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演劇の見られる喫茶店  作者: しみずけんじ
20/27

第十九幕



 喫茶石切堂にマスターの娘・結衣が訪れていたちょうどその頃、大阪のとある駅のホームに姫子たち『高2トリオ』の姿がありました。

 たくさんの荷物を抱えた3人は、ベンチに座り、帰りの電車を待っているところでした。

「衣装に使う布もバッチリ買えたし、野獣の被りもんも見つかってホンマに良かった~」

 3人の真ん中に座っていた姫子は、大きなビニール袋に入った、これまた大きな獣の顔に型どられた被り物を覗きながら、嬉しそうに言いました。

 そうです。今日は姫子は、石切堂でのバイトを終えると、片付けもそこそこに、可憐と七海を借りて、11月公演の衣装に使う生地や小道具などの調達へとやって来ていたのです。

 ちなみに言い忘れていましたが、劇団おとぎの花園11月公演の演目は『美女と野獣』に決まり、その配役は――

 ベル:可憐

 野獣:作菜

 魔女他:七海

 そして、今回も姫子は奏と共に、裏方に回っていました。

「その被りもん、絶対に作菜さんにピッタリやな」

 隣からビニール袋の中を覗き見ていた可憐が、クスクス笑いながら、飲んでいた缶コーヒーを姫子に差し出しました。

 その缶コーヒーを受け取ると、姫子も少し笑いそうになるのをガマンしながら言いました。

「ありがとう。もぅ、そんなん言うたら、また作菜さんに怒られちゃうよ? ……はぁ~、あったか~。はい、七海ちゃんも」

 姫子は缶コーヒーを一口飲むと、今度は七海に差し出しました。

 けれど、七海はぼーっとしたまま、それを受け取ろうとしませんでした。

「……七海ちゃん?」

 姫子が首をかしげながらもう一度声をかけると、七海は「えっ?」と、我に返り、「ありがとう」と、缶コーヒーを受け取りました。

「……七海ちゃん、大丈夫?」

「……な、何が? ちょっとぼーっとしてただけや。……はい、可憐」

 少しどぎまぎしながら姫子の問いに答えた七海は、少しだけ缶コーヒーに口を付けると、すぐに可憐に返しました。

 可憐はそれを受け取ると、口を尖らせて言いました。

「何が『ちょっと』や。電車に乗ってる時も、買いもんしてる時も、ずーっと、ぼーっとしてたやん? なんか言いたいことあるんやったら、言えばええのに」

「ちょっと可憐ちゃん、そんな言い方せんでも……」

「でも、姫子やって心配してたやろ? 七海が家出してきた時、『なんかあったんかなぁ?』って」

「それは……まあ、そうやけど……そんな言い方してへんわ」

 姫子が少し頬を赤らめて言うのも聞かず、バッと立ち上った可憐は、何も物言わない七海の前に立ちました。

「七海っ……魚臭いで」

「ええっ!? そ、そうかなぁ……?」

 可憐の言葉に驚いた姫子は、七海の匂いをクンクンと嗅ぎながら首をかしげました。

「……それを言うなら、『水臭い』やろ?」

「あ、それそれ」

 七海のツッコミに可憐が返答すると、姫子は一人、ガクッとしていました。

「な、なんやぁ……ホンマに七海ちゃんが魚臭いんかと思った……」

 そんな姫子に構わず、珍しく真面目な顔になった可憐は、仕切り直しました。

「七海、わたしたちって、『高2トリオ』やろ? なんか相談したいことがあるんやったら、ちゃんと言いや。せやないと……なんか気持ち悪いやん。姫子やってすぐに心配するし」

「可憐ちゃん……」

「……よう言うわ。可憐やって、姫子とケンカした時とか、なんも言わへんかったくせに」

「ぎくっ! ……ま、まあ、そんなこともあったかなぁ……ははは~」

 七海に鋭くツッコまれると、可憐はごまかしたように笑いながら、『席』に戻りました。

「ごまかした……」

 七海に手痛くやられた可憐に飽きれ笑いを浮かべつつ、今度は姫子が、七海にやさしく言いました。

「……でも、七海ちゃん、可憐ちゃんの言う通り、なんかあったんやったら、なんでも言うてな。わたしたち、友だち……『仲間』やろ?」

「『仲間』……」

 七海は、姫子の言葉に、昨夜のマスターの言葉を重ねていました。

――でも、あの子たちは待ってると思うで。七海が相談してくれることを。だって……『仲間』やろ? ――

 七海は少し考えた後で、静かに話し始めました。

 ちょうどその時、電車がやって来ました。


 一方その頃、喫茶石切堂では……。

 作菜と奏が見守る中、テーブル席に座るマスターと、その娘・結衣の姿がありました。

 店の中には、ピーンと張り詰めた、ずいぶん重たい空気が流れています。

「……あ、コーヒーでも入れようか?」

「……結構です。今日は、話があって来ただけなんで」

 場の重苦しい空気を換えようとしたマスターの言葉は、結衣に一蹴されました。

 「そうか……」と、少しシュンとするマスターの後ろで、今度は作菜が挑戦しました。

「結衣ネエ、そんな他人行儀な言い方せんでも。親子やねんからさっきみたいに――」

「作菜、ちょっと静かにしててくれる?」

 ニコ~っと笑いながら、作菜の言葉に被せるように言い放った結衣の目は、笑っていませんでした。

「は……はぃ……」

 結局作菜も、ぼう然とする奏の隣で、シュンとしてしまう結果に終わりました。

「……それで、結衣、話ってなんや? なおは……お母さんは元気にしてるんか?」

 気を取り直すようにマスターが尋ねると、結衣は静かに話し出しました。

「……母は死にました。今日はそのことを伝えに来たんです」

「直が……そうやったんか……」

「まあ、昔から病弱な人でしたし、わたしを養うために女手一つで苦労してきた人なんで、無理もないと思います。でも心配せんといてください。葬儀も片付けも、もうこっちで済ませましたから。……あなたには迷惑はかけませんので」

 ぼう然とするマスターを尻目に、淡々と言葉を並べた結衣は、席を立ちました。

「……じゃあ、今日はそれを言いに来ただけなんで……失礼します」

 結衣は、マスターに一礼し、そのまま玄関へと歩いて行きました。

「結衣っ! ……ちゃんと生活は出来てるんか? お金や食べるもんは大丈夫なんか?」

「……バイトもしてますし、大学卒業後の就職先も決まってますので。……一人でも、大丈夫です。……お父さんも、お元気で」

 マスターの声に立ち止まった結衣は、また歩き出しました。

 その結衣の足をもう一度止めたのは、奏の声でした。

「あ、あのっ! ……げ、劇っ、観に来てくださいっ。お姉ちゃん、チラシ」

「え……あ、ああっ。結衣ネエ、ちょっと待ってて」

 奏に言われ、作菜は慌てて2階から11月公演のチラシを持ってきました。

「これ、まだ試作品やねんけど。再来週の土曜日に公演やから、良かったら観に来て」

「……ありがとう。考えとくわ」

 奏と作菜の言葉に、来店した時の笑顔に戻った結衣は、そのまま帰って行きました。

 結衣が帰った店内では、マスターと作菜がうなだれていました。

「……結衣は、もう僕の助けなんか必要ないみたいやな」

「……まさか、直伯母さんがもう亡くなってたなんて……」

 そんな二人とは別に、奏はまだ結衣が去った扉を見ていました。

「……でも、結衣ネエ……さんは、ホンマにあれだけを言いに来たんかな?」

 奏のぼそっと言った言葉に、作菜が「え?」と反応しました。

「そういえば奏、なんで結衣ネエに公演のチラシなんか……ああ、いや、別に悪いとかとちゃうねんけど……ああは言ってたけど、結衣ネエ、観に来てくれるかなぁって……」

「……たぶん来ると思う。結衣ネエ……さん、この前の公演の動画観たって言ってくれてん。楽しそうやなって。……もしかして、あの人ホンマは……」

 奏だけには、結衣の『何か』が、分かったのかもしれません。


 そして明くる日、土曜日……。

 今日は七海のご両親が店にやって来る日です。

 陽が沈み、店が閉店すると、七海に呼び出されたお母さんとお父さんが、喫茶石切堂へとやって来ました。

 すでに普段なら稽古の時間でしたが、姫子たち劇団おとぎの花園の団員達も、廊下で息を潜めて、七海たちの状況を見守っていました。まるで三者面談とか面接のときのような緊張感が、店内には張り詰めていました。

 ……そんな中、店内をチラチラと覗き見ている怪しい人影が店の外にありました。サングラスやらマスクやらをしています。

 その人影に一人気がついた奏は、一度作菜たちに言おうか迷いましたが、何も言わず、そっと店の裏口から表の方へと回って行きました。

「あの……」

「! ギョヘェッ!?」

 突然背後から声をかけられたその人影は、体全体を使って、あられもない声を出しました。

 そして、「違うんです! わたし決して怪しい者じゃ……」と、怪しい人物が良く使う文句を一通り並べた後で、目の前にいたのが見覚えのある車イスの少女だと気づき、その人影は胸をなでおろしました。

「な、なんや……奏か……」

「……中、入らへんのですか? その……結衣ネエ……さん」

 結衣は、サングラスとマスクを取って、昨日のように笑いました。

「『さん』はええよ。親せきやねんから。……ちょっと近く寄っただけやから、もう帰るわ」

「……こっち来てください」

 帰ろうとした結衣に、奏は手を差し伸べました。

 結衣は少しの間、奏の目を見た後、その小さな手を握り返しました。

 そして奏は、他の人たちにはばれないように、そっと裏口から結衣を店内に連れ込んで、自分の部屋へと案内しました。

「ここ奏の部屋? なんでわたしをここに?」

 結衣が尋ねると、奏は店側の扉を少し開けながら答えました。

「もう外は寒くなってきたし、ここやったら店の様子も見えるから……」

 奏の気づかいに、結衣はニコ~っとして言いました。

「奏って優しいねんなぁ。……けど、やっぱりもう帰るわ。ホンマにちょっと近く寄っただけやから」

「……ちょっと近く寄っただけの人が、サングラスとかマスクして、店の中じろじろ見るんですか?」

「……敬語とかええよ。親せきやねんから」

 笑って見せた結衣に、奏は扉を閉めて、続けました。

「話をはぐらかさんといてください! ……ホンマは、ここに帰って来たいんじゃないんですか?」

「え?」

 結衣は目を丸くして驚きました。

 奏は言葉を続けます。

「……だいたい、直伯母さんが亡くなったことを伝えるだけやったら、わたしたちの劇の動画とか観る必要ないし……それに、おじさんが嫌いなんやったら、電話とか手紙だけでええと思う。……それに、わたしはおじさんの前でした顔じゃなくて、今の顔が、ホンマの結衣ネエ……さんやと思うから」

 一生懸命に言葉を並べた奏に、結衣は一つ大きく息を吐き、いつものように笑いました。

「ばれちゃったか……作菜とかお父ちゃんにはばれてへんと思ってんけどなぁ。奏のそういう鋭いところ、奏のお母さんにそっくりや」

「え……? わたしのお母さん?」

 結衣は「そうや」と奏のベッドに腰を下ろしながら、話を続けました。

「たまぁ~にしか会わへんかったのに、お父ちゃんやお母ちゃんよりずっとわたしのことが分かってた。……素直になられへんわたしのことが」

「そう……なんや」

 小学3年生でお母さんを亡くした奏にはあまり実感が沸きませんでした。けれど、お母さんに似ていると言われ、悪い気にはなりませんでした。

「……お母ちゃんが亡くなったこと、お父ちゃんに言わななぁって思ってた時な、店のホームページ見てな、劇の動画見つけて……そしたら、作菜楽しそうやなぁって、奏元気かなぁって……お父ちゃんも元気かなぁって思って……そんなこと考えてたら、いつの間にかここに足が向いてた。今日やってそうや。昨日はあんな言い方してもうたのに……なんや、やっぱり気になってなぁ」

「……そんなに気になるんやったら、帰ってきたらええじゃないですか? おじさんやって、直伯母さんが亡くなったんやったら、許してくれると思うのに……」

 結衣は奏の言葉に、自虐的な笑みで答えました。

「……出来へんよ、そんなこと」

「なんでですか?」

「……ケンカ別れみたいなもんやったから。……お父ちゃんとお母ちゃんが離婚することになって、お父ちゃんは、お母ちゃんが身体が弱い人やったから、わたしをお母ちゃんに付いて行かせようとして……わたしは、もちろんお母ちゃんのことも心配やったけど、この店を始めたばっかりやったお父ちゃんのことも心配で、ここに残りたいって言ってんけど……『子供はそんなん気にせんでええ』って……もうわたし大学生やったのにやで? それでわたし、なんかカチンと来て、『もうこんなとこ二度と戻って来るか』って言って、出てきてしもうてん……せやから……。昨日やって、2年ぶりに帰って来て、内心ビクビクやってんから」

 ……だから昨日、作菜がマスターを呼びに行った時、一瞬、笑顔が無くなったり、マスターの前ではあんな態度をとったんだ。

 奏は納得しました。それでも――

「それでも……おじさんは生きてるやんか」

「え……?」

「直伯母さんや、わたしの両親と違って、おじさんは生きてる。……生きてる限り、仲直りぐらい出来るわ。ちゃんと自分の気持ちに素直になりさえすれば」

「奏……」

 結衣は、奏が両親を亡くしていることを思って、申し訳ない気持ちになっていました。

 奏は、『かつて』を思い出すように、自分の不自由になった脚を見つめながら、続けました。

「……わたし、ずっと素直ちゃうかった。お姉ちゃんとぶつかったり、劇団のみんなとも仲良くなれへんかったりして……でも、自分の気持ちに素直になれたから、お姉ちゃんとも、みんなとも仲直り出来て……今はめっちゃ楽しい。せやから、結衣ネエやって……」

 頑張って話す奏に歩み寄った結衣は、奏の前にしゃがみ込んで、ニコ~っと笑いました。

「やっと『さん』が取れたな。敬語も治った」

「あ……」

「……なれるかな? わたしも奏みたいに素直に」

「……なれる。わたしも力になるから」

 結衣が微笑みながらうなずくと、奏も小さく微笑みました。

 ……そんな二人の耳に、扉の向こうから女性の怒鳴ったような声が聞こえてきました。

「ええ加減にして、七海!」

「? なんかあったん? そういえば、今日って劇の稽古とかは?」

 結衣が尋ねると、奏は扉をそ~っと少しだけ開いて、説明しました。

「うちの劇団員の七海さんの両親が離婚するみたいで……お父さんかお母さん、どっちに付いて行くか七海さんに決めさせようとしてんねんけど、七海さん、決められへんみたいで……稽古は、いつになるか分からへん」

「……おんなじか」

 奏の頭の上から扉の外を覗きながら、結衣はぼそっと零しました。


 一方、扉の外では……。

 先ほど怒鳴っていた女性・七海のお母さんが、テーブル席の対面に座る七海に向かって、なおもガミガミと怒鳴り続けていました。テーブルに置かれた3つのコーヒーは、すっかりと冷めてしまっています。

「わたしに付いて来たいん? お父さんに付いて行きたいん? ハッキリしてくれへんかったら、いつまでたっても話が進まへんやないのっ!」

「うん……でも……」

 お母さんにいくら怒鳴られても、七海はぬいぐるみのウミブタをギュッと抱きしめて小さくなるだけで、答えを出せずにいました。

 そんな七海たちの様子を、マスターはカウンターから、姫子、可憐、作菜は廊下から見守っていました。

 その中で可憐だけは、聞こえてないことをいいことに、ぶつぶつと愚痴を零していました。

「親やからってあんな言い方せんでも! うちの七海を泣かしたら許さへんからっ!」

「ま、まあまあ、落ち着いて、可憐ちゃん」

 姫子はなんとか可憐をなだめようとしていますが、可憐のイライラは収まりませんでした。

「落ちついてられへんわ! ……親なんてみんなそうや。自分勝手でさ」

 この件に対して一番興味が無さそうだった可憐が、頭から湯気が出そうなほど怒っていることに、姫子が困り果てていると、仕事の電話のために外に出ていた七海のお父さんが戻って来て、言いました。

「七海、お父さんも忙しいねん。別にどっちを選んでも怒らへんから、ハッキリ言いなさい。お前は昔からそうや。困ったら黙り込んで。社会では通用せえへんで? ……それに、もう子供じゃないんやから、そんなぬいぐるみは捨てなさい」

「! ……でも、これは……」

 七海は泣き出しそうになりながら、さらにギュッとウミブタを抱きしめますが、お母さんとお父さんは、なおも七海に迫りました。

「七海!」「七海!!」

 いよいよマスターたちが七海に手を差し伸べようとしたその時、大きな声が店内に響きました。

「そんなん子供が決めれるわけないやろっ!」

 誰もが一斉に声の方へ視線を向けると、奏の部屋からバッと結衣が出てきました。

「……誰?」

 姫子と可憐はキョトンとしていましたが、作菜とマスターは驚きを隠せずにいました。

「結衣……」

 マスターのそのワードに、七海は、先日マスターの部屋で見た家族写真と、その時にチラッと聞こえたマスターの『結衣』というワードを思い出しました。

「結衣さん……この人が……」

「結衣ネエ、なんでここに? っていうか、なんで奏の部屋から……」

 驚いて出て来た作菜が尋ねると、結衣は「そんなんどうでもええねん」といなし、七海一家の方へドスドスと歩いて行きました。

 突然現れた結衣に、七海のお母さんは驚いたように言いました。

「な、なんですか、あなたは? ていうか、あなたには関係ない話でしょ?」

「ええ、関係ないです。この子とも、今初めて会いました。……けど、親が離婚してるっていう意味では、無関係とちゃいます」

 結衣の言葉に、七海の両親は、「えっ」となって、黙りました。

 結衣は続けます。

「……わたしには、この子と違って選択肢はありませんでした。母親が病弱やったからっていう理由で、母親に付いて行かされたんです。……でも、ホンマは父親に付いて行きたかった。今はどうか分かれへんけど、あの頃の父親は、仕事ばっかりで、なんもしてくれへんかった……でも、それでも、やっぱり父親を一人にするんが心配やったから」

「結衣……」

 マスターは『あの頃』を思い出したように、結衣を見つめました。

 結衣は、なおも続けました。

「……でも別に、母親のことがどうでも良かったとか、嫌いやったとかじゃないんです。母親やって大切でしたし、慕ってもいました。せやから……」

「わたしにとってはどっちも大事やねん。せやから、どっちかを選ぶことなんか出来へん。……ホンマは……ホンマは離婚なんかして欲しくない!」

 それは、七海の本心でした。ずっと心の底に溜まっていたものが、結衣の言葉で爆発したのです。

 そんな七海を、結衣はやさしく見つめ、七海の両親は完全に黙り込み、お互いに目をやりました。

 そこへ、マスターがあったかいコーヒーとチーズケーキを持ってやって来ました。

「わたしも離婚した身です。実は、この子……結衣はわたしの娘なんです」

 マスターの言葉に、七海の両親は再度、「えっ」としました。

 結衣が見つめる中、マスターは続けました。

「……わたしも人様に立派なことは言えませんけど、離婚をすれば、必ず子供に苦労を掛けます。それを『不幸』と取るかどうかはその子次第ですけど、でも必ず、子供を不自由にさせてしまいます」

「お父ちゃん……」

 結衣は自然に、『お父さん』ではなく、『お父ちゃん』と呼んでいました。

 マスターはさらに続けました。

「もしチャンスがあるのなら、もう一度、やり直してみませんか? 一度は家族やったんですから、きっと大丈夫ですよ。……まあ、少し落ちついて考えてみてください。甘いものを食べればイライラも収まると思いますので。では」

 一つお辞儀をしてマスターが立ち去ると、結衣も、見上げる七海にやさしくうなずいて、下がって行きました。

 七海のお母さんは、「せっかくやから」と、チーズケーキを一口頬張りました。

「おいしい……考えてみたら、こうやって家族でお店で食べるんなんで久しぶりやね?」

 七海のお父さんも、チーズケーキにフォークを入れながら答えました。

「そうやな。僕もお前も、仕事仕事で忙しかったから……」

「覚えてる? まだ七ちゃんが小さい頃、ケーキいっぱい食べ過ぎて、その後、バスで戻して」

「ああ、あの時は大変やったなぁ……でも、楽しかったな」

「ええ……」

「……僕ら、忙しさにイライラし過ぎて、たった一人の娘の気持ちも考えれてへんかったんかも知らんな」

「……そうやね。もういっぺん、ゆっくり話し合いましょう。これからのことも。七海のためにも」

 まるで、チーズケーキの魔法にかかったかのように、落ち着きを取り戻した両親を見て、七海はポロポロと涙を零しながら、小さく言いました。

「……戻れるん? わたしたち。死んだおばあちゃんにこのウミブタをもらった頃みたいな家族に……」

 お父さんとお母さんが互いを見ながら小さくうなずくと、七海の涙は止めどなく流れ出ました。そんな七海のことを、七海の胸の中でくしゃくしゃになったウミブタは、やさしく見上げていました。

 そして、七海たち一家が和気あいあいとチーズケーキを食べ始めると、それを見ていた姫子たちも安堵の表情を浮かべていました。


 こうして、七海の家出事件は無事に終幕しました。


 結局、その日の稽古は休みになり、姫子たちは少し早い帰宅になりました。

 その帰り道、前を歩く可憐は、先ほどまでのイライラも吹き飛び、ニコニコとご機嫌のようでした。

「ああ~、それにしてもカッコよかったなぁ~、あの結衣さんって人。颯爽と現れてビシッってさ~」

「ホンマに。それに、七海ちゃんも、よくハッキリ自分の気持ち言えたね。まさか離婚まで無くなるなんて思わへんかったわ。七海ちゃん、ホンマに良かったね」

 可憐の言葉に返事をした姫子は、姫子たちと帰ることを選び、一番後ろでキャリーバックをガラガラと引きながら歩く七海に、微笑みかけました。

 しかし七海は、何故かうつむいていました。そして、小さく言いました。

「……2人とも、ホンマに喜んでくれるん?」

 七海が不安げに問いかけると、姫子と可憐は互いを見て微笑み、今度はその微笑みを七海へと向けました。

「当たり前やんか。なあ? 姫子」

「うん。七海ちゃんが嬉しいことはわたしたちも嬉しい。だってわたしたち『高2トリオ』やもん」

 ウソ偽りのないその笑顔に、七海はまた涙をいっぱいに零して、2人に抱きつきました。

「ありがとう、2人とも」

 どうやら、七海の心配は無用だったようですね。


 そして、姫子たちの帰った喫茶石切堂では……。

 奏の計らいで、マスターと結衣、2人だけの時間が流れていました。

 ですが、なかなか2人とも話を切り出せない様子で……。

「……コーヒーでも入れようか? ケーキと」

「……うん」

 今日はうなずいてくれた結衣に安堵したマスターは、ホットコーヒーとチーズケーキをカウンター席に座る結衣の前に置きました。

 目の前に置かれた、湯気の立ったホットコーヒーと黄金色に輝くチーズケーキを、結衣は懐かしそうに見つめると、小さく「いただきます」と言って、ケーキにフォークを入れました。

「……変わらへんな、2年前と。この味」

 どうやら敬語が取れた結衣は、久しぶりの父の味を味わい始めました。

 そんな結衣を、マスターは暖かな目で見ながら、口を開けました。

「……ありがとうな、七海のこと。助けてくれて」

「……別に。ちょっとあの2人に言ってやりたかっただけやから」

 少し照れた様子で答えた結衣に、マスターはもう一度、お礼を言いました。

「ありがとう」

「せやから別に――」

「お母さんの面倒、最後まで見てくれて」

「! ……そんなん、娘やねんから当たり前やろ」

「それでも、ありがとう。……昨日は、言われへんかったから」

「……うん」

 それっきりまた沈黙に戻った空間で、ケーキとコーヒーを終えると、結衣は一つ息を吐いて口を開きました。

「あの……」

「ん?」

「その……ご、ごちそうさまでした。じゃ、じゃあ、わたしはこれで……」

 そのままそそくさと席を立ち上がり帰ろうとする結衣に、自室で状況を見守っていた奏が出て行きそうになった瞬間、マスターが結衣を引き留めました。

「結衣っ!」

「……昨日も言うたけど、お金とかなら――」

「帰ってこうへんか?」

「え……?」

「……あの時、結衣が『ここに残ってもええ』って言ってくれた時、ホンマはすごく嬉しかった。せやけど、結衣はお母さん子やと思ってたし、気い使ってくれてるだけやと思ったから、真面目に受け止めへんかった……でも、もしまだ、まだその気持ちが残ってるんやったら……一緒に暮らさへんか?」

 結衣は、決してマスターの方を振り返りませんでした。

 そして唇を噛みしめ、少し上を向きながら、こう言いました。

「……ええよ。しゃあなしやで」

「結衣……」

「せやけど、もう子ども扱いはせんといてや」

 目に涙を溜めながら振り返った結衣は、ニコ~っと微笑みました。

 それは、久しぶりに父親に見せた、結衣の本当の笑顔でした。

 見守っていた奏と、その後ろにいた作菜も、その光景に微笑みを浮かべていました。


 そうして、喫茶石切堂の長~い一日は無事に暮れて行きました……。



 さてさて、七海の家出事件に続き、マスターと結衣の関係も無事に修復できたようですね。

 2週間後に行われた劇団おとぎの花園11月公演『美女と野獣』には、七海の両親も、結衣も観に訪れていたようですよ。

 本当に、めでたしめでたし、ですね。

 これでやっと11月も終わり、来月は楽しいクリスマス……と、何事も無くいくのでしょうか?

 どうやら、次の事件はもうすぐそこまで迫って来ているようです。

 ですが、それはまた次の幕でお話しするといたしましょう。では。




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