第十幕
枚岡奏は、小学5年生の10歳の女の子です。
2年前、車の交通事故で両親を亡くし、一緒に居た彼女は奇跡的に助かったものの、足が動かなくなり、車イスでの生活を余儀なくされました。心と体に深い傷を負った彼女は、事故以来、塞ぎ込んでしまい、学校にも行けなくなり、部屋からさえも、必要最低限しか出ないようになってしまいました。
「そう……やったんですか……」
6月公演のあと、ささやかな打ち上げパーティーを終えた劇団員たちは、作菜に呼ばれ、2階の寝室に集まっていました。
姫子は、公演のあとに店内で暴れていた車イスの少女について、作菜から話を聞き、何とも言えない気持ちになっていました。
「ごめん、黙ってて。隠すつもりは無かってんけど、その、なんて言うか……」
妹のことについて話す作菜の顔や声には、いつものような凛々しさは有りませんでした。
「いえ……あの奥の部屋については、わたしも少し気になってたんですけど、何も聞かへんかったわたしも悪いですし、それに……言いにくいですよね、その……そういうのって」
そう言う姫子の目には、涙が見えました。
「姫子……?」
姫子の涙に、最初に気づいたのは七海でした、七海の声で、作菜と明も気が付きました。
3人に見られ、「えっ?」となった姫子は、初めて自分が泣いている事に気づき、慌てて涙を拭きました。
「すいませんっ。……なんか、うちの弟と……優也と同い年なんやって思ったら、あの年で、両親を亡くして、足も動かへんなんて、ホンマ、可愛そうやなぁって……そう思ったら、なんや、涙が出て来て……」
「姫……ありがとう。うちの妹のために泣いてくれて」
姫子に頭を下げた作菜の顔は、団長の顔ではなく、やさしい姉の顔になっていました。
「お姫ちゃんって、ホンマにやさしい子やねぇ~」
それは、場を和ますような明の明るい声でした。
突然、褒められた姫子は、顔を赤くして、頭が飛んで行きそうな勢いで、首を横に振りました。
「えっ、あっ、いや、そ、そんなことないですよっ、全然っ!」
「姫子、顔真っ赤か。リンゴみたい」
七海は、ウミブタを抱いて笑いました。
「もっ、もう~、からかわんといてよ~。……あっ、でも、だからここの1階って、段差がほとんど無いんですね。車イスの奏ちゃんのために」
自分から話題を逸らそうと、姫子は話題を奏に戻しました。
ちなみに、姫子の言う通り、喫茶石切堂の1階はほぼ全てがバリアフリーとなっており、段差が無いだけでなく、多くの場所に手すりが付いていました。また、玄関もスロープの作りになっていました。
作菜は、姫子の言葉にうなずきました。
「この店を、演劇を出来るように改装する時に、おっちゃんが気を利かしてくれてな。ホンマ、おっちゃんには感謝してもしきれへんわ」
「演劇をするために改装までしてくれたんですか? あの……気になってたんですけど、石切さんって、作菜さんの……」
「叔父やで。母さんの弟さん。あれ? 言ってへんかったっけ? 両親が亡くなってから、わたしたち姉妹を引き取ってくれてん」
「は、はい……初耳です」
「……ごめん。何を言ってて、何を言ってへんかったか、あんまし覚えてなくて」
「ちょっとやめてよ。20代前半でもう老化現象?」
そう言って口を尖らせる明も、作菜を叩く素振りが、少しおばさん化していました。
「こういう時に、『お局』とかって言ってくるやつは……もうすっかり夢の中か」
作菜が見つめる先には、姫子の膝の上ですやすやと眠る可憐がいました。
「可憐はいつもこれや。公演が終わって、打ち上げが終わったら、お風呂も入らんとすぐ寝てしまう」
七海は少し呆れ気味に愚痴りました。
「まあまあ、やっとお姫ちゃんと仲直り出来てんから許したって。それにしても、そうとうお姫ちゃんの膝の上が気持ち良いんやろうなぁ。幸せそうな顔して」
明は、まるで笑っているような顔で眠る可憐を見て、微笑みました。
姫子は、そんな可憐の肩あたりをやさしく撫でながら、ふとした疑問を言いました。
「そう言えば、可憐ちゃんが石切さんをおっちゃんって呼んでるのは……関係ないですよね?」
「うん。赤の他人や」
作菜の即答に、姫子は苦笑しました。
そんなこととはつゆ知らず、可憐は呑気に寝言を言っていました。
「姫子ぉ、わたひもう食べられへんわぁ~」
翌日。
公演の次の日とは言え、学校の無い日は朝から石切堂のバイトをしていた姫子は、空き時間、何やら考え事をしていました。
その視線の先には、奏の部屋がありました。
「ん~……どうしたもんやろなぁ~。なんとかしてあげたい気もするけど……」
そうつぶやく姫子の脳裏に、昨日の奏の言葉が響きました。
――いつまでこんなつまらんことしてんねんなっ! お姉ちゃんなんて大嫌いやっ! ――
「……なんであんなこと言ったんやろ? つまらんこと? お姉ちゃんなんて大嫌い?」
姫子は完全に店の方にお尻を向け、腕組みをし、首をかしげていました。
「……ちゃんっ……姫子ちゃんっ!」
「へ?」
姫子が振り返ると、血相を変えたマスターが、カウンター内から姫子を呼んでいました。
「お客さん、来てるよ」
姫子は言われて、慌ててお客さんを席に案内しました。
ちなみに、現在はモーニング後のお客さんが少ない時間帯なので、作菜と明は、近くに買い出しに出ており、店番は姫子1人だけになっていました。
言い忘れていましたが、以前、明が姫子のために作った、まるでメイド服のような『お姫ちゃん専用バイト服』は結局、却下となり、姫子はいつも、学生服の上から店のロゴが入った緑系のエプロンをつけてバイトをしていました。
姫子はエプロンのポッケに入った伝票を取り出し、注文を受けました。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
姫子が席に案内したお客さんは、若い親子連れでした。
母親が、メニューを見ながら注文します。
「チーズケーキのセットが2つ。飲み物はホットとオレンジジュースで」
姫子が注文を受け、伝票に記入していると、まだ幼稚園児くらいの女の子が、姫子に話しかけてきました。
「なあ、お姉ちゃん。あそこにある絵本、読んでもええ?」
女の子は、店に置かれた小さな本棚を指さして言いました。
姫子は、その少女と同じ目線にしゃがんで、ニコッとしました。
「ええよ~。あっ、そうや。お姉ちゃんが取って来てあげよっかぁ?」
子供好きの姫子は、ニコニコしながら本棚の前に来ました。
この喫茶石切堂では、劇団おとぎの花園がおとぎ話や童話を題材にした演劇を毎月行っているので、店内にも、子供向けのおとぎ話などの絵本が多く置かれていました。
絵本を選んでいた姫子は、ある1冊の絵本を手に取り、何かをひらめいたように、「そうやっ!」と、笑いました。
「七夕公演?」
その日の夕方。劇団の稽古の時間になると、姫子は早速、朝、思いついたことを皆の前で発表しました。
「そうです! 7月といえば七夕っ! なので、うちの劇団でも季節に合わせて、織姫と彦星の話をしたらどうかなって思いまして」
そう言う姫子の手には、『たなばたものがたり』という絵本がありました。
張り切って言った姫子でしたが、姫子の話に、作菜、明、七海はキョトンとしていました。
そして、可憐がいきなり、「が~はっはっはっはっは~」と、笑い出しました。
「甘いな、姫子。それ……わたしが去年、すでに提案済みやぁ~。が~はっはっはっはっは~」
「えっ!? そうなん? ……っていうか、何? その笑い方」
未だ寝起き感まる出しの可憐のテンションに、姫子は付いていけていませんでした。
「実はそうやねん。それで去年、七夕公演をして、店の前に笹を飾ったら、結構反響が良かったから、今年もやろっかぁって、朝、買い出しの時に明としゃべってて」
作菜の言葉に、姫子はガクッと肩を落としました。
「そうなんですか~。せっかく、昼間は言うの我慢してたのにぃ」
「それで、なんかしゃべり方がたどたどしかったん?」
明が笑いながら言いました。
「でも、去年のこの時期は、まだわたしと明と、入り立ての可憐の3人しか居らんかったから、今年は七海と姫も居るし、去年よりもええ芝居になるわ」
「ホンマ、あの時は、可憐ちゃんが織姫で、作菜が彦星で、それ以外は全部ナレーション。わたし、舞台に出てへんのに、しゃべり疲れたわぁ」
思い出話に花を咲かせる作菜と明を背に、姫子はしょんぼりとしていました。
「はぁ~、張り切ってただけに恥ずかしいわぁ。なあ、七海ちゃんは知ってた? 七夕公演のこと」
「うん。だってわたしがここで初めて見た公演やもん」
「そうそう。七海って、いつの間にかここに来てて、気が付いたらいつも観に来てたもんなぁ。それで、そんなにいつも観に来てくれるんやったら、『一緒にやらへん?』って誘ったら、『うん』ってうなずいて。初めから不思議な子やったなぁ」
こちらでは七海と可憐の昔話が始まり、姫子は、なんだかこの2日間で、今まで聞いたことの無かった話を、次から次に聞かされ、4人の話に愛想笑いを浮かべながらも、どこか1人蚊帳の外状態で、少し、寂しさを感じていました。
そんな姫子に、可憐が無邪気に抱きついてきました。
「でも、姫子がわたしとおんなじこと考えてくれて、うれしかったなぁ。やっぱり、わたしたちって似てるんかなぁ?」
「そうかもなぁ~」
少し呆れ気味に答えた姫子でしたが、こうやって可憐に笑顔で抱きつかれると、姫子は不思議と、「まあ、いっかぁ」と、可憐につられて笑ってしまうのでした。
そしてその日の稽古は、前日に行われた6月公演の反省会と、7月公演改め、七夕公演のキャスト発表を持って、終了となり、姫子たちは久しぶりの家路につきました。
ちなみに、七夕公演のキャストは、
織姫:可憐
彦星:作菜
彦星の牛:七海
天帝:姫子
と、なりました。
姫子が天帝に指名された時のリアクションは、ご想像にお任せします。
さて、時刻は午後10時。
姫子たち高校生組が家路につき、少し寂しくなった喫茶石切堂の1階で、奏の部屋の台所側の扉が開き、奏が、食器を膝の上に乗せて、車イスで台所へとやって来ました。
「ごちそうさま……でした」
「お粗末様でした」
食器を乗せたトレーを、奏が目も見ずに手渡すと、ちょうど洗い物をしていたマスターが、いつものやさしい笑顔で受け取りました。
「もう、昨日の機嫌は直ったかな?」
「……まぁ」
「昨日は夕飯も受け取らんかったから、お腹空いてへんか心配したで」
「……アイス、食べたから」
奏がぼそっと言うと、マスターは大笑いしました。
「そうか、それは良かった。それでアイスが減ってたんか。あっ、またお姉ちゃん、アイス買って来てくれてるで」
マスターが言うと、奏は器用に車イスを扱い、冷凍庫からカップアイスを取り出し、食器棚からスプーンを取りました。
「作菜も律儀やなぁ。アイス好きの奏のために、買い出しの度に、いろんな味のアイス買って来て」
「……アイス好きとか、いつの話やねん。もう子供ちゃうし」
小さく文句を言いながらも、奏はアイスを持って部屋へ帰ろうとしました。
「あっ、たまにはコーヒー、一緒に飲まへんか? もう作菜と明ちゃんしか居らへんし」
奏は少し考え、車イスを引き返しました。
マスターは微笑み、アイスをもう一度冷凍庫へとしまうと、お湯を沸かし始めました。
「そろそろ布団、夏用に変えよか?」
「……まだいい」
「そうか。あ、掃除はせんでもええか?」
「毎日コロコロやってるから」
「奏はそういうとこしっかりしてるもんなぁ。お姉ちゃんなんか、部屋いつもひっくり返ってて、明ちゃんにはいつも叱られてるし、合宿の前なんか、大掃除やからなぁ。奏を見習ってほしいわぁ。作菜は、昔から演劇一筋で、それ以外はてんで不器用やからなぁ」
「……そういうお姉ちゃんが好きやったのに、なんで……?」
沸々とお湯を沸かす音だけが響く静かな台所で、マスターと奏は交互に言葉を交わしていましたが、最後の言葉だけは、奏は、マスターにも聞こえないような小さな声でつぶやきました。
やがて、コーヒーが入り、先ほどのアイスと一緒に、奏の前に置かれました。
「奏にもこの1週間、迷惑かけたなぁ。騒がしかったやろ? 夜中まで」
「……イヤホン付けてるし、もう慣れた」
奏はアイスのふたを開けながら答えました。
「……奏も、たまには練習とか見てみたりせえへんか? ほら、昔は奏も演劇好きやったんやろ? 作菜ともよく観に行ってたみたいやし」
「……昔の話や」
「作菜の劇団のみんなな、ホンマにええ子たちばっかりやし、みんな女の子やし、奏とも仲良くしてくれるで。きっと」
奏は黙々とアイスを食べていました。
「昨日、暴れたんかて、ホンマは、お姉ちゃんやみんがうらやましかったからちゃうんか? 楽しそうに演劇をしてるみんなが」
奏はドンっと、食べ終わったアイスのカップをテーブルに置きました。
「ちゃうし。……ごちそうさま」
そう言うと、奏は部屋へと車イスを走らせました。
そんな奏を、マスターは「奏っ!」と、引き留めました。
奏は、車イスを止め、強い口調で言いました。
「わたしが昨日怒ったのは、お姉ちゃんがいつまでたってもあんなくだらんことばっかりしてるからやっ!」
「お姉ちゃんはお前のために――」
「それがウザいねんっ!!」
「奏?」
声が聞こえてやって来た作菜が、2人の会話に入りました。
奏は作菜の声に振り返ると、
「お姉ちゃんは、重いねん」
そう言って、部屋へと消えました。
「あちゃ~……怒らせちゃったなぁ。せっかく機嫌直ったみたいやったのに……」
マスターは頭をポリポリと掻きながら言いました。
奏の席の前には、まだ湯気の立ったコーヒーが残されていました。
「ごめんなぁ。やっぱり離婚して、娘ともケンカ中のおっちゃんには、あの年頃の女の子は難しいわぁ~」
マスターは作菜に、明るく笑いました。
作菜はそんなマスターに、首を横に振り、頭を下げました。
「いつもわたしや奏のために、ホンマに良くしてもらって、ありがとう。感謝してます。……わたしって、重いんかな? わたしはただ、奏に元気出してもらいたくて、おとぎ話を題材にした演劇をここでやってるだけやねんけどな……まあ、おっちゃんの受け売りやけど」
少し元気無く話した作菜は、最後に気を遣った笑顔をしました。
「まあ、あのぐらいの年の子は難しいもんや。いつか作菜の気持ちが伝わる時が来るわ。コーヒー飲むか?」
作菜はマスターの言葉にうなずき、イスに座りました。
再びコーヒーの準備をするマスターの後ろで、作菜が話し出します。
「……ホンマ、いくら芝居でいろんな役を演じても、人の気持ちは分からんもんやなぁ。ましてや妹やのに」
「そら、逆立ちしても分からんのちゃうか? 神様ちゃうしな。そうや、姫子ちゃん、同じ年頃の弟さんが居るやん。相談してみたらどうや?」
「ん~……まあ、相談すれば姫は聞いてくれると思うけど、なんか、やっぱり悪いわ。家族のことやし」
「その家族のあんたが、ちゃんと向き合わへんから問題なんやろ?」
お風呂上りらしく寝間着に着替えた明が、台所にやって来ました。
「……家族のことを、家族だけで解決するのは、意外と難しいねん」
そう言う明の顔は、何か思いつめた風なそれでした。
「明?」
明は作菜の声にパッと表情を戻し、イスに座りました。
「とにかく、わたしは1人っ子で姉妹のことはよく分からへんし、可憐ちゃんや七海ちゃんかて、年下の姉妹は居らへん。てことは、性別は違うけど、弟君がいるお姫ちゃんが最後の希望なんや。せやから、1回お姫ちゃんに相談してみなさい」
まるで作菜をお母さんのように諭す明に、それでも作菜はうねっていました。
「ま、もうなんか企んでるかもやけどなぁ。あ、マスター、わたしもコーヒー」
「はいはい。もう用意してますよ」
明の注文に、マスターは少々呆れ気味に答えました。ちなみに、奏が残したコーヒーは、マスターがおいしくいただきました。
一方その頃、額田家では。
「ハァックション!」
「ちょっと姫子、大丈夫? また風邪ちゃうやろなぁ?」
自室で思い切りくしゃみをした姫子をお母さんが気遣いました。
「うん、大丈夫。……誰か、わたしの噂してんのかなぁ?」
姫子はお母さんに答えたあとで、首をかしげました。
その姫子は、机の上に、石切堂にあった『たなばたものがたり』の絵本を置き、何やら考え事をしていました。
「うん、やっぱりこれしかないよね」
言うと、姫子は窓に映る夜空を見つめました。
さてさて、姫子は一体何を企んでいるのでしょうか?
今日もお怒りだった奏の心を溶かす何か良い案が思いついたのでしょうか?
そして、姫子の次の公演に決まった七夕公演は、無事に成功するのでしょうか?
それはまた、次の幕でお話しするといたしましょう。




