第九幕
――わたしが生まれ育った家は、大きな屋敷のような家やった。
『今里家』といえば、大阪でも有名な政治家一家だ。
わたしは、その家の末っ子として生まれた。
多くの使用人たちが身の回りの世話を全部やってくれるから、小さい頃から『何不自由なく』生きてきた。豪勢な料理、車での送り迎え、欲しいものはなんでも買える。
きっと、はたから見れば、憧れの生活なんやと思う。
けど、わたしはそんな生活が嫌いやった。
お父さんはいつも仕事ばかり。お母さんは見栄えばかりを気にして母親らしいことは何もしてくれへん。4つ上の姉は、わたしと違って優秀で、誰からも憧れられる存在。使用人たちは仕事としてしかわたしを見てへん。
どんなに『何不自由なく』生活できていても、わたしの心にはいつでも、ぽっかりと穴が開いてた。
だから、ご飯を食べるのも大嫌いやった。
大きな部屋の真ん中で、一人で、使用人たちに見られながら食べるご飯は、どんなに豪華な食材を使っていても、なんの味もせんかった。
わたしはいつでも、孤独やった。
母親の体裁のために入れさせられた聖愛女子高校でも、みんなわたしじゃなくて、わたしの後ろにある今里家ばかりを見ていて、誰もわたしを見てくれへんかった。
心から友だちと呼べる人なんて、誰一人居らんかった。
そんな時、このお店・喫茶石切堂に出会った。
運転手の目を盗んで、少し遠出した時に、雨に打たれて、たまたま雨宿りしていたのが、このお店の屋根の下やった。
わたしが雨宿りしていると、店の扉が開き、明さんがやさしく迎え入れてくれた。
作菜さんはタオルを貸してくれて、石切のおっちゃんは苦いけど暖かいコーヒーと、チーズケーキを出してくれた。この時に食べたチーズケーキの味は今でも忘れてへん。初めて、食べ物を『美味しい』って感じた。
このお店の人たちはとにかくやさしかった。それに、わたしの制服を見ても、何も聞かへんかった。まるで、『今里家』じゃなくて、『今里可憐』を見てくれているようで、それが、とても居心地が良かった。
この店でおとぎの花園という劇団がお芝居をやっていると聞いて、わたしはまた、運転手の目を盗んで石切堂までやって来た。
劇団と言っても、当時は作菜さんと明さんしか居らんかったし、芝居に高級感はなかったけど、2人が作る芝居は2人の芝居への愛情と、お客さんへの愛情にあふれていて、わたしも参加したいって思った。
だから、わたしはすぐに、「わたしもやりたい」って言った。
作菜さんと明さんは、そんなわたしのわがままをやさしく受け入れてくれた。
それからわたしは、何かと理由をつけて、運転手の送り迎えを断り、友だちと勉給するとウソをつき、遅くまで石切堂に居座ったり、合宿をしたりもした。
とにかく楽しい日々やった。
わたしはここにいる時だけ、『生きてる』って実感できた。
お芝居も楽しかった。
自分じゃない自分になれる感覚。本当の自分を出せる感覚。
わたしは初めて、『居場所』を見つけたような気がした。
しばらくして、七海が劇団に加わり、わたしの日々が一層楽しくなる出来事が起こった。
姫子と出会ったことだ。
桜木の下で出会った姫子は、やさしくて可愛くて、わたしは姫子に一目惚れやった。
けど同時に、どこか少しだけ、姫子はわたしに似てるような気がした。
だからわたしは「一緒にこの劇団で演劇やらへん?」って姫子を誘った。
姫子は、そんなわたしのわがままを受け入れてくれた。
めっちゃうれしかった。人生で一番幸せやった。だから……だからつい、姫子のやさしさに甘えてしまった。そう、あの日も……。
あの日のわたしは、苦手な学校のピアノの課題でイラついていて、基礎練のことを口うるさく言う姫子に、「貧乏くさい」ってつい言ってしまった。
姫子が家のことで苦労してることは、なんとなく分かっていた。なのにわたしは、自分の感情を抑えられず、つい口を滑らせてしまった。
すぐにちゃんと謝れば良かった。でもわたしは、軽く謝るだけで、余計に姫子を怒らせてしまった。
わたしは姫子を傷つけてしまったんだ……。
翌日、姫子が風邪をひいたことを聞いた。
わたしのせいや。
わたしがあんなことを言ったから、姫子は雨の中を一人で帰って、風邪をひいたんや。
辛かった。辛くて仕方がなかった。
こんな辛い思いをするくらいやったら、させるくらいやったら、もう、わたしは……。
その次の日、姫子が石切堂の前にいた。
わたしはうれしくてすぐに抱きつきに行きたかったけど、その気持ちをグッとこらえた。
わたしは決めたんや。もう姫子には抱きつかへんって。抱きついたらあかんねんって。
だって、わたしが姫子に甘えたら、また姫子を傷つけてしまう。大好きな姫子を。
だから、わたしは……。
ごめんな、姫子。赤ずきんのお母さん役を代えてほしいなんて言って。
ごめんな、姫子。姫子を避けるような真似をして。
わたしやって辛いよ。けど、姫子を守るためやねん。
わたしは、わたしにとって初めて心から『親友』って呼べる姫子を、もう傷つけたくないから。
だから、ごめんな、姫子。
……でも、出来るなら、わたし、もう一度だけ姫子の胸に……。
ザーザーザ―という窓の外の雨音と、少女たちの微かな寝息が聞こえる、まだ明けない暗い部屋の片隅で、布団の中、可憐は一人、涙を流していました。
すぐそばに、姫子を感じながら。
夜が明けると、喫茶石切堂と劇団おとぎの花園にとって、一カ月に一度の、一番忙しい一日が始まりました。
この日のスケジュールは、まず朝のうちに公演のための最終確認が行われ、それが終わると、姫子、可憐、七海の学生組は昼過ぎまで学校に登校。作菜と明は、マスターと共にいつも通りの時間に店を開店します。
14時のランチタイムが終わると、店を一旦締め切り、それまでに帰宅している姫子たちは裏の勝手口から店に入り、各自、発声練習、ストレッチ、着替え、メイクを行い、その後、いよいよ開演に向けての客入れが行われる流れです。
ちなみに、着替えは衣装づくり担当の明が最終チェックを行い、メイクは意外にも、七海が担当します。
さあ、時刻は14時。いよいよ、姫子にとっての初舞台の時間まであと1時間に迫ってきていました。
そんな姫子は現在、七海にメイクをしてもらっているようです。
七海は手際よく、姫子の顔にドーランを馴染ませると、アイライン、口紅、鼻立てなどを素早く丁寧にこなしていきました。
「すごいね、七海ちゃん。自分のメイクだけじゃなくて、人のメイクも出来るなんて。わたしなんか、自分のメイクも出来へんのに」
「絵描くのと似たようなもんやから……出来た」
姫子が鏡を見ると、舞台用に少し濃いめの化粧をした、普段とは全く別人の姫子がそこには映っていました。
「ひゃ~、これがわたし? お母さんも優也もびっくりするやろうなぁ」
姫子がまじまじと鏡に映る自分の顔を見ていると、七海がぼそっと言いました。
「……姫子、ごめんな」
「へ? なんで? もしかして、メイクどっか失敗したん?」
七海は首を横に振り、部屋の向こうにいる可憐に気をつかって小さく言いました。
「可憐のこと。わたしが、可憐が聖女やって言っちゃったから……」
「……違うよ。ああ、違わへんねんけど、その、七海ちゃんのせいと違うよっていう意味。可憐ちゃんが聖女に通ってることは、いつかは分かることやし。それに……わたしが悪いねん。ちょっとしたことで怒っちゃったから。ごめんね、七海ちゃんにまで心配かけちゃって」
七海はまた首を横に振りました。
「七海ちゃん、今度、メイクの仕方教えてくれへん? 七海ちゃん、教え方上手いから。この前やって半身の仕方、丁寧に教えてくれたし」
「……うん、ええよ」
姫子は七海の返事にニコッとしました。
微笑む姫子に、七海は言葉を続けました。
「その代わり約束して。絶対に可憐と仲直りするって。……実はわたしの両親、いつもケンカばっかりで……もうちょっとしたら、離婚するかもしれへんくて」
「え……そうやったんや」
「わたし、両親のケンカも、友だちのケンカも止めれへん自分がイヤで……」
姫子は、今にも泣き出しそうな七海の頭をやさしく撫でてあげました。
「わかった。約束する。絶対に可憐ちゃんと仲直りする。ほら、メイク落ちちゃうよ」
七海は一生懸命、涙をこらえながらうなずきました。
ちなみに、七海の顔はすでに、一人二役の『赤ずきんのおばあさん』役の、深い皺の入った濃いメイクが施されていました。
「そのメイク、なんかスゴイね」
姫子はぼそっと零しました。
「仲直りするとは言ったものの……どうしたもんかなぁ」
部屋の向こう側で今度は可憐が七海にメイクを受けている中、それを見ながら、時間を持て余していた姫子は、台本を片手につぶやいていました。
「わたし、完全に避けられちゃってるしなぁ……」
「お姫ちゃん、衣装見るわ」
その声は下から上がってきた明でした。明は、姫子を廊下の方へと手招きします。
「もう下の準部は終わったんですか?」
「あらかたね~」
明は姫子の着ている『赤ずきんのお母さん』役の衣装の袖や裾のほつれた部分などを丁寧にハサミでカットしていきました。
ちなみに姫子の今回の衣装は、昔の西洋の田舎のお母さんをイメージした、少しダボッとしたトップスとロングスカートでした。
「これでオッケーかなぁ。それにしても、似合ってて良かったわ」
「ありがとうございました。こんなステキな衣装作ってくださって」
「いいえ。頑張ってなぁ、初舞台」
「はぃ……もう10分くらいでお店開けるんですよね? なんかそう考えると、胃が痛くなってきました」
明は笑いながら言いました。
「まあ、困った時は可憐ちゃんがフォローしてくれるから大丈夫や」
「はぃ……。けど、わたし嫌われちゃったから……」
「……廊下に呼んだんは、そのことでちょっと耳に入れときたいことがあったからやねんけど……」
「耳に入れときたいことですか?」
「実はな、可憐ちゃん、お姫ちゃんが風邪で休んだ時、めっちゃ心配しててな。自分のせいでお姫ちゃんを傷つけてしまったって。……あんまり、人の言葉を告げ口するようなことはしたくないねんけど……お姫ちゃん、これだけは分かって。可憐ちゃんは、お姫ちゃんのこと、嫌いになんてなってへん。昨日の夜も言ってたことやけど、可憐ちゃんはただ、もう大好きなお姫ちゃんを傷つけたくないから、自分から避けてるだけやねん」
「可憐ちゃんが……?」
姫子は、明の話に言葉を失いました。
まもなくして、下から作菜の声が響き、一同は下の階の舞台上に集まりました。
すでに緞帳が下ろされた幕の内側で、作菜、明、七海、可憐、そして姫子が、円陣を組みます。
『気合い入れ』の始まりです。
『気合い入れ』とは、開場間近になると、劇団員全員で円陣を組み、文字通り、声を出して気合いを入れる恒例行事です。
団長の作菜が、まず話し出しました。
「今回は姫を加えての初舞台ってことで、姫、初めてで大変なこともあると思うけど、とにかく舞台を楽しんでな」
「はいっ!」
姫子は大きく返事します。
「みんなも、姫をフォローしつつ、思いっきり舞台を楽しんで、人を笑顔にすることを忘れずに、いつも通り、わたしたちらしく、張り切っていきましょう! 気合いれて行くぞっ!!」
「おーっ!!」と、作菜の声に呼応するように、みなが声を張り上げます。
姫子も、緊張や、可憐とのことを吹っ切るように、声を出します。
……とは言え、やはり可憐のことを吹っ切れない姫子は、衣装を見てもらっている赤ずきん姿の可憐をぼぉーと見ていました。
姫子の脳裏には、七海と明の言葉が漂っていました。
――わたしが、可憐が聖女やって言っちゃったから……。約束して。絶対に可憐と仲直りするって――
――可憐ちゃんは、お姫ちゃんのこと、嫌いになんてなってへん。可憐ちゃんはただ、もう大好きなお姫ちゃんを傷つけたくないから、自分から避けてるだけやねん――
「どうしたらええんやろ? わたし……」
「どうしたん?」
「うえっ!? さ、作菜さん……そう言えば、まだ着替えてへんくていいんですか?」
作菜はまだバイト着のままでした。
「わたしは出番があとの方やから、このあと着替えに行く。それより、ちょっとええか? 可憐もー!」
可憐は明のオッケーをもらうと、作菜の元にやって来ました。
作菜は可憐がそろったところで、姫子と可憐に紙を1枚ずつ配りました。
それは、台本のようでした。
「実はラストシーンのあとに、もう1ページ付け加えようって思ってな」
「えぇ~? 今から~? もう開演間近やで」
可憐は、驚きと怪訝が同居したような顔になりました。
「まあ、付け加えるって言ってもほんのちょっとや。童話やと、赤ずきんが猟師に助けられてめでたしめでたしって感じで終わってるねんけど、わたしは、赤ずきんとお母さんの再会まで描きたいって思ってな。ほら、この物語ってさ、母親の元から赤ずきんがお使いに行くところから始まるやろ? だから最後は、赤ずきんが無事に母親のところに戻って来るシーンで終わりたいねん」
「……話は分かったけど、言うの遅いわ」
「でもこれ、セリフが無いんですね」
台本に目を通していた姫子が問いかけました。
台本には、
――無事に再会を果たした赤ずきんとお母さんは、その喜びを分かち合った――
とだけ、書かれていました。
「セリフも動きも自由にやってくれたらええ。とにかく、2人が再会の喜びを分かち合ってくれればええから」
「……ギリギリなうえ、アドリブなん?」
可憐が呆れ顔をしていると、幕の向こうからマスターの声が聞こえてきました。
「そろそろ店開けるでー」
「はーい。じゃあ、頼んだで。2人がええ感じになったら、明が幕を下ろしてくれるから」
作菜はそれだけ告げて、着替えに向かいました。
「あっ、ちょっと! もぅ……ホンマに勝手やわ~。他人事やと思って」
「……でも、頑張ろうね、可憐ちゃん」
「……うん」
作菜が階段を上がろうとすると、階段のすぐそばに裏方作業のブースを構えていた明が、待ち構えていました。
「やさしいなぁ、うちの団長さんは」
「え?」
「またまたとぼけちゃって~。あの2人に仲直りのきっかけを与えるために、こんなシーン付け加えたんやろ?」
明はすでに、先ほど作菜が姫子と可憐に渡したものと同じ台本を持っていました。
「ちょ、ちょっと思いついただけやっ。それより、裏方全般とナレーション、今回も当てにしてるで」
「あいよ~。……出来たらええねぇ、仲直り。あの2人」
「……そうやな」
作菜は2階へと着替えに行き、明は開演までの間、店に出て、姫子と可憐と七海はそれぞれ配置につき、いよいよ喫茶石切堂のトビラが開きました。
梅雨の雨が降りしきる喫茶石切堂の店先。
小学生くらいの1人の少年が、キョロキョロと辺りを見回しながら、傘を差して立っています。
その少年はこちらへ向かってくる女性の姿を見つけると、催促するように手を振りました。
「お母さんっ! 遅いねん、もうとっくに開いてるで」
女性も少年を見つけて、手を振りながら小走りにやって来ました。
「ごめん、優也。今日雨やろ? お母さん、歩いて仕事行っててな」
そうです。この2人は優也と姫子のお母さんです。無事に姫子の晴れ舞台を観に来てくれたみたいですね。
「そんなことより、早く中入ろ」
「うん……あ、ちょっと待って」
お母さんは、赤ずきんのイラストが描かれた看板を見つけて、優也を制止しました。
「あ、姫子の名前載ってるやん。記念に写真撮ろっ」
「えぇ~……マイペースやなぁ。あとでええやん。もう10分くらいで始まるで」
「だって、姫子の晴れ舞台やもん。これで明日、仕事先で自慢できるわぁ。あ、優也も写真入る?」
「いやいやいや、俺はいいって。っていうか、なんでデジカメで撮って、携帯でも撮んねんな」
「よしっ、でーきた。さっ、早く入ろ」
「……へいへい」
マイペースに突き進む母親に、優也は肩を落としながらついていきました。
さあ、優也と姫子のお母さんも揃ったところで、そろそろ劇が始まりそうですよ。
まだ緞帳の上がらない暗闇に、明の声が響きます。
明の声「むかしむかし、あるところに、それはそれは可愛らしい女の子がいました。その女の子は、おばあさんにもらった赤い頭巾帽を、いつも肌身離さず被っていました。いつしか村の人々は、その女の子のことを赤ずきんと呼ぶようになりました」
明のセリフが終わると、緞帳が上がり、ゆっくりと照明が点灯しました。
舞台上には板付きで、すでに赤ずきん(可憐)とお母さん(姫子)がいました。
姫子(お母さん)「じゃあ……」
と、セリフを言おうとした姫子は、上がった緞帳の向こう側のお客さんたちの姿を目の当たりにして、固まってしまいました。
ほんの20人程度のお客さんでしたが、学校の集会どころか、クラスのホームルームなどでも話したことのない姫子にとっては、これだけの人の、しかも知らない人の視線を一身に受けることは、恐怖以外の何物でもありませんでした。
「(ど、どうしよう……こんな人前でなんて話せへん……)」
「なんでしゃべらへんの?」というような小さな子供たちの声が聞こえてきます。
舞台上で固まる姫子を、お母さんと優也も不安げに見つめます。
袖では、すでに着替えを終えた作菜と七海も、不安そうに見つめています。
裏方の明と、カウンターのマスターも同様です。
「(どうしよう。どうしたらいい……?)」
その時、姫子の耳に、聞きなれた声が聞こえてきました。
可憐(赤ずきん)「どうしたの? お母さん。何かわたしにご用?」
姫子(お母さん)「え……?」
それは、台本にはないセリフ。可憐のアドリブでした。
可憐は、赤ずきんを演じつつも、硬直する姫子を気づかい、ニコッとしました。
可憐(赤ずきん)「そのバスケットをどこかへ持っていくの?」
可憐は姫子の持つバスケットを指さし、さらにアドリブのセリフを続けました。
姫子は、可憐の目を見て、ようやく落ち着きを取り戻しました。
姫子(お母さん)「そ、そうなの。赤ずきん、このバスケットの中のケーキとワインを無事におばあさんの家まで届けてちょうだいね」
セリフを続ける姫子を見て、団員のみなも、マスターも安堵しました。
客席の優也とお母さんも顔を合わせて、ため息をつきました。
出番が終わると、姫子が舞台袖に帰って来ました。
姫子は、大きくため息をついて、気が抜けたように座り込みました。
「はぁ~、死ぬかと思ったぁ」
「姫、お疲れさん」
姫子は暗闇の中で作菜を見つけ、安堵の笑顔を浮かべました。
「可憐ちゃんに助けてもらいました」
「まあ、初めてやから仕方ないわ。ようやったよ」
姫子は舞台の方に目を向けました。
舞台上では、赤ずきん演じる可憐と、オオカミの着ぐるみを被った七海のやり取りが行われ、客席からは子供たちの笑いが起こっています。
「やっぱりスゴイですね、可憐ちゃん。七海ちゃんもやけど。キラキラしてる」
「あの子は天性の女優肌やからな。感性で出来てしまうし、大舞台に強いメンタルもある」
「スゴイなぁ」
舞台上では、おばあさんに化けたオオカミ(七海)と赤ずきん(可憐)のやり取りが行われ、客席からは、先ほどよりも大きな笑い声が聞こえてきます。
舞台袖から見守る姫子も、すでに1人のお客さんのように楽しんでいます。
「……なあ、姫。あんた、可憐のこと、どのくらい知ってる?」
「え?」
突然の作菜の質問に、姫子は振り返りました。
「……全然知らないです。聖女に通ってるっていうのも、この間、七海ちゃんに聞いて初めて知りましたし」
「わたしもや。あの子は自分のことをあんまり話さへんからな。聖女のことも、あの子の口からは聞いたことがない。あの子の家のこともな」
姫子はもう一度、舞台上の可憐の方を見ました。
そんな姫子に、作菜は続けます。
「……あの子が、昔から今みたいな性格やったと思う?」
「……それは、そうやと思います。元気で、明るくて、なんでわたしなんかと友だちになってくれたんやろうって、今でも思います」
「まあ、今のあの子を見てたら、そう思うかもな」
作菜の言葉に、姫子は振り向きました。
「どういう意味ですか? 昔は違うかったんですか?」
「……今では想像も出来へんやろうけど、もう1年ぐらい前か、初めてあの子がこの店にやって来た時は、雨で濡れて、まるで、人生になんの楽しみもありませんっていう、抜け殻みたいな顔やった」
「え……可憐ちゃんがですか?」
作菜はうなずき、話を続けます。
「口数も少なかったし、笑顔も無かったし……友だちって呼べる人も居らんかったんちゃうかなぁ?」
「そう……やったんですか」
「だからわたしは、初めてあんたが店に来た時、どことなく、可憐に似てるなぁって思った。たぶん、明も、おっちゃんも」
姫子は、再度、舞台の上の可憐に目をやりました。舞台上では、今まさに、赤ずきん演じる可憐が、オオカミ演じる七海に食べられてしまうシーンでした。
「きっと可憐もそう思ったから、姫の友だちになりたいって思ったんちゃうかな。そして、姫と一緒に舞台がしたいって思ったんちゃうかな。……あ、そろそろ出番や」
作菜は立ち上がり、舞台上へと向かいました。
作菜は舞台へ向かう途中、立ちどまり、姫子の方を振り返りました。
「まあ1つ言えることは、可憐もいろいろと背負ってるもんがあるってことや」
そう言って、作菜は舞台上へと上がりました。
「可憐ちゃん……」
舞台上では、作菜演じる猟師が、赤ずきんとおばあさんを食べたオオカミ演じる七海を退治し、2人を助けるシーンが行われていました。
そしてついに、先ほど姫子と可憐がもらった追加台本のシーンを迎えました。
猟師(作菜)に連れられ、赤ずきん(可憐)がお母さん(姫子)の元に帰って来ます。
向かい合う赤ずきんとお母さん。向かい合う可憐と姫子。
その光景を、舞台袖の七海も、裏方ブースの明も、舞台上の作菜も、カウンターのマスターも、そして優也と姫子のお母さんを始めとした客席も、固唾を呑んで見つめます。
赤ずきん(可憐)「……」
お母さん(姫子)「……」
2人は向かい合ったまま、動けません。
姫子はもちろん、アドリブなどになれているはずの可憐の表情も、先ほどまでとは違い、強張っています。
可憐と向き合う姫子の脳裏には、七海の、明の、そして作菜の言葉が浮かんでいました。
――約束して。絶対に仲直りするって――
――可憐ちゃんはただ、もう大好きなお姫ちゃんを傷つけたくないから、自分から避けてるだけやねん――
――可憐もいろいろと背負ってるもんがあるってことや――
姫子は目を瞑り、大きく深呼吸しました。
「(勇気を出せ、姫子っ!)」
自分の胸に言い聞かせると、姫子は目を開き、1歩前に進んで、大きく両手を広げました。
それは、「おいで」というサインでした。
可憐は、その姫子の姿を見て、やさしい微笑みを見て、目に涙を貯めました。
けれど、可憐は顔を背けてしまいます。
そんな可憐の肩に、作菜がそっと手を乗せます。
可憐が作菜を見ると、作菜は何も言わず、ただやさしくうなずきます。
可憐はもう一度姫子に顔を向けます。
そして……小さく、一歩、また一歩と姫子に歩み寄ります。
可憐は姫子の目の前まで来ると、姫子にだけ聞こえるくらいの小さな声で問いかけました。
「いいの? 姫子」
姫子は何も言わず、ただ、やさしく可憐を両手で包み込みました。
可憐は途端に、我慢できずに涙を溢れさせました。
「ごめんな、姫子。ごめんな」
「謝るのはわたしの方や。ごめんな、可憐ちゃん」
2人にだけ聞こえる声で互いの気持ちを伝えると、2人の目からは、ダムが決壊したかのように涙があふれ出し、2人は人目をはばからず泣きじゃくりました。
お化粧が落ちるのもお構いなしに、お客さんがいるのもお構いなしに、まるで、子供のように、2人はずっと泣いていました。
そんな光景を、作菜も、明も、七海も、マスターも、優也も、お母さんも、微笑ましく見つめていました。
そしてどこからともなく、拍手が起こりました。
拍手が鳴りやまぬ中、音楽が大きくなり、緞帳が下りました。
「さ、お2人さん、カーテンコールや」
姫子と可憐は涙を手でぬぐいながら、作菜の言葉にうなずきました。
「2人とも、ホンマに良かった……」
「うん」と姫子が振り返ると、目の前にオオカミがいて、姫子は奇声を上げました。
「ぎゃぁあ!! ……って、もぅ~、驚かさんといてよ、七海ちゃん」
可憐と作菜はその光景に笑いました。七海も、またオオカミの被り物を着て、笑っているように、泣いているように、肩を揺らしていました。
そして、再び緞帳が上がり、カーテンコールが終わると、無事に、姫子の初舞台は終演しました。
すっかりと雨が上がった石切堂の店先。
姫子が優也とお母さんの見送りをしていました。
「それにしてもすごい化粧やなぁ。はじめ姉ちゃんやって分からんかったわ」
優也がまじまじと姫子の顔を覗き込みます。
「もうすっかり涙で取れちゃったけどな。衣装もドーランで汚れちゃったなぁ」
「でも、良かったね、姫子。可憐ちゃんやっけ、仲直り出来て」
優也の隣にいたお母さんが、やさしく微笑みました。
「うん……って、やっぱり気づいてたん?」
「当たり前やん。お母さんを見くびらんといて。姫子がわたしに隠し事なんて、100年早いわ」
お母さんは鼻を高くしました。
「うぅ……やっぱりお母さんには敵わへん」
「明日の夜には帰って来るんやろ? ごちそう用意しとかななぁ。姫子の晴れ舞台のお祝いに」
「もう、あんまり無理せんといてよ」
「分かってます。じゃあ、お店の人たちによろしくね」
「うん、ホンマに観に来てくれてありがとう。優也も」
そこに、扉が開く音と共に、声が聞こえました。
「姫子、ここに居ったん? あ……どうも、こんにちは」
すっかり調子を取り戻して元気にやって来た可憐は、姫子の家族に気づき、あいさつをしました。
「あ、可憐ちゃんやんね。いつも姫子と仲良くしてくれてありがとうね」
お母さんはやさしく微笑みました。
「……いえ、わたし、姫子を傷つけてしまって……」
「可憐ちゃん……」
「傷つけて、傷ついて、それで雨上がりの土みたいに固い絆になっていく。それが友だちとちゃう? 『雨降って、地固まる』ってやつや」
お母さんがニコッと微笑んで、空を見上げると、姫子も可憐も、一緒に空を見上げました。
雨上がりの空は、ただただ、どこまでも澄み渡っていました。
そうして、お母さんと優也は、青空の下を帰っていきました。
「ええ家族やな。姫子の家族」
「うん。世界一の家族や」
「ええなぁ」
可憐は最後の言葉だけぼそっとつぶやきました。
「え?」
姫子が振り返ると、可憐は首を横に振り、話を変えました。
「なあ姫子。ホンマにまた、抱きついてもええんかな……?」
姫子は可憐をギュッとしました。
「可憐ちゃんが抱きついてこんかったら、今度はわたしが抱きしめるわ」
「姫子……でも、わたし、また姫子を傷つけるかも知らへん」
「さっきお母さんも言ってたやん。傷つけて、傷ついて、絆が強くなるって。それに、わたしがつまらんことで怒ったりしたのが悪いねん。ホンマにごめんな。痛かったやろ?」
可憐は姫子の腕の中で、首を横に振りました。
「つまらんくなんかないよ。姫子にとっては大事なことやろ?」
「……わたしな、きっと知らん間に、家族にコンプレックス抱いててん。貧乏やとか、お父さんが居らへんとか。けど、この前家族に励まされて、今日また家族に会って、やっとわかった。やっぱりわたしの家族は世界一なんやって。たとえ、貧乏くさくても」
「姫子……」
「だから、もう気にせんといて。それより、今日はありがとうな。助けてもらって。最初のシーンで」
「……ええよ。わたし、姫子の先輩やから」
可憐は姫子の腕から逃れると、ニコッとして鼻を高くしました。
すると、姫子は可憐の仕草に吹き出し、可憐もつられて吹き出しました。
喫茶石切堂の店先に、ようやく2人の笑い声が帰って来ました。
「あー!」
と、声を上げたのは姫子でした。
「どうしたん?」
「また衣装、ドーランで汚してしまった……」
姫子の衣装には、姫子や可憐のドーランがこびりついていました。
「明さん、怒るかなぁ?」
「大丈夫大丈夫、さっ、それより店の中に入ろっ」
可憐が手を伸ばすと、姫子はうなずいて、その手を握りました。
そして、2人が店内に入ると、バタンッ! っという音が店中に響き渡りました。
「えっ、何?」と、姫子が音の方を見ると、舞台袖が倒され、そのそばには車いすに乗った小学生くらいの少女がいました。
「奏、やめなさいっ!」
作菜が必死にその少女に叫びます。
「うるさいっ! いつまでこんなつまらんことしてんねんなっ! お姉ちゃんなんて大嫌いやっ!」
奏と呼ばれた少女は、目に涙を浮かべたような表情で叫びました。
七海はおびえ、明やマスターは事の顛末を見守っているようでした。
そして姫子の隣で、可憐が小さく言いました。
「奏……」
「奏?」
「……作菜さんの妹や」
「作菜さんの……妹さん……?」
さてさて、ようやく姫子と可憐が仲直りしたと思ったら、また一大事のようですね。
いよいよベールを脱いだ奏という作菜の妹。
彼女は何に怒り、何に涙するのでしょうか?
さあ、新展開の開幕です。
が、それはまた、次の幕でお話しするとしましょう。




