第二幕
目の前に大通りをのぞむ高層マンション……の、その隣にちょこんと建つ背の低いマンションの4階に、姫子たち額田家が暮らす家はありました。
間取りは2DKで、高校生と小学生の子どもがいる親子3人で暮らすには少し狭く、姫子は弟の優也と一つの部屋をカーテンで隔てて共有していました。
辺りがすっかりと暗くなった頃、肩にバッグをかけ、両手にコンビニ袋を持った姫子が帰って来ました。
「ただいまぁ」
玄関を入ってすぐのダイニングキッチンは、姫子が帰ってきた時、真っ暗でした。
姫子は食卓にドサッと荷物を置いて、電気を付けました。
「お父さん、ただいま」
食卓の隣の棚に飾られたお父さんの写真に、帰ってきてすぐに手を合わせるのが姫子の日課でした。
挨拶を済ませると、姫子は食卓のイスに腰を下ろしました。
「はぁ、それにしても、今日は全然バイトに集中出来ひんかったなぁ」
姫子はため息を零して呟くと、ふとバッグの中に入っていた一枚の紙を取り出しました。それは、昼間に喫茶石切堂で観た演劇『シンデレラ』のチラシでした。
「よかったなぁ。可憐ちゃん、キレイやったなぁ」
姫子は頬に手を当てて、思い出し笑いを浮かべました。
「……それにしても、可憐ちゃん、ホンマにわたしなんかに劇団に入ってほしいんかなぁ?」
前回までを読んでいない方たちにご説明いたしましょう。
偶然知り合った今里可憐という女の子に誘われ喫茶石切堂という喫茶店に演劇を観に行った姫子は、そこで可憐が所属する劇団『おとぎの花園』に勧誘されたのでした。
結局、姫子はその後、アルバイトの時間があったので、返事を出せないまま店を出て、今に至るわけです。
「でもわたしバイトもあるしなぁ……。でもせっかく誘ってくれたのに断るのも悪いしなぁ……。ああ~、どうしよう……」
姫子は頼まれると断れない性格でした。しかし、頑固なところもありました。なので、こういう時にはなかなか決断が出せないのです。つまり、優柔不断なんですね。
姫子はチラシを手にしたまま、食卓にうなだれてしまいます。かと思うと、
「ああ! お姉さまたちがうらやましい! わたしもお城のパーティに行きたいわ!」
パッと立ち上がり、突然『シンデレラ』のセリフを大声で口にしました。
……お世辞にも上手いとは言えません。
セリフを言い終わると、姫子は誰もいない部屋で1人、笑い出しました。
「ハハハッ、な~んてな。わたしがシンデレラなんてありへんかぁ……」
と笑った後、姫子はどこか切ない表情でため息をつきました。
「なに1人でデカい声出したり、笑ったりしてんねん、気持ち悪い」
「どぅぇえええ!?」
姫子は驚嘆の雄たけびを上げて、食卓の後ろに隠れました。ちょこんと顔をのぞかせて、
「ゆ、優也くん、居りましたん?」
姫子の視線の先、姫子と優也の共有部屋の前に、小学生の弟の優也が立っていました。
「ずっと部屋に居ったわ。何時やと思ってんねん? ていうか、そのしゃべり方なに?」
姫子が視線を壁掛け時計にやると、姫子の家の時計はすでに夜の9時前を指していました。
「ま、まあ、そらそうか……」姫子は顔を引っ込めて、「ぼぉーとしてて優也が居るの忘れてた。恥ずかしいぃ!」と、自分を抱きしめるようにして、腕をさすりました。
すると突然、姫子は立ち上がり、開き直ったように、「て、ていうか、居るんやったら『おかえり』ぐらい言ってよ。ここも真っ暗やったし!」と、真っ赤な顔で弟を咎め始めました。
「節電しろっていつも言ってんの姉ちゃんやん。それに……」
「それに?」
「めんどくさい」
優也のズバッとした一言に、姫子はガクッとなりました。
「めんどくさいって……はぁ、昔はわたしが帰ってきたら玄関まで走って来てくれてたのになぁ。『お姉ちゃん、おかえりー』って」
姫子は大きくため息をついていじけてしまいました。
「いつの話やねん。俺もう小5やで」優也はさらっと受け流すと、話を切り替えました。「それより、今日もお母さん遅いって」
姫子は少しツンとした声で答えました。
「知ってますー。今日はバイト先のコンビニでお弁当もらって来たから一緒に食べよう」
ぷりぷりした姫子に構わず、優也は食卓のコンビニ袋を覗き込みました。
「お、唐揚げも入ってる! うまそ~」
うれしそうな優也を見て姫子はつい頬を緩めました。
そしていたずらな笑顔を浮かべながらバッグの中からタッパーを取り出し、
「今日はなんと、デザートのケーキもあんねんでぇ」
と、姫子は優也に見せるようにタッパーを開きました。中には小さな四角いチーズケーキが2個入っていました。
「小っちゃ! ていうか、どうしたん? ケーキなんて珍しい」
「小っちゃいは余計や。今日お姉ちゃん演劇観に行くって言ったやろ? その公演があった喫茶店の人がくれてん。『試食用です』って出してくれてんけど、おいしいから『お家用にもくれませんか?』って頼んでみたら、なんと2つも!」
「おぉー、太っ腹。ていうか、試食品、家用にとかねだるなよ。恥ずかしい」
「だって、ホンマにおいしかってんもん。優也とお母さんにも食べさせてあげたいなぁ、って思って頼んだのに……そういう言い方するんやったら、優也にはあげません」
優也は血相を変えました。
「じょ、ジョ―ダンやないですか! いっつもお姉さまには感謝しかないです。よっ、日本一!」
「え? ホンマにぃ? もう~、この子ったら上手いねんからぁ~」
「あ、あの~、ケーキの方は?」
「もう~、しゃあないなぁ。じゃあ着替えて来るからちょっと待っててな」
あっさりと優也に乗せられた姫子は、ニコニコしながら優也との共有部屋へと着替えに行きました。
「……相変わらず単純やなぁ。なんか心配になるわ」
残された優也はぼそっと零しました。
動きやすい部屋着に着替えた姫子と優也が食卓を挟んで夕食を食べています。
額田家ではよく見る光景です。
お母さんはいくつも仕事を掛け持ちしているので、土曜日でも夜が遅い事はざらにありました。そんな日は姫子が、簡単な料理を作ったり、今日のようにバイト先でお弁当などをもらったりして、夕食の用意をし、優也と二人で先に食べていました。
「あ、ご飯粒ついてるよ」
姫子が優也の口元に手を伸ばします。優也は嫌って、
「もうええって、子供ちゃうねんから」と顔を背け、自分で米粒を取ります。
「まだ子供やろ? あ、お姉ちゃんのも食べるか?」
「いらんの?」
姫子はやさしく頷き、優也に自分のお弁当のおかずを分けてあげました。
お父さんが亡くなってから8年。姫子は年が少し離れていたこともあり、まだ優也が幼稚園の時から、忙しいお母さんの代わりに、優也の面倒を見ていました。
幼稚園の送り迎えや、運動会の応援、遠足の日のお弁当作りなど、なんでも文句ひとつ言わずにこなしてきました。
それもこれも、姫子は心から優也を愛していたからです。
……まあ、ケンカもよくしますが。
食後、姫子は優也にインスタントコーヒーを入れ、ケーキをお皿に移してあげました。優也はケーキを幸せそうに頬張り、姫子はその様子を嬉しそうに見ていました。
優也がケーキを食べ終わるころ、姫子が口を開きます。
「なあ、優也。もしも、もしもお姉ちゃんが演劇やるって言ったら、どうする?」
「はぁ? 演劇?」
姫子の藪から棒な質問に優也は首をかしげました。
「も、もしもの話や。実は今日な、劇団の子に誘われてしもうて――」
「あ!」と、優也は姫子の話を全て聞き終わる前に声を上げました。「さっき1人で大声出してたんはそれか!」
「え……」
姫子の顔がどんどん赤くなっていきます。
「も、もう、そのことは言わんといて!」
優也は姫子の言葉を聞かず、思い出し笑いをしながら、「わたしもお城に行きたいわ!」と、先ほどの姫子のモノマネを始めました。
姫子はほっぺをぷぅーっと膨らませました。顔も真っ赤なもんですから、姫子の顔はまるでタコのようになりました。
「優也のアホ! 優也に聞いたわたしがアホやったわ。もう! はよ風呂でも入って寝ろ!」
「お~、こわ」
優也は残っていたコーヒーを一気に飲み干し、慌てて風呂場へと駆けこみました。
「わたしもお城に行きたいわ!」と、風呂場の方からまだ優也の笑い声が聞こえてきます。
「しつこい!」姫子は風呂場に向かって怒鳴りました。
……やれやれ、またケンカになってしまいましたね。
時刻は夜の10時。
食卓を片付けた姫子が一人イスに座っています。風呂場からはかすかにジャバンというお湯を流す音が聞こえます。優也が風呂に入っているのでしょう。
姫子は隣の席に置いたままだったバッグからまた『シンデレラ』のチラシを取り出します。
「はぁ、やっぱり無理やんなぁ。第一、優也のこと大学に行かせてあげたいし。お母さんにおっきなお家も建ててあげたいし。可憐ちゃんには申し訳ないけどなぁ……」
姫子はバッグから一冊の通帳を取り出して開きました。
「1年バイトしてまだ100万円か……あかん、あかん、まだまだ頑張らな」
余計なことは考えないようにしよう、そんな風に姫子は首を横に振りました。
しかし、どうしてもチラシに目が行ってしまいます。
「でも……せっかく友だちになってくれたのに、断り辛いなぁ……。それに――」
その時、玄関でガチャっという物音が聞こえ、続いて声が聞こえました。
「ただいまー」
姫子はさっとチラシと通帳をバッグに戻し、玄関に向かいました。
「おかえり、お母さん」
帰って来たのは姫子たちのお母さんでした。
「ただいまぁ。ごめんな、遅なって。優也はお風呂?」
「うん」
姫子はお母さんから預かった荷物を、お母さんの寝室に置いて、コンビニ袋からお弁当を取り出しました。
「今日コンビニでお弁当もらって来たから、すぐに温めるな」
「ありがとう」食卓を横切ったお母さんは、寝室で上着を脱ぎながら答えました。
そしてお母さんが食卓に戻ってくると、姫子はお弁当とお茶を出しました。
「いただきます」
手を合わせるお母さんに、姫子はニコッとして「どうぞ」と、向かいの席に座りました。
「姫子、明日も新聞配達やろ? あとはお母さんやっとくから、ちょっとぐらい寝といたら?」
食事をしながら姫子をいたわるお母さんに、姫子は、大丈夫だよ、という笑顔を作りました。
「明日は日曜日で学校もないし、お弁当屋さんのバイトも昼からやから、新聞配達終わってから寝るわ」
「そう? あんまり頑張りすぎて体壊さんといてよ」
お母さんは心配そうな笑みを浮かべます。
「お母さんの方こそ、無理し過ぎんといてや」姫子はお父さんの写真に目を向け、「お父さんみたいになったら嫌やで」と言って、視線をお母さんに戻しました。
「大丈夫!」お母さんは胸を張り、「お母さん、こう見えても健康にだけは自信あるから」と、笑顔で答えます。
「だけってなんやねん? もう~」
姫子とお母さんは、2人して笑い合いました。
姫子とお母さんは、顔を合わせると、いつもこんな話をしていました。
「あ、それより、今日演劇観に行くって言ってたけど、どうやったん?」
しばらく笑い合った後、お母さんが話題を変えました。
「うん、今まで幼稚園のお遊戯会とか、学校の文化祭の出し物ぐらいでしか演劇って観たことなかったけど、やっぱり全然違うくて、すごくよかった。キラキラしてたわ」
お母さんは、うれしそうに話す姫子を見てニコッとしました。
「へぇ~、よかったなぁ。そんなに姫子が誉めるんやったら、お母さんも観てみたかったなぁ」
「あ、来月もあるみたいやから、都合が良かったら一緒に行こう?」
「そうやね、行けたらええね」
「うん」と、微笑んだ後、姫子は視線を少し下に落としました。
お母さんはそんな姫子の様子に気づきます。
「どうしたん、姫子?」
姫子は慌てて、「え? あ、ケーキ! そう、ケーキもらってん! お店の人に」と、そばに置いていたタッパーを開けて、「優也にはさっきあげたから、後でお母さんも食べて」と、差しだしました。
お母さんはそれを見て、「気になっててん、そのタッパー。美味しそうやねぇ。じゃあ、後で半分こして食べよう」と、お母さんはニコッとしました。
姫子は手のひらを体の前で振り、
「わたしはええよ。お店で食べて来たから。これはお母さんが食べて」
「そう?」
お母さんは少しがっかりした表情を浮かべ、お弁当のご飯を一口食べると、また口を開きました。
「で? 他にもなんかあったん?」
「え?」姫子は鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべました。
「まだなんか隠してるやろ? 白状しなさい」
「な、なななな、何も隠してないよっ」
姫子は明らかに動揺していました。
「何年、あんたのお母ちゃんやってると思ってんの? 下向いたり、話はぐらかしたり、なんか隠してる時のあんたのクセや」
「ぎくっ」姫子はつい心の声を表に出してしまいました。姫子は正直者なのです。
お母さんは優しく微笑み、「なんでもいいから言ってみなさい。あ、当てたろか? 劇団に誘われたんやろ?」
「ぎくっ!」姫子はまたまた心の声を表に出してしまいました。「なんで分かるん?」
「さっきうれしそうに話してるのを見てて、ピンと来てん」
「……お母さんには隠し事出来ひんわぁ」
姫子は参りました、という笑みを浮かべました。
「そうやぁ。お母さんに隠し事なんて100年早いわ。まぁあんたは分かりやす過ぎやけど」
お母さんは鼻を高くしました。その後、姫子に真面目に向き合い、
「それで、姫子はどうするつもりなん? だいたい、なんでそんなことお母さんに隠すん?」
「さっき優也にも笑われたし、お母さんに余計な心配かけたくなかったから」
「心外やわぁ。親に心配かけるのが、子供の仕事やろ?」
「ありがとう……あ、でも、バイトもあるから断るつもりやし、この話は忘れて」姫子は笑顔を作った後、ぼそっと「……誘ってくれた子には悪いけど」と、呟きました。
「誘ってくれた子に悪いとか、バイトがあるからとかじゃなくて、姫子はどうしたいの? やりたくないの?」
「わたし? ……わたしは……」
姫子はなかなか答えられませんでした。
「やってみたら?」答えられずにいる姫子にお母さんはやさしく言いました。「もちろん、お母さんの言う通りにせんでもええ。けど、迷ってるってことは、べつにやりたくないってことじゃないんやろ?」
姫子は黙ってうつむきました。
「迷うくらいなら、やってみた方がええ。ちょっとやってみて、やっぱり違うなぁって思ったら、辞めればええねん」
「けど、バイトが――」
「バイトなんて気にせんでええ。あんたが働かんでも、お母さんの稼ぎだけでもなんとかなるわ。お母さんや優也のために働いてくれるんはうれしいけど、姫子が自分のホンマにやりたいことを見つけて、それをやってくれる方が、お母さんはもっとうれしい」
ニコッと笑って、お母さんは姫子の頭を撫でました。
「お母さん……」
姫子はうれしさと恥ずかしさで頬を赤く染めました。
「まあ、ゆっくり考えてみなさい。姫子は部活もやってへんし、ちょっとは青春を満喫せな、後で泣いても青春は帰ってこうへんよ」
お母さんは撫でていた手でやさしく姫子の頭をポンポンと叩くと、食卓を片付け始めました。
考え込んでいた姫子は、ふと我に返り、「あ、わたしやるよ」と、慌ててお母さんの手伝いを始めました。
そこに声が聞こえてきました。
「あ~、いい湯やったなぁ」
寝巻に着替えた優也が風呂場からやってきました。
「優也、随分長風呂やったなぁ。ていうか、おっさんみたいやな」
先ほどのケンカもどこ吹く風で、姫子はいつものように優也に笑いかけました。
「男には男のメンテナンスがあんねん」
「はぁ?」
カッコつける優也に、姫子は呆れ笑いを浮かべます。
そんな2人を微笑ましく横目で見ているお母さんは、ケーキの入ったタッパーを開けて、
「優也もケーキ食べる?」と、声をかけます。
「あ、食べる~」
お母さんの言葉に優也はうれしそうに答えます。
「ちょっと、お母さん。優也も、ホンマにもらおうとせんの。さっき食べたやろ?」
姫子は慌てて2人を注意します。しかしお母さんは、
「ええのよ。みんなで食べた方が美味しいやん。ほら、姫子とお父さんの分も切り分けたで」
と、困り果てた姫子を尻目に、ナイフで小さなチーズケーキを、さらに小さく4等分にして、4枚のお皿に取り分けました。
ニコニコしながらコーヒーを入れるお母さんを見て、姫子は、「しょうがないなぁ」と、微笑みました。
小さな小さなチーズケーキの乗った4枚のお皿を囲み、姫子と優也とお母さんが席に着きました。
その食卓には、隣の棚に飾られていたお父さんの写真も一緒に置かれています。
お父さんの写真は、チーズケーキを食べる3人を見て、ニコッと微笑んでいました。
こうして、姫子たちの夜は更けていきました。
お母さんの説得を受けた姫子は、どんな答えを出すのでしょうか?
それはまた、次の幕でお話しするとしましょう。では。