第十二幕
話は、奏が作菜の短冊を見つけた少し前にさかのぼります。
「教えてください、石切さん。おとぎの花園が出来た理由を!」
姫子の真剣なまなざしに、マスターはあたたかなコーヒーを入れながら、ゆっくりと話し始めました。
「……もう2年も経つな。あの日、僕の姉が……作菜と奏の両親が亡くなった日から、すべては始まった……」
――作菜と奏は、たまにしか会わへん僕が見ても分かるくらいに、幼い頃から本当に仲が良く、そして演劇が好きな姉妹やってな。
奏が小学校に上がった頃には、「姉妹2人でしょっちゅう演劇を観に出かけるんや」って、姉さんがぼやいてた。
作菜の夢は、舞台女優になる事やった。
せやから、中学や高校でも演劇部に所属し、演劇で有名な大学に進学してからは、より一層演劇に精を出してた。
年の離れていた奏も、そんな作菜の背中を追いかけるように、演劇の勉強を積み、いつか、姉妹2人で同じ舞台に上がることを、夢見てたんや。
そんな2人のことを、姉さんと義兄さんもずっと応援してた。
そう、あんな事故に遭うまでは……。
その日はちょうど作菜の所属する演劇部の公演日で、奏たちは家族そろって車で、作菜の芝居を観に出かけたんや。
その途中で、あの事故が起こった……。
高齢ドライバーの乗る車が高速道路を逆走して来て、奏たちの車に衝突。姉さんと義兄さんは即死やった。後部座席にいた奏だけが助かったのは、本当に奇跡やったみたいや。どうやら、衝突の直前に、姉さんが咄嗟に奏のことをかばったらしい。
なんとか一命を取り止めた奏やったけど、心と下半身に大きな傷を抱えて、病院に駆けつけた作菜も、自分の公演を観に行くために両親が亡くなり、奏が傷を負ったことを知って、本当にひどい状態やった。
「もう……演劇は続けられへん……」
亡くなった両親と、奏のことを思えば、自分だけが演劇を続けることは辛かったんやろう。
作菜は、舞台女優になるという幼い頃からの夢と一緒に、演劇も大学も辞めてしまった。
ちょうど離婚して独り身やった僕は、そんな傷ついた作菜と奏を引き取ることにした。
僕は、「大学に行ってもええねんで」って言ってみたんやけど、作菜は、「奏のそばに居てあげたいから」と、この店で働くことを選んだ。
せやけど、奏は事故以来、すっかり塞ぎ込むようになって、心配する作菜にも、徐々に当たりだすようになっていった。
まあ、両親をいっぺんに亡くし、両足も不自由になり、おまけに思春期にもさしかかってたから、怒りっぽくなったり、情緒不安定になるんは仕方がないことやと思った。
けど、僕は2人を……特に、心身共にボロボロやった作菜をどうにかしてあげたくて、ある提案をしてみたんや。
「ここで、演劇をしてみいへんか?」
演劇自体にトラウマがあったんやろう。作菜は始め、頑なに断わった。
けど僕は、今の奏を、岩戸に隠れた天照大神に例えて、人々が歌や踊りで外へと誘い出したという神話を話して聞かせた。どうしても、昔の明るい2人に戻ってほしかったんや。
作菜は、「それやったら」と、しぶしぶ了承し、僕はこの店を、演劇の出来る喫茶店に改装した。
劇団……って言っても、初めは1人しか居らんかったけど、劇団のコンセプトは、奏が昔から好きやった『おとぎ話』にして、劇団名は『おとぎの国』になった。
そして作菜は、たとえ1人でも、天照大神を人々が岩戸から誘い出したように、奏のことをあのトビラの向こう側から外の世界へ誘い出すことを誓ったんや。
「……これが、『おとぎの花園』の前身、『おとぎの国』の始まりってわけや。この後のことは、明ちゃんも知っての通りや」
マスターはトンッと、姫子と明の前に、湯気の立ったコーヒーを置いて、話を終えました。
「(作菜さんは奏ちゃんのために劇団おとぎの花園を作ったんや。それやのに、なんで奏ちゃんはこの劇団を嫌うん? 奏ちゃんは一体……)」
「……子っ。姫子っ!」
「へ?」
姫子が我に返り、声に振り向くと、隣で可憐が血相を変えながら作菜を指さしていました。
姫子が作菜を見ると、作菜は今にも頭から湯気が出そうな顔で、姫子をにらんでいました。
「姫子さん、ちゃんと聞いてましたか?」
作菜が「さん」付けで呼ぶときは、頭に血がのぼっている時です。
姫子は額に冷や汗をかいて、顔を引きつらせました。
「あの……えっと……すいません、聞いてませんでした……」
「こら、姫子~!」
夕日の差し込む舞台の上を、作菜が姫子を追い回し始めました。
現在は七夕公演翌日の夜の7時。
姫子が、奏の破り捨てた短冊を直したり、マスターからおとぎの花園誕生の話を聞いたり、トイレの前で奏を待ち伏せしていてそのまま寝てしまったりした夜が明け、翌日の喫茶石切堂でのバイトも終え、もうすっかり、おとぎの花園の稽古時間になっていました。
姫子は、前日の七夕公演の反省会をしたり、次の8月公演の話を作菜がする中で、マスターから聞いたおとぎの花園誕生の話を思い起こし、奏のことを考えていたのでした。
舞台上では、相変わらず姫子を作菜が追い回し、それを見て可憐たちがゲラゲラと笑っていて、なかなか収集が付きそうにないので、その日の稽古で話された次の公演については、ナレーションでご紹介します。
劇団おとぎの花園8月公演の演目は、『ヘンゼルとグレーテル』に決まりました。
『ヘンゼルとグレーテル』は、グリム童話の一つで、親に捨てられ森に迷い込んだヘンゼルとグレーテルという幼い兄妹が、お菓子のお家を見つけ、そこに住んでいた魔女から兄妹で力を合わせて逃げ延びるという物語です。
配役は、以下のようになりました。
ヘンゼル:作菜
グレーテル:可憐
2人のお母さん:姫子
2人のお父さん/魔女:七海
裏方:明
ヘンゼルとグレーテルよろしく、なんとか作菜から逃げ延びた姫子は、稽古時間が終わると、「また姫子、わたしのお母さん役やね」なんて可憐と談笑しながら、2階で帰り支度をしていました。
そんな姫子を、明が手招きをして呼びました。
「お姫ちゃん、昨日はどうやった?」
「昨日は」というのは、奏をトイレ前で待ち伏せしていた話です。どうやら姫子は、眠ってしまっていたことを、まだ明に話せていなかったみたいです。
なので姫子は、答え辛そうに言葉を濁しました。
「あの……それが……」
姫子は顔を赤くして、申し訳なさそうに、昨日は眠ってしまって気が付いたら朝だった、ということを話しました。
すると、明は大笑いしました。
「あはは~。せやからずっと元気無かったんやぁ。ドンマイ、ドンマイ。昨日はお姫ちゃんやって疲れてたんやし、しょうがないよ」
明は、しょんぼりする姫子の頭をなでなでしてあげました。
「2人してなんの話してるん?」
姫子にフラれ、七海と話していた可憐が、2人でやって来ました。
「え……いや、あの……」
姫子は助けを求めるように明を見ました。
明は息をつき、「ま、2人には話してもええんとちゃう?」と、言いました。
姫子は明に言われ、ちょうどその場に作菜がいなかったので、可憐と七海に、奏と作菜を仲直りさせたい、という話をしました。
「奏かぁ~……ちょっと苦手やなぁ」と、可憐は微妙な反応を見せました。
「……わたしも、あの子のこと、ちょっと怖い」
七海も、愛用のウミブタをギュッと抱きしめて、浮かない表情をしました。
あまり乗り気じゃない可憐と七海に、姫子はさらに、昨夜マスターから聞いたおとぎの花園誕生の話をしました。おとぎの花園は、作菜が奏のために作った劇団なのだという話を。
「奏のために……全然知らんかった」
可憐が言うと、七海も隣でうなずきました。
「そんなこの劇団をなんで奏ちゃんが嫌うんかは分からへんけど、わたし、作菜さんにいっぱいお世話になってるし、それに……奏ちゃんとも仲良くなりたいから、だから作菜さんに協力したいねん」
姫子の強い決意を見て、可憐は七海に視線を移しました。
七海もそれに気づき、可憐に視線を向けました。
そして、七海がうなずくと、可憐もうなずきました。
「しゃあないなぁ。わたしの大事な姫子がそこまで言うんやったら、わたしも手伝ったるわ」
「わたしも」
可憐に続いて、七海も姫子に協力を誓いました。
「2人とも……ありがとう」
姫子は満面の笑みで、可憐と七海に抱きつきました。
「ええねん、ええねん。なんたってわたしたちは、花の高2トリオやからなぁ」
「なんやねん? それ。……でも、協力するって言っても、わたしたち何したらええの?」
可憐の言葉にツッコんだ後で、七海はふと疑問を尋ねました。
姫子が2人を離して考え込んでいると、可憐が提案しました。
「わたしたちも、歌ったり踊ったりする?」
「いや、天照さまの話は真に受けんでええねんで」
様子を見ていた明がツッコむと、すでにノリノリで踊っていた可憐と七海は、しょぼーんと止まりました。
「……わたし、とりあえずもう1回、奏ちゃんと話してみようって思います。やっぱり、作菜さんと奏ちゃんに向き合ってもらわへんと、解決出来へんと思うから」
姫子の提案に、明もうなずきました。
「そうやね。じゃあ、作菜にはわたしの方から話してみるわ」
明に対して、姫子が「お願いします」と、頭を下げていると、隣で可憐がほっぺを膨らませていました。
「なぁ~、わたしたちは何したらええの? 2人ばっかりでつまらへんわぁ」
可憐にせがまれた姫子は、困り顔で答えました。
「え……じゃあ、とりあえず……いつも通りで」
可憐と七海はガクッとしました。
「もうええわ。姫子のアホっ」
可憐に続き、七海も「アホっ」と言って、2人して去って行きました。
姫子は、そんな2人を見送りながら、苦笑いを浮かべました。
「怒らせちゃったなぁ……せっかく協力してくれるって言ってくれたのに。……でも、ホンマは今晩もここに泊まれたらええんですけど。明日からは、夕方と稽古の時間しかここに居られませんから、奏ちゃんと話す時間も無いですし。けど、家にも帰らなあかんし、新聞配達のバイトもあるからなぁ。はぁ~、なんで昨日寝ちゃったんやろう? わたしって可憐ちゃんと七海ちゃんの言う通り、ホンマにアホやわぁ」
「まあまあ、そんなに気を落とさんでも」
肩を落とす姫子を明が慰めますが、それでも姫子は浮かない顔でした。
「はぁ~、せめてバイトさえ無ければなぁ」
「そういうことやったら任せてっ!」
「へ?」
姫子が驚いて振り向くと、いつの間にか、可憐と七海が帰って来ていました。
「新聞配達やろ? そのくらい、わたしたちが代わったるわ」
「わたしたちって……わたしもなん?」
張り切る可憐の隣で、七海が困っていました。
可憐の提案に困っているのは、姫子も同様でした。
「いや、でも、そんなことお願い出来へんよっ」
「大丈夫や。『姫子ですぅ~』って言ったら、バレへんやろ」
「いや、バレるし。ていうか、わたし、そんなんちゃうわっ。……じゃなくて、バレるバレへんの問題じゃなくて、配る家やって分からへんやろ?」
「教えてもらうもん!」
「朝の早い時間やって、可憐ちゃん苦手やん」
「そのための七海やっ」
「えっ、わたし!?」
不意の一言に、七海は驚きました。
姫子の方は、可憐の言葉にすっかり困り果てていました。
そんな姫子に、明が言いました。
「お姫ちゃん、可憐ちゃんたちがこんなに言ってくれてるんやから、甘えてみたら?」
「でも……」
「2人も協力したいねん、お姫ちゃんに。その気持ち、分かってあげな」
姫子は明に言われ、可憐と七海を見ました。
可憐は笑顔いっぱいでうなずき、それを七海にもうながすと、七海も「仕方ないなぁ」という笑顔でうなずきました。
「……じゃあ、お願いします」
姫子がそう言って頭を下げると、可憐は満面の笑みを浮かべ、七海と一緒に帰って行きました。
2人を見送った姫子は、改めて決意しました。
「……今日こそ、奏ちゃんと話さな。協力してくれた可憐ちゃんと七海ちゃんのためにも」
「うん。じゃあ、お姫ちゃんが今日も泊まる事は、わたしから作菜とマスターに話しとくわ」
そう言って立ち去ろうとする明の背中に、姫子が声をかけました。
「あのっ! ……良かったですね。香川県のご実家、あまり被害が無さそうで」
長らく続いていた西日本全土を巻き込んだ豪雨は、明の実家がある香川県にはあまり被害を及ぼさずに、過ぎ去っていました。
「……まあ、素直には喜ばれへんけどね。いっぱい被害にあった人もいはるから。けど、ありがと」
明はニコッと微笑んで、1階へと降りて行きました。
それを見送った姫子は、大事なことに気づきました。
「……ヤバイっ、家に電話せなっ!」
2階で姫子が家に電話をしている間、ちょうど1階の店内では、夕飯を待ちながら作菜と明が話をしていました。
「しかし、姫が今晩も泊まるなんて、どういう風の吹きまわしや?」
明から、姫子が今晩も泊まる、という話を聞いた作菜は、首をかしげていました。
「ん、あ……なんか、衣装づくりのこととか、裏方のこととか聞きたいねんて」
明は、まさか「奏と話をするため」とは言い出せず、なんとか理由をこじつけました。
「ふ~ん……熱心やなぁ。ええことや。姫のそういうとこ、可憐にも見習ってほしいわ」
「ヴァックシュン!!」
帰り道で大きなくしゃみをした可憐は、鼻を拭きながら首をかしげました。
戻って、石切堂1階、店内。
ふと、まだ玄関そばに飾られたままの七夕の笹に目が行って、作菜は歩み寄りました。
「もう笹も片付けとくか。七夕も終わったことやし」
「え? あ、ま、まだええんとちゃう? ほらっ、風流やしさ」
明は、姫子がまだ奏に『直した短冊』を渡せていないことを思い、咄嗟に作菜の前に立ちました。
「そうか? ……まあ、別に邪魔にはならんから置いといてもええけど」
作菜が首をかしげながら、あきらめて笹から離れて行くと、明は「ふぅ~」と息をつきました。
「……それにしても、さっきからなんか怪しいなぁ」
「え? な、何が?」
カウンター席に腰かけた作菜の声に、明は振り返りました。
作菜は、カウンターに肘をついて、明を怪しむ目で見ていました。
「姫が突然、今日も泊まるって言いだしたり、笹を片付けるなって言ったり、何企んでんねん? 2人して。……差し詰め、奏のことやろ?」
「そ、そんなことっ……ふぅ~、アホくさ。奏ちゃんのことになると、結構、勘がええねんなぁ。いつもは鈍感なくせに」
「うるさいわ。それより、何企んでんねん?」
「お姫ちゃんの方が上手くいくまでは隠しとこうって思ったけど……結局、作菜と奏ちゃんの問題やしなぁ」
そう言うと、明は洗いざらい、作菜に白状しました。マスターにおとぎの花園誕生の話を聞いたことや、姫子が奏と話そうとしている事を。
「……そんなことやろうと思った。昨日、姫が奏の部屋の前にいた時から、怪しいって思っててん。夜中も、コソコソとなんかしてたみたいやしなぁ」
「なぁんや。コソコソして損したわ。やっぱり、隠し事なんてするもんとちゃうねぇ」
明は笑いながら、作菜の隣に座りました。
そんな明とは対照的に、作菜は真剣な目で、明に言いました。
「……せっかくやけど、わたしと奏のことは、そっとしといてくれへんか?」
「え?」
明は、耳を疑いました。
「なんでよ? あんたが奏ちゃんを外に出すためにおとぎの花園を作ったって聞いたから、わたしもお姫ちゃんも、可憐ちゃんや七海ちゃんやって、協力するって――」
「ええから放っといてくれっ!」
作菜は、明の言葉をかき消すように言い放ちました。
ちょうど電話を終え、2階から降りてきた姫子は、階段下で、2人の話を聞いていました。
台所からは、マスターもやってきていました。
空気が重たくなった店内では、作菜が立ち上がり、居心地悪そうに立ち去ろうとしていました。
その背中に向かって、明が言いました。
「わかった。作菜、あんた怖いんやろ? 奏ちゃんとの関係が、今より悪くなるんが」
その言葉に、作菜は振り返らず答えました。
「……そんなんちゃうわ」
「いいや、絶対そうや! じゃないと辻褄が合わへん。いつまで経っても、あんたが奏ちゃんと向き合おうとせえへんかった辻褄がなあ。あんたは怖いんや。下手なことをして、奏ちゃんとの関係が悪化するんが!」
「だからなんやねん! 別に関係ないやろ! 他人の明には!」
「……たしかにそうや。けどな、わたしが初めてここに来た時から、あんたが本気で笑ってるところを見たことないから……だから……」
「……言い過ぎた、ゴメン。……けど、わたしは奏に笑顔になってほしくて、奏とまた笑い合いたくて、この劇団を作って、これまで頑張って来た。なのに、奏は笑顔になってくれるどころか、おとぎの花園を嫌いって言ったんや。……わたしはどうしたらええねん? もうこれ以上余計なことをして、奏との仲を悪くしたくないねん……だから、お願いやから、放っといてくれ」
「作菜……」
目の前から立ち去った作菜のいつにない泣きそうな背中に、明は何も言えませんでした。
それは、2人の話を聞いていた姫子とマスターも同様でした。だから2人の元へ、2階へ上がろうとした作菜がやって来た時も、何も言えませんでした。
「姫……おっちゃんも……」
2人に気づいた作菜は一瞬驚きましたが、構わず2階へと向かいました。
そんな作菜に、姫子は声を振り絞るようにして言いました。
「あ、あのっ……! わ、わたしっ……」
「姫、悪いけどもう奏には近づかんといてくれ。頼むわ」
作菜はそれだけ言って、2階へと上がって行きました。
「……わたしがやってること、間違ってるんでしょうか?」
作菜を見送った姫子は、弱々しく、マスターに尋ねました。
「……きっとそうじゃないって、信じたいもんやな」
ため息交じりに、マスターは小さく答えました。
……それから、少し重苦しい雰囲気の中で夕飯が終わり、各々が眠りについた深夜2時。
その日も、電気が付いたままの廊下を1台の車イスがやって来ました。
その車イスに乗っていた奏は、今日も、トイレの前で枕を抱えたまま眠る姫子を見つけて、ため息を漏らしました。
「今日も寝てるし……膀胱炎なるわ」
奏は大きくため息をついて、仕方なく部屋へと帰ろうとしました。
「ゴメンね。起こしてくれたら良かったのに」
車イスを反転させようとしてバックしていた奏は、不意に聞こえた声に、振り返りました。
「……起きてたんかい」
さっきまで眠っているように見えた姫子は、上体を起き上がらせていました。
「ちょっと寝ちゃってたけどね。……それにしても、小学生がこんな時間まで起きてたらあかんやろ?」
姫子は、携帯の時計をチェックして、お姉さんぶりました。
「……別にあんたには関係ないやろ?」
「関係あるよ。わたしは奏ちゃんのお姉さんに……作菜さんにお世話になってるし、奏ちゃんはその作菜さんの大事な妹さんやねんから」
「……うるさい。わたし、トイレに行きたいねんけど」
「あ、ごめんなさいっ。どうぞ、行って。病気になったらあかんもんね」
姫子は慌てて、奏に道を譲りました。
奏はため息をついて、車イスをトイレへと向けました。
「……ていうか、なんでトイレの前で寝てんねん?」
「ここに居ったら、奏ちゃんに会えるかなって思って。昨日は寝てしまって、失敗しちゃったけど……」
奏はまたため息をついて、トイレへと入って行きました。
姫子は、奏がトビラを閉めようとしたところを止めて、顔を覗かせました。
「1人で大丈夫……やんね?」
奏が無言で睨み返してきたので、姫子はそっと、トイレのトビラを閉めました。
「……で、今日は何の用やねん?」
トイレのトビラの向こうから、奏の声が聞こえてきました。
「あ……、昨日の事、ちゃんと謝りたくて。昨日は、奏ちゃんの気持ちもちゃんと考えずに、短冊を渡したりして、本当にごめんなさいっ」
姫子は、トイレのトビラに向かって、大きく頭を下げました。
「……わざわざそんなこと言うために、2日も連続でトイレの前で待ってたんか?」
「まあ、それだけじゃないねんけど……わたしさ、可憐ちゃんっていう元気な女の子とこの前ケンカしちゃって。その時、すぐにちゃんと謝れば、早く仲直り出来たのになって後悔してさ。だから、奏ちゃんにはすぐに謝ろうって思って」
「……アホみたい。そんなんしてる暇あったら、芝居の練習でもすれば?」
「グサっ。そうかもね……けど、ちゃんと謝れて良かったわ。……でも、奏ちゃんって、わたしが演技下手なん知っててくれてるんやね。この前もおんなじこと言われたし。ちゃんと聞いててくれてるんや?」
そう言って、姫子は少し微笑みました。
そんな姫子に、奏はまた、ため息をつきました。
「別に、聞きたくなくても聞こえて来るだけや。あんたらの声うるさいし」
「それはごめんなさい。でも、いつでも見学してくれたらええねんで。みんな大歓迎やし」
奏はまたため息をついて、小さくつぶやきました。
「誰が見るか……そんなもん」
そんな奏のつぶやきが聞こえていない姫子は、奏に構わず、話し始めました。
「あ、前も言おうって思っててんけど、あんまりため息ばっかりついてたら、幸せが飛んで行っちゃうよ?」
「……うるさい。お母さんみたいなこと言うな」
「あ、奏ちゃんのお母さんも言ってたん? 実はな、わたしのお父さんも、わたしが小さい頃によく言っててさ。まあ、もう亡くなっちゃったんやけど……」
「……そうなん?」
「うん、病気でな。わたしが8歳の時に。……でも、わたしにはお母さんがいるし、そうや、奏ちゃんと同い年の弟がおんねんで。今度、紹介したいなぁ。ちょっと最近生意気になって来たけど、めっちゃええ子やねん」
「別に紹介していらんわ」
「そう? ……なあ、わたしは弟のことが大好きやし、作菜さんもきっと、奏ちゃんのことを大事に思ってる。……奏ちゃんは、作菜さんのこと、嫌い?」
その問いには、奏は何も答えませんでした。
それでも、姫子は意を決して、話を続けました。
「……劇団おとぎの花園はな、作菜さんが、奏ちゃんに笑顔になってもらいたくて、作った劇団やねん。作菜さんが、奏ちゃんのために作った劇団やねん。だから、作菜さんの気持ち、分かってあげてくれへんかなぁ?」
奏は、やはり何も答えませんでした。
そんな奏に姫子が少し不安を覚えていると、トイレの中から水が流れる音がし、まもなくして奏が出てきました。
「……分かってるわ、そんなこと。あんたに言われんでもなあ」
ようやく口を開いた奏は、それだけ言って、姫子の前を通り過ぎました。
姫子は、そんな奏を引き留めるように、後ろから声をかけました。
「じゃあなんで? なんで、おとぎの花園を嫌いって言うん?」
「うざいねん! 面倒くさいねん! 重たいねん! お姉ちゃんが、わたしのため、わたしのためって言うんが! ……ていうかさ、お姉ちゃん、わたしたちのことは放って置いてってさっき言ってたやろ? ええの? こんなにわたしとしゃべってて」
「それは……マズいと思う。けど、やっぱりわたしには出来へん。放って置くなんて」
「下手したら追い出されるかも知らへんねんで? それでもええの?」
「……心配してくれてありがとう。でも……ええよ。たとえ叱られても、追い出されても、それでも、わたしはやっぱり作菜さんと奏ちゃんに仲直りしてほしい! だから、そのためにわたしが出来ることは、全部したいっ!」
「……やっぱり、あんたアホやわ」
奏はそう言い残して、部屋の中へと消えて行きました。
姫子は、結局渡せなかった短冊を持ったまま、奏の部屋のトビラをじっと見ていました。
さてさて、作菜も奏も、一筋縄ではいかないようですね。
果たして姫子たちは、2人を仲直りさせることが出来るのでしょうか?
それとも、今のままの方が、幸福なのでしょうか?
それではまた、次の幕でお会いしましょう。では。




