第三幕
ここは喫茶石切堂。
石切博(50)が経営する喫茶店です。
営業時間は午前9時から午後18時。
不定期休ですが、基本的には休みなく営業しております。
店のおススメはマスターお手製の石切コーヒーと、同じく、マスター手作りのチーズケーキです。コーヒーの苦みと、チーズケーキの優しい甘みは抜群の相性です。
モーニングメニューやランチメニューもありますので、看板を見かけましたら、ぜひ一度お立ち寄りください。
また月に1回、店内に設けられた舞台を使い、劇団『おとぎの花園』による、童話をモチーフにした子供から大人まで楽しめるお芝居も公演しておりますので、詳しくは店内スタッフか、喫茶石切堂のホームページにてご確認ください。
注意:喫茶石切堂は架空の店であり、ホームページも存在しません。
さて、この日も午後18時をむかえ、喫茶石切堂の扉には『CROSE』の札が掛けられ、窓のカーテンも閉じられていました。
そんな店先に1台の自転車がやってきました。
乗っていた女の子は、キュッと店の前に自転車を止め、ポケットの中から携帯電話を取り出して時間を確認しました。
「もう6時回っちゃってる。ご迷惑ちゃうかったらええけど……」
サッと自転車から降りた女の子・額田姫子は、前かごに入れてあった愛用のピンク色の肩掛けバッグを肩にかけて、扉の前に立ちました。
「……お母さんは、演劇、『やってみなさい』って、言ってくれたけど……やっぱり断ろう。今はバイトの方が大事や……うん」
自分に言い聞かせるように小さくつぶやいた姫子は、石切堂の扉をトントンと叩きました。
ほどなくして、「は~い」という甲高い女性の声の後に、扉が開きました。
「すいません、今日はもう店じまい――」
応対に来た女性はそこで言葉を止めました。扉の前に立っていたのが、見覚えのある顔だったからでしょう。
「あっ、昨日のっ! えっと……姫子ちゃんやっけ?」
柔らかな声で話す女性・小阪明は、姫子にニコッとしました。
「すいません、もう閉店の時間やのに」
姫子は恐縮げに小さくお辞儀をしました。
明はそんな姫子を「ええの、ええの」と、まるで親戚のおばちゃんのように店内に招き入れました。
その様子に気づいたもう1人の女性スタッフが、奥からやってきました。
「なんや、こんな時間に誰かと思ったら、あんた確か可憐の友だちの……」
「額田姫子です。閉店後にすいません」
「気にせんといて~、ランチ時とかに来られるよりもよっぽどええわ。あたしらは別にダラダラ掃除してただけやし」
「ダラダラは余計やろ?」
明のフォローに、スタッフの女性・枚岡作菜がすかさずツッコみました。
そう言われても申し訳なさを拭いきれない姫子は、さっさと要件を済ませようと、口を開けました。
「あの……今日は可憐ちゃんは?」
「まだ寝てるんちゃうん?」
作菜が明に問いかけます。そんな作菜に、明は笑って見せました。
「まっさか~。ちょっと呼んでくるから待っといて」
そう姫子に微笑みかけると、明は、今日は緞帳が上げられ、あらわになっている奥の扉へと入って行きました。
トンットンットンットンッ
という、階段を上がっていく音が響きます。
「あの、まだ寝てるって……ここに泊まってたんですか?」
1人残された作菜に、姫子が尋ねました。
「ああ、公演の1週間前は練習とか準備とかいろいろ忙しくなるから、ここの2階にみんなで泊めてもらってんねん。まあ、わたしと明はもともとここで住み込みで働いてるから普段通りやねんけど。可憐と、この前、妖精の役してた布施七海は、公演の次の日まで、ここで泊まってんねん。打ち上げとか、反省会とかもあるしな」
「へ~、そうなんですね。なんか楽しそう、お泊り会みたいで」
「騒がしいで~、特に可憐は。おまけに公演の次の日はずっと寝てるしな。せやから、今も寝てるかも。時間かかるかもしれへんし、ちょっと座って待っとき」
作菜はそう言うと、目でテーブル席のイスを指しました。
「あっ、じゃあ先に――」
と、何かを思い立った姫子は、バッグの中からタッパーを1つ取り出しました。
「これお返ししときます」
「ああ、ケーキの。わざわざどうも……てか、めちゃめちゃピカピカやん!」
受け取った作菜は、タッパーのまぶしさに感嘆しました。
「借りた時よりキレイに、っていうのが、お母さんの口癖なんで」
「へ~、ええお母さんやなぁ」
姫子は、作菜にお母さんのことをほめられて、恥ずかしそうにうなづきました。
「おっちゃーん、これ、昨日の子が返しに来てくれたでー」
作菜はカウンターの奥で食器洗いをしていたマスターの石切を呼びました。
石切マスターは、食器を洗う手を止めて、濡れた手を拭きながら歩いてきました。
「お客さんの前でおっちゃんはやめなさい」
「これ見て? ピカピカやろ?」
石切も、作菜から渡されたタッパーを見て、感嘆しました。
「ホンマ、こんなにキレイに洗ってもらって。ありがとうございます」
「いっ、いえっ、こちらこそ、ホンマにわがままを聞いていただいて、ありがとうございました。母も弟も、すごく喜んでました」
丁寧に頭を下げた石切に、姫子は慌てて頭を下げ、バッグからビニール袋を1つ取り出しました。
「これ、つまらないものなんですけど、よかったら皆さんで食べてください」
受け取った作菜は、ビニール袋からタッパーを取り出し、ふたを開けました。
中には、ラップにくるまれただし巻き卵が入っていました。
「時間が無くて、こんなものしか用意できませんでしたけど、もしよかったら」
「もしかして、あんたが作ったん?」
作菜の問いに、姫子は小さくうなづきました。
「よく弟に作ってあげるんです。下手くそなんですけど」
恥ずかしげに言う姫子に、作菜は感心した声を出しました。
「いや、立派立派。ていうか、あんな小さいチーズケーキにこんなお返しされたら申し訳ないわ。なあ、おっちゃん?」
「キミが言うか? そしてお客さんの前でおっちゃんはやめなさいって。……けど、ホンマに。タッパー洗うのかてプレッシャーですよ」
「いっ、いえっ、そんな気ぃ使ってもらわんくて大丈夫なんでっ。……それに、ホンマに皆さんのやさしさがうれしかったんで」
姫子は頬を赤らめて答えました。
石切は、そんな姫子にニコッとして言いました。
「わざわざありがとうございます。後でみんなでいただきますね」
そんな石切の言葉に、作菜も隣で、やさしくうなづきました。
そして一言二言声をかけると、石切は2つのタッパーを持って食器洗いに戻りました。
姫子も、作菜に勧められ、テーブル席のイスに座ろうと、イスを引きました。すると、
ダッダッダッダッダッ
という、大きな音が上から響きわたり、奥にある部屋から一人の女の子が駆け込んできました。
「やっぱり姫子やぁ!」
ボサボサの頭、真ん丸メガネ、見るからにパジャマ姿の女の子・今里可憐は、姫子を見つけるや否や、顔をニコ~っとさせて、勢いよく抱きつきました。
姫子は突然可憐に抱きつかれた拍子に、出しかけていたイスへと座り込みました。
「あ、えっと……可憐ちゃん?」
家族以外にハグなんてされたことのない姫子は、動揺して手をあたふたさせながら顔を真っ赤にしました。
抱きついている可憐はパッと顔を上げ、真ん丸メガネの奥の瞳を輝かせながら、姫子を見つめました。
「夢じゃないやんな?」
「え? あ……うん」
思わず見とれてしまいそうなほどキレイな顔立ちをした可憐の顔を、今まで以上に間近に感じ、姫子はとてもドキドキしていました。
そんな姫子をお構いなしに、天真爛漫な可憐はニコッとして、もう一度姫子に抱きつきました。
「一度目は偶然。二度目は運命。三度目は必然やぁ」
「何言ってんねん? ほら可憐、その子、困ってるやろ? ごめんな、可憐ってすぐ抱きつく癖あんねん。特に寝起きは」
2人の間に割って入った作菜に、可憐は姫子に抱きついたまま顔だけを作菜の方に向けて反論しました。
「寝起きちゃいますよ、失礼なっ!」
「ホンマか、七海?」
作菜は、いつの間にか隣にいた大きなブタのぬいぐるみを抱えた女の子、布施七海に問いかけました。
「いえ、寝起きです」
「あっ、七海の裏切り者っ!」
七海の即答にビックリした可憐は、ようやく姫子から離れました。
可憐が離れて、少し冷静になった姫子は、相変わらずの可憐たちの空気感に、つい笑ってしまいました。
そして姫子は、可憐の風貌を改めて見て、声をかけました。
「可憐ちゃん、髪の毛ボサボサやん。それに、足もなんも履かんと。足冷えちゃうよ?」
よく見ると、可憐の足は裸足でした。
「あ、靴下履くん忘れてたわ。うれしすぎて」
姫子に向き直ると、また笑顔になった可憐はニコッとして、髪の毛をフリフリしました。
「見て見て~、今日はわたしの方がボサボサやろ?」
滑稽な可憐の言動に、姫子は手で口を押さえて笑いました。
「ホンマやね」
「なにを自慢げにしてんねん?」
呆れ果てた作菜がツッコみを入れていると、随分と疲れ果てた様子の明が帰って来ました。
「あぁ~、疲れたぁ。ホンマに寝てると思わんかった」
「おつかれさん」
「ホンマ、可憐ちゃん起こすのって、ここの仕事よりよっぽど重労働やわ」
作菜は、くたびれた様子の明の肩を揉んであげました。
おやおや、2階で一体何があったんでしょうね?
ともあれ、これでようやく本題に入れそうですね。
時刻は午後18時30分。
マスター石切の食器洗いの物音だけが響く店内。
すでにカーテンも閉じられ、店の前に置かれた看板も店内に運び込まれていました。
テーブル席の1つに座る姫子の周りを、可憐、作菜を筆頭に劇団『おとぎの花園』の面々が囲んでいます。
姫子のすぐ前の席にはパジャマ姿の可憐が座り、昨日『シンデレラ』の舞台であった空間に置かれた素組みの舞台の上にブタのぬいぐるみを抱えた七海が腰かけ、カウンター席には明が座り、その奥隣の席に作菜がもたれかかって立っていました。
どことなく感じる重たい空気に、姫子は膝の上で両手をギュッと握りしめました。その手の平はずいぶんと汗ばんでいるようです。
劇団『おとぎの花園』に入るのかどうか、その話をしに来たのだから可憐以外の団員たちも話を聞くのは当然なのですが、こうも全員から見つめられると、話したことのある相手とはいえ、かなりの人見知りである姫子にとっては、バイトの面接以上に緊張する状況でした。
……ましてや、これから『初めての友だち』からの誘いを断るのですから。
そんな姫子をよそに、目の前に座っていた可憐はニコニコしていました。
「なあなあ、昨日の話、考えてみてくれた?」
「え? あ、まあ……」
姫子は、どう話しだそうか考えているときに突然話しかけられて、答えに迷いました。
可憐はかまわず、グイグイと得意の質問攻めをします。
「入ってくれる? わたしたちの劇団に」
「えっと……」
断るつもりの姫子でしたが、すっかり可憐のペースにはまり、なかなか言い出せなくなってしまいました。
そんな姫子に、救いの手が差しだされました。
「こ~ら、あんまりプレッシャーかけたらあかんよ。姫子ちゃん、困ってるやん」
「別にプレッシャーなんてかけてませんよ」
明にペースを乱され、可憐は少しムッとして答えました。
「あんたがかけてないつもりでも、姫子ちゃんにはかかってんのよ。ごめんな、姫子ちゃん。可憐ちゃん、ちょっと強引なところあるから。無理やったら無理って言ってええねんで。無理強いは出来へんし、姫子ちゃんにかて事情があるやろうしな」
明は姫子にニコッとしました。明の笑顔は、どこか姫子の心を和ませました。
そんな2人の会話に焦ったのは可憐でした。
「ちょっと待って! 姫子まだ無理なんて言ってへんやん! なあ?」
可憐は、自分の問いに答えない姫子を見て、ますます焦りだしました。
「姫子……無理ちゃうやんな?」
姫子は何も言えませんでした。
「姫子、一緒にお芝居やろうや?」
可憐は笑顔を作って、姫子の腕をゆすりました。
「可憐、あんたはちょっと黙っとき。その子、しゃべられへんやろ?」
ずっと黙って見ていた作菜が沈黙を破り、ドスドスと可憐に迫って、襟首を掴みました。
「ちょっ、何すんねんな、アホっ!」
ネコが首根っこを掴まれたようになった可憐は、作菜の手を掴んで、体をバタバタしました。その拍子に、可憐の真ん丸メガネが床に落ちました。
「わがまま言うなって言ってんねん! その子にかてその子の事情があんねん! あんたにも分かるやろっ!?」
作菜の怒声に、可憐はようやく大人しくなりました。
それを見て、作菜は可憐の襟首を掴む手をそっと放しました。
「分かってるわ、そんなこと……でも……」
声を絞り出す可憐は、いつもの元気さを失くし、今にも泣き出しそうな表情でした。
その場にいた誰もが、姫子の答えに気づいているようでした。
「……可憐ちゃん、わたしな、すっごくうれしかった」
ようやく重たい口を開いた姫子はそう言って、床に落ちた可憐の真ん丸メガネを拾い、うつむいた可憐の耳にかけてあげました。
「可憐ちゃんが劇団に誘ってくれたこと。はじめての、友だちになってくれたこと」
ゆっくりと顔を上げた可憐は、姫子にかけてもらったメガネ越しに、姫子を見つめました。
「ここの人たちは、ホンマにやさしい人たちばっかりやし、お芝居にも興味が湧いた。昨日の可憐ちゃんを見て、わたしも、あんな風にキラキラ出来たらって……」
「……出来るよ、姫子やったら」
いつもはどこにいても聞こえてきそうな可憐の賑やかな声が、まるで蚊でも鳴いたかのような小さな声になっていました。
姫子は可憐の言葉にニコッと微笑んで、話を続けました。
「わたしの家な、お父さんが居らんくて。……8年前に亡くなってん、病気で。それからお母さん、朝も夜も土曜も日曜も、ずっとわたしと弟のために働いてくれて。わたしな、そんなお母さんの力になりたいねん。高校生になってバイトもできるようになったから。それでな、恥ずかしいねんけど……いつか、弟を大学に入れて、お母さんにおっきなお家を建ててあげたいねん。それが、今のわたしの夢。まあ、まだまだやねんけどな。お母さんは、『バイト辞めて好きなことしなさい』って言ってくれたけど……わたしにとって家族が一番やから。家族がすべてやから。……せやから、わたしだけがバイトもせんと、演劇を楽しむなんてこと、出来へん。……ホンマにごめんなさいっ」
すべてを話し終えると、姫子は思い切り頭を下げました。
可憐はついに我慢できずに泣き出しました。
「ずるいわ……そんなん言われたら、何も言えへん」
明は可憐にそっと近づき、やさしく頭を撫でてあげました。
「しょうがないよ、誰にだって家族の事情があんねんから」
可憐は涙を流しながらうなづくと、明の腰元に抱きつきました。
「ごめんな、可憐ちゃん……それじゃあ、わたしはこれで」
その場にいるのがつらかったのか、姫子は劇団のメンバーたちに丁寧にお辞儀をすると、足早に帰ろうとしました。
そこに声が聞こえました。
「じゃあ、ここで働けば?」
「え?」
姫子だけでなく、作菜も明も、泣きべそをかいていた可憐も、その声に振り向きました。
声の主は、じっと黙って素組みの舞台上に座っていた七海でした。
全員から見つめられた七海は、その視線に耐え切れず、ガードするようにブタのぬいぐるみを顔の前に出しました。
「七海、突然何を言い出すねん?」
「だから、ここで働けばって。作菜さんや、明さんみたいに」
大きなブタでガードしたまま答える七海に、作菜は呆れながら姫子に向き直りました。
「ごめんな、七海がいきなり変なこと――」
「それやっ!」
「うわっ、ビックリした~。なんやねん? 明まで」
突然声を上げた明に作菜が驚いていると、明は大きな独り言のようにしゃべりだしました。
「そういえばこの店、人出が足らんくて困ってんねんなぁ。なあ、作菜?」
「え? ……いや、人手なら――」
突然話を振られて困る作菜に、明がものすごい圧で顔を近づけました。
「なあ、作菜ぁ? 困ってるよなぁ?」
目を完全に見開いたままでニッと微笑む明に、作菜は声を震わせながら答えました。
「はっ、はい……そうでしたね~」
「あの~……」
よく分からない2人のやり取りに、姫子は困り顔をしました。
すると明は、今度は姫子に向き直り、ニコッと笑いかけました。
「ってことで、今この店、人手が足りなくて困ってまーす」
「はっ、はあ……」
姫子は明の言動に呆然としていましたが、明は構わず続けました。
「せやから姫子ちゃん、この店手伝って?」
「……え? ……ええっ!?」
「どういうこと?」
状況が読めない可憐は手で涙を拭きながら、明の顔を見上げました。
「つまり、姫子ちゃんにここでアルバイトしてもらうねん。もちろん、劇団『おとぎの花園』の団員も兼ねてな。そしたらバイトも演劇も両方できて一石二鳥やろ?」
「なるほど~」
と、理解したのは可憐だけでなく、作菜もでした。
「……あんたも分かってなかってんな」
明は作菜に少し呆れ気味に言いました。
「っていうことは、姫子と一緒にお芝居できんの?」
可憐の瞳がドンドンと輝きを取り戻してきました。
「え? あっ、いや……でもさすがにそれは、ご迷惑なんじゃ――」
「ウチなら構へんよ」
食器を洗い終えた石切がカウンターから顔を出しました。
「えっ、いやっ、でも……」
「よしっ! じゃあ、決まりやっ!」
マスターの言葉に驚いた姫子を尻目に、すっかりと元気を取り戻した可憐は、賑やかな声を上げて、明とハイタッチをしていました。
そんな可憐とは対照的な姫子の様子に気づいた明は首をかしげました。
「もしかして迷惑やった?」
「いえっ、そんな……ホンマにありがたいお話なんですけど……でも、他にもご迷惑をおかけするかもしれないですし」
「そんなんどうでもええ。やりたいか、やりたくないか、それだけやろ? それに、迷惑やったら十分、可憐にかけられてるしなぁ」
声を上げたのは作菜でした。
はじめは作菜の言葉を黙って聞いていた可憐ですが、途中で首をかしげました。
「……ん? ちょっと、それどういう意味やねんっ!」
「いや、言葉通りの意味やけど」
「明さぁん」
可憐はまた明の腰に抱きつきました。
明はそんな可憐の頭を「あ~あ~、よしよし」と、撫でてあげました。
そんな可憐たちの様子に構わず、作菜は続けました。
「あんたは演劇に興味があるって言った。それで十分、ウチの劇団に入る資格はあるし、もしバイトがあるから無理やって言うねんやったら、明が言ったようにここでバイトをすればええ。おっちゃんもええって言ってるしな」
姫子が見ると、カウンターの中から、石切がVサインを出していました。
「……とってもうれしいです。けど……なんでそこまでしてくれるんですか?」
「あんたのことが気に入ったからや。わたしも、明も、たぶん七海も、おっちゃんも。まあ、一番あんたを気に入ってんのは、もちろん可憐やけどな」
可憐はニコッと姫子にしました。姫子も、そんな可憐につられて、微笑みました。
作菜は続けました。
「可憐は真っ直ぐすぎるぐらい真っ直ぐな子やから、あんたがええ子やって、すぐに分かったんやろ」
「そんな……わたしなんか……」
「それになにより、演劇が好きなら、みんな仲間や。正直、あんたが演劇に興味なかったら、わたしはあんたが入るって言っても反対してた。けど、演劇に興味があるって言った以上は、どんなことでも力になったる。でもまあ、最後に決めるのはあんたや。やっぱり無理やって言うなら、もうこれ以上は引き留めへん。後は、あんたがやりたいかどうか、それだけや」
そこまで話し終えると、作菜は可憐を見ました。
「それでええな、可憐?」
可憐は作菜の問いに、少し不服そうな表情を浮かべましたが、仕方なく頷きました。
「わたしが……やりたいかどうか」
姫子は、考えていました。
自分がやりたいかどうか。それは姫子にとって、とても難しい言葉だったからです。
姫子は、小学生の頃にお父さんを亡くして以来、まだ幼い弟や、自分たちのために働いてくれているお母さんのために、自分のことはいつも二の次に考えてきました。
きっと、額田家の長女だという責任感もあったのでしょう。
自分のことよりも常にまわりの人のために頑張ってしまう。姫子は、そういう女の子だったのです。だから、誰のためでもない、自分がやりたいかどうか、という作菜の言葉は、姫子にとって何よりも難しい言葉でした。
姫子は、まるで真っ暗闇の中を彷徨っているようでした。
「わたし……どうしたらええの……?」
どこからかお母さんの声が聞こえてきました。
「お母さんや優也のために働いてくれるんはうれしいけど、姫子が自分のホンマにやりたいことを見つけて、それをやってくれる方が、お母さんはもっとうれしい」
「けど、わたしは、お母さんや優也のために――」
また声が聞こえてきました。
それは子供の声と男性の声でした。
「姫子もお姫様になりたいっ! だって姫子の姫ってお姫様の姫やもん。なあパパ、姫子、お姫様になれるかな?」
「なれるよ~、姫子やったら。周りの人を、いつも大事にしてたらな」
「ホンマに~? じゃあ姫子、みんなのこと、大事にするわぁ」
バッと姫子の目の前に、まだ幼い姫子がお父さんと一緒に絵本を読んでいる光景が映りました。その絵本は『シンデレラ』でした。
「……懐かしいなぁ。小っちゃい頃、よくお父さんにシンデレラの絵本、読んでもらったっけ? ……わたし、お姫様になりたかったんや……だから……」
次は昨日の『シンデレラ』の光景が目の前に広がりました。
美しいドレスに身を包んだ可憐が、輝く舞台の上でシンデレラを演じています。
「あんなに可憐ちゃんに見惚れちゃったんかな? ホンマは、可憐ちゃんがうらやましかったんかな? お姫様になってる可憐ちゃんが……でも、ホンマにええんかな? 劇団に入っても……」
「バイトなんて気にせんでええ。ちょっとは青春を満喫せな、後で泣いても青春は戻ってこうへんよ」
またお母さんの声が聞こえたかと思うと、姫子の頭に、やさしくポンポンと叩くお母さんの手のぬくもりがよみがえってきました。
「お母さん……」
ポト ポト ポト……
床の上に、水滴が落ちていました。
「姫子、大丈夫っ!?」
「え?」
いつの間にか目の前にいた可憐の声で、ふと我に返った姫子は、ようやく、自分が泣いていることに気づきました。
心配そうに見つめる可憐の顔を見ていると、姫子は涙がこらえられなくなりました。
目の前でポトポトと涙をこぼす姫子を、可憐はやさしく抱きしめました。
「……わたし、ええんかな? やっても。お母さんに迷惑ちゃうかなぁ?」
「……きっと大丈夫や。なんかあったら、わたしも力になるから」
姫子は可憐の腕の中で小さくうなづきました。
可憐は抱きしめていた腕をほどくと、姫子にやさしく微笑みました。
姫子はそんな可憐の笑みを見て、涙を浮かべたまま微笑み、口を開きました。
「……わたし演劇がやりたい。わたし、お姫様になりたい!」
「よう言うたっ! 今日から姫子は、劇団『おとぎの花園』の一員やっ!」
可憐は満面の笑みで言いました。
「ちょちょちょ、なんであんたが言うねんっ?」
後ろで見ていた作菜が慌てて言いました。
「この劇団の責任者は、わたしや。わたしの役目。わかるか?」
「いや、ちょっと何言ってんのか……?」
「なんでわからへんねんっ!」
「もう、うるさいなぁ、お局は」
「誰がお局様じゃっ!」
「だから様は言ってへんわっ!」
いつもの作菜と可憐のやりとりに、姫子は涙を流しながら笑いました。
そして姫子は、改めてみんなの前に立ち、大きく頭を下げました。
「不束者ですが、これからよろしくお願いしますっ!」
一瞬の静寂の後、その場は笑いに包まれました。
みんなの笑い声に顔を上げた姫子はキョトンとしました。
「あっ、あの……わたし、なんか変なこと言いましたか?」
「いやっ、なんか嫁入り前のあいさつみたいやなって。あんたやっぱりオモロイわ」
姫子は作菜の指摘に、顔を真っ赤にしました。
「先に可憐に言われてしもたけど、改めて、額田姫子、今日からあんたは、劇団『おとぎの花園』の団員や。よろしくな」
作菜の言葉にみんなもうなづきました。明はやさしくうなづき、七海はブタのぬいぐるみで手を振り、もらい泣きをしていたマスターはフキンで涙を拭きながらVサインをし、可憐はうれしそうにニッコリと笑いました。
姫子はもう一度みんなに、「よろしくお願いしますっ!」と、大きく頭を下げました。
「よ~し、じゃあ今日は姫子の歓迎会やっ!」
可憐は満面の笑みで思い切り腕を高く上げました。
「いやいや、先に昨日の反省会やろ?」
「えぇ~……ガクッ」
明の言葉に、可憐の振り上げた腕はヘナ~っと下がりました。
明は、そんな可憐に構わず、姫子に尋ねました。
「姫子ちゃん、今日何時ぐらいまでやったら平気?」
「えっ? あっ、8時ぐらいまでなら」
姫子の返答を聞いて、また可憐が声を上げました。
「よし、じゃあ、とっとと反省会終わらせようっ!」
やる気満々になっている可憐に今度は作菜が迫ります。
「可憐、とりあえずあんたはさっさと着替えて来いっ!」
「あーっ! まだパジャマなん忘れてた~!」
作菜の言葉に、可憐はようやく自分が寝起き姿のままだということを思い出しました。
そんな可憐に呆れ果てる作菜と、笑い出す一同。そんな空気に、姫子も笑みをこぼしていました。
奥の部屋へと着替えに行こうとする可憐は、トコトコトコっと、もう一度姫子の方に駆け寄り、ニコッとして両の手を差し伸べました。
「姫子、ようこそ、劇団『おとぎの花園』へ!」
「可憐ちゃん……うん!」
姫子はニコッと微笑み返して、可憐の差し出した手に答えました。
店内には幸せな空気が流れ、まるでみんなが、『めでたしめでたし』という笑みを浮かべていました。
……そんな姫子たちの様子をじっと見つめる瞳がありました。
それは、緞帳の奥にある2つ目の扉。かすかに開いた隙間から、その瞳はじっと見つめていました。
「額田姫子……またウザいのが入った」
誰にも聞こえないような小さな声で、その瞳の主はつぶやきました。
何かの視線を感じた姫子は、ふと奥の扉に目をやりました。
しかしすでに扉は締まりきっていました。
姫子は、気のせいかな? と、首をかしげました。
さてさて、姫子を見つめる視線は一体なんだったのでしょうか?
ともあれ、これで無事、姫子の新しい日々がスタートするようですね。
さあ、これからどうなりますことやら。
それはまた、次の幕でお話するとしましょう。では。