邪になるのも悪くないな」と思いました。
「でも……風邪になった途端、みんなのやさしさが身に染みって……なんか、こっちが気ぃ遣ってしまうわ。申し訳なくて」
「……俺は、いっつも姉ちゃんがやってくれてることを、やってるだけやから、気ぃ遣わんでええよ。たまの風邪の日ぐらい、俺がなんとかするわ」
優也が、姫子の目を見れずに言ったのは、照れがあったからでした。
姫子は、いつの間にか頼もしくなった弟の姿に、うれしさと、少しのさみしさを感じていました。
「それに、みんながやさしいのは、姉ちゃんがいつも頑張ってるからちゃうん?」
優也の思いがけない言葉に、姫子はなんだか気恥ずかしくなりました。
優也も、自分で言って、なんだか恥ずかしくなったので、話題を変えました。
「それよりさ、今日どうする?」
「……え? お昼ごはんのこと?」
「それもあるけど。……やっぱり忘れてる? 今日、なんの日か」
「え?」
姫子は持っていたスープカップを盆の上に置き、優也に差し出されたカレンダーを手に取りました。
今日は5月の第2日曜日、5月13日でした。
それがどういう意味か、姫子が理解するのに、そう時間はかかりませんでした。
「ええええええっ―!! 今日、母の日やんっ!? ……すっかり忘れてた」
「やっぱり」
「……人生最大の不覚や……母の日を忘れるなんて」
「そんな大げさな」
「いや、大げさちゃうよ。母の日って言ったら、お母さんと優也とお父さんの誕生日と、お父さんの命日の次に大事な日やん」
「……いやっ、自分の誕生日は?」
「それは別にどうでもええけど」
「どうでもええんかいっ」
「ああ~、ヤバい~、どうしよう……どうしたらいい? いや、やっぱりなんか買ってこなな」
人のことになると、自分のこと以上に思い悩む姉の姿を見て、優也は1つため息をついてから言いました。
「姉ちゃん、ちょっとお金出して」
「え?」
「姉ちゃんのお金と、俺の小遣い合わせて、なんか買ってくるわ」
「優也……ホンマにええの?」
優也は頷きました。
「最初からそうしようと思ってたし」
「愛してるっ!」
姫子は歓喜のあまり、優也に抱きつきました。
「ちょ……くっつくなってっ」
11歳にもなると、姉からの抱擁は気恥ずかしいものでした。
「あっ、ごめん、風邪移ったらあかんね」
理由は違いましたが、姫子は優也から体を離しました。
「じゃあ、食べたら、買いに行ってくるわ。ついでに昼ごはんも」
あまりに頼もしい今日の弟に、姫子はうれしさが止まりませんでした。
「優也、ちょっと手ぇ出して」
「え? なに?」
姫子は、優也が差しだした手の平の上に、財布から取り出した500円玉を乗せました。
「なに、これ?」
「少ないけど、お姉ちゃんからのお小遣いや。なんか好きなもんに使い」
「……わかった」
優也はそう言って、手の平の500円玉を握りしめました。
「ホンマに、いろいろありがとうな、優也」
朝食の後、薬を飲んで、優也が出かけるのを見送ると、姫子は眠りに落ちていました。
眠っている姫子は、何かにうなされているようんでした。
――どうせ可憐ちゃんには分からへんわ。お金持ちの……あんたには……! ――
――触らんといてっ! ――
――どうせわたしのこと、ずっと見下してたんやろ? こうやってっ! ――
――お金持ちなんか大っキライやっ! ――
バッと、そこで姫子は目を覚ましました。
「……夢か」
時計を見ると、11時30分でした。
姫子はムクッと上体を起こして、布団の上に座りました。
起き上がった姫子は、顔じゅうに髪の毛が引っ付くぐらいに、汗をかいていました。
「わたし……なんであんなひどいこと言っちゃったんやろ? ……もう、大丈夫やったはずやのに……可憐ちゃんは、大事な友だちやったのに……」
姫子は三角座りになり、布団に顔をうずめました。
まもなくして、ガチャッという音が玄関の方で鳴りました。
「ただいまぁ」
その優也の声が聞こえると、姫子は急いで布団で涙を拭いて、笑顔を作りました。
「おかえり、優也。買い物、ありがとうな」
ダイニングに優也の姿が見えると、姫子は何もなかったかのように、声をかけました。
「母の日のプレゼント、これでええかな?」
優也は、リボンで結ばれた2輪のカーネーションと、プレゼント用に包装された日傘を、姫子のところに持ってきました。
「あっ、カーネーションめっちゃカワイイ~。傘は? どんなデザインにしたん?」
「なんか花柄のやつ。っていうか、姉ちゃん、めっちゃ汗かいてるやん? 着替えてくれば?」
「え? あ……うん、薬のせいかな? なんかめっちゃ暑くて。じゃあ着替えて来るわ」
そう言って、姫子はそばに置いてあった着替えを持って洗面所へと行きました。
洗面所の仕切りを閉じると、姫子の顔から笑顔が消えました。
優也の前では努めて笑顔を作る姫子ですが、1人になると、どうしても昨日のことが頭に浮かび、沈んだ表情になってしまいます。
姫子はふと、洗面台の鏡に映る自分の顔を見て、首を横に振りました。
「あかんな、いつまでも泣いてたら。優也やお母さんに心配かけちゃう」
姫子はそう言うと、1つ、ため息にも似た深呼吸をしました。
「よしっ、笑顔、笑顔」
それは、姫子が子どもの頃から自分にかけていた魔法の言葉でした。
姫子はいつだって、鏡に映る自分に向かって魔法の言葉をかけ、家族の前では、心配をかけないように努めてきたのでした。
鏡に映る姫子の顔は、また微笑みに変わっていました。
夜になってお母さんが帰ってくると、ささやかながら、母の日のお祝いが始まりました。
「お母さん、いつもありがとう。これはわたしと優也から」
姫子はリボンで結ばれた2輪のカーネーションをお母さんに贈りました。
「ありがとう。キレイなカーネーションやねぇ」
「優也が買いに行ってくれてん。優也」
姫子は、少し照れくさそうにする優也に声をかけました。
優也は、気恥ずかしそうに、持っていた包装された日傘を、お母さんに手渡しました。
「……いつも、ありがとう」
「ありがとう、優也。日傘? 開けてもいい」
優也がコクッと首を縦に振ると、お母さんは日傘の包装を解きました。
日傘は、白地に、小さな花柄がちりばめられたデザインでした。
「可愛らしいデザインやねぇ」
「ホンマや~。その日傘な、優也が、お母さんにいつまでもキレイでいてほしいからって、選んできてんで」
「そうなん?」
「ちょ……何言ってんねんっ!?」
優也の顔が真っ赤になりました。
「そもそも、これから暑くなるから、日傘がええんちゃうかって言ったん姉ちゃんやろっ?」
「え? そうやっけ~? 病人やから分からへ~ん」
「とぼけるなっ」
「まあまあ、2人ともホンマにありがとう。さっ、せっかく用意してもらったし、ご飯にしましょう」
食卓には、――ほとんどがスーパーで買って来た惣菜ですが――お肉やお魚やお寿司など、ちょっとしたごちそうが彩られていました。
それは、夕方になって、再び優也が買いに行ったものでした。
「ホンマにこんなにたくさん用意して、大変やったやろ?」
「全部、優也のおかげや。わたしなんか、母の日のこと、すっかり忘れてしまってたもん」
「わたしもや。優也、ホンマにありがとう」
「……うん」
優也は感謝されるたび、照れくさそうにしていました。
食事が終わると、優也が冷凍庫からカップに入ったアイスクリームを3つ、取り出してきました。
「アイスクリームやんっ。しかも高いやつ。どうしたん? これ」
このアイスクリームについては、姫子も知りませんでした。
「ちょうど500円で3つ買えたし、前に俺が風邪になった時に姉ちゃんがアイス買ってきてくれたんを思い出して」
「あの500円で買ったん? もっとあげれば良かったね」
「別に。俺は、姉ちゃんが好きなもんに使いって言うたから、使っただけや」
「優也……ホンマに、今日の優也はイケメンやなぁ」
「やっと気づいた?」
「他にもなんかあったん?」
微笑ましく2人を見ていたお母さんが、姫子に尋ねました。
姫子はうれしそうに話しだしました。
「聞いて。優也な、朝はパン食べやすいようにってコーンスープ用意してくれたしな、買い物も自分から行くって言ってくれたし、お昼はおかゆさんも作ってくれてんで」
「へぇ~、イケメンやねぇ。ええ旦那さんになるわ」
「そう思うやろ?」
「おっ、俺、先に風呂入ってくるわっ」
顔を赤らめた優也は、自分のアイスクリームを再び冷凍庫に片付けると、女性2人の口撃から逃げるように、足早に洗面所へと向かいました。
そんな優也の姿を、姫子とお母さんは微笑ましく見ていました。
「じゃあ、わたしたちもアイス、後にしよっか?」
「うん」
お母さんの提案に、姫子もうなずいて、アイスクリームを冷凍庫へと片付けました。
「明日は新聞休刊日やっけ?」
「うん、明日の朝もゆっくり出来るわ」
姫子が食卓に戻ると、お母さんが話を切り出しました。
「姫子、もう体は大丈夫なん?」
「うん、すっかり平気や。学校が休みの日に風邪ひいて良かったわ。学校休んだら、お母さんに申し訳ないし」
「そんなんどうでもええよ。姫子の体の方が大事や。……喫茶店は? ちゃんと行けるん?」
「え? ……うん、これ以上休んだら、石切堂の人たちに悪いし。演劇の稽古もあるから」
「あんまり無理せんときや」
「大丈夫。熱もすっかり下がってるし。いっぱい寝たから、前より元気なくらいや」
「体のことだけじゃなくて、ここのことや」
そう言うと、お母さんは姫子の胸を指しました。
「昨日、あんな状態で帰って来て、何もなかったわけないやろ? ケンカでもしたんとちゃうの?」
「ぎくっ!」
姫子は相変わらず、お母さんに見透かされると、心の声が表に出てしまいます。
「わたしに隠し事は出来へんよ、姫子」
「な、なんにもないよっ。ケンカなんかするわけないやんっ、みなさんええ人たちばっかりやし。昨日はただ傘を持ってなかっただけっ。まさかあんなに雨が降ると思わんかったわ~。そ、それより、明日は暑いみたいやなぁ。熱中症とか気をつけな」
「姫子」
お母さんは、必死に話をはぐらかす姫子を、笑み1つ浮かべず、真剣なまなざしで見つめました。
姫子は、お母さんの視線に負け、はぐらかすのをあきらめて、正直に言いました。
「……ごめんなさい。でも、どうしても言えへんねん。……けど、大丈夫。自分でなんとかするから」
心配をかけないように微笑む姫子に、お母さんはため息をこぼしました。
「……わかった。家族やからこそ、言いにくいこともあるやろうしな。でも、無理やと思ったら、いつでも頼るんやで。わたしも、優也も、お父さんも、いつでも姫子の味方やから」
「……うん。頼りにしてる。……じゃあ、先に食器洗うわ」
姫子は立ち上って、流し台の前に立ちました。
お母さんは、姫子を後ろから抱きしめました。
「どうしたん? お母さん」
「ホンマに頼るねんで。あんたは、昔からなんでもかんでも自分1人で背負い込む癖があるから」
「……どうしたん? 急に昔の話なんか」
「昨日、世話の焼ける姫子を見てたら、ああ、この子はホンマに昔から世話の焼けへんええ子やったなぁって思ってな。……けど、子どもの頃から、小さい身体でいろんなもんを背負ってきたんやろなぁって思って。家族のことで、ホンマに苦労かけたなぁって……ゴメンな、頼りないお母さんで。ゴメンな、いっぱい苦労かけて」
「……苦労なんか、かかってないよ。……わかった、これからはいっぱい頼るわ」
「ホンマやで。絶対に、なんかあったら頼りや」
「うん」
姫子は微笑みながら、そっと涙を流していました。
お母さんには見えないように、流し台の方を向きながら、決して振り向くことなく、そっと涙を流していました。
「ありがとう、お母さん」
夜中、再びカーテンの仕切りが閉じられた自室で、姫子は布団に入っていました。
「ああ~、アイス美味しかったなぁ。ホンマにありがとうな、優也」
姫子は、カーテンの向こうの優也に微笑みました。
「……うん」
「ホンマに、久しぶりやったわぁ」
「……なあ、姉ちゃん」
「ん?」
「……1回しか言わへんから、ちゃんと聞いとけよ」
「え? 何?」
「……今度の演劇、俺もお母さんと観に行ったるから……せやから……その……」
思いがけない言葉と、不器用なやさしさをくれた優也に、姫子は姉の顔になりました。
「ありがとうな、優也。お姉ちゃん、頑張るわ」
「うん……」
「おやすみ、優也」
「おやすみ」
そして姫子は天井を見つめ、優也とお母さんからもらったやさしさを力に変え、可憐と仲直りをし、絶対に演劇を成功させようと、心に決めるのでした。
病気の時こそ、家族の温かみが身に染みるものですね。
さて、姫子は無事に、可憐と向き合うことが出来るのでしょうか?
そして、演劇を成功させることは出来るのでしょうか?
それはまた、次の幕でお話するとしましょう。では。