その筋っぽい男への推測
二人で暫し伊勢崎さんをからかった後、その筋っぽい男は邪魔したな、と軽快に告げ、幸いにも無傷だったバイクにまたがり、颯爽とどこかへ走り去った。ぎこちない笑顔で控えめに手を振っていた伊勢崎さんは、男の姿が見えなくなると、途端にその場にしゃがみこみ、大きな溜め息を一つ吐いた。
「ああ、怖かった、緊張した」
大きな図体を小さく折り曲げて、何とも情けない声色で何とも情けない言葉を洩らした伊勢崎さんを、大袈裟に呆れた顔をつくって見下ろす。普段は思い切り見上げている伊勢崎さんを見下ろす、と言うのは新鮮で少し面白い。
なかなか顔を上げない伊勢崎さんのつむじを眺める。右巻きなんだな。つむじが右巻きの人は頭が良いとか言う診断が有るけど、多分嘘だ。
「なんだい廣田さん、そんな顔しないでくれよ」
「いやあ、伊勢崎さんカッコ悪かった」
ようやく顔を上げた伊勢崎さんは、あたしの冷ややかかつ哀れみのこもった視線に気付き、ばつの悪そうな顔で笑った。
「確かに俺はカッコ悪かったけど、廣田さんが茶化してきたのも一因だよ」
「確かにあたしは茶化したけど、伊勢崎さんがカッコ悪かったのも一因だよ」
伊勢崎さんの言葉を真似てそう返すと、彼は小さくそれはそうだと呟いた。そうして、しゃがんだまま何かを考えている様に目を伏せ、眉を寄せた。おそらく、さっきの男がここに来た理由と、その男と一夜限りの恋をしたと言う、伊勢崎さんを知る人物とは果たして誰なのか……と言う点についてだろう。あたしもそこについては、非常に気になっているのだ。
先程のその筋っぽい男は、アマタ荘の古ぼけた階段のすぐ傍にバイクを停めていた。アマタ荘に用があって訪ねて来た、と考えるのが妥当だろう。だが、男は結局あたしと一緒に伊勢崎さんをからかっただけで、他は特に何もせずに帰って行った。アマタ荘への用事が、伊勢崎さんをからかうという事はきっと無いだろう。用事が有ったのだが、一度帰らざるを得ない状況になったのか、ただ単純に忘れたか。もし前者だとしたら、他人にその様子を見られては不味かったのではないか?どういったものかは分からないが、あたしと伊勢崎さんがいたから、用事を諦めて仕方無く帰ったのではないだろうか。
そもそもこんな早朝からの用事、と言うのも引っ掛かる。更に男のあの怪しい風貌、もしかしたら警察が放っておけない感じの、危ない用事だったのではないか。そう考えると、途端にまた恐怖がぶり返してきた。いけない、これは単なる推測だ。
あの男の一夜限りの恋人に関しては、この近所に住んでいるとの発言が有った。更には、伊勢崎さんの事を知っている様子である。男は「この辺」と言っていたが、正しくアマタ荘の住人である可能性も捨てきれない。用事と言うのは、ただその人物に会いに来たとかそんなのかも知れない。相手との関係をべらべら話してしまった手前も有るし、そこを他人に見られてしまっては、その人物に迷惑がかかるのではないか、そう思って引き返したのかも知れない。
「伊勢崎さん、思い当たる人はいる?」
「えっ、な、何に」
「さっきの人の、ワンナイトラブの相手に決まってるでしょう。て言うか、その事考えてたでしょ?」
伊勢崎さんは図星をつかれたといった様子で、苦笑いを浮かべながら、こめかみ辺りをぽりぽりと掻いた。見下ろした横顔は、醜男ではないものの、イケメンだとか美しいとかの単語はとても当てはまらない。だがその荒々しい顔立ちに、男としての魅力を感じる者だって存在するのだ。
「いないね。……いや、一人、この人なのではと言う人物は浮かんだが、その人が他人に俺の話をするとは思えない。残念ながら、そんなに親しくないからね」
そう話す伊勢崎さんは、少しだけ悲しそうな顔をしていた。彼が誰を思ったのか見当がついた。多分だけど、彼と同じくアマタ荘の住人である、佐伯裕香さんだと思う。伊勢崎さんとお知り合いの女性で、この辺りに住んでいて清純そうな見た目であり、尚且つ親しくない事実に悲しくなる程の美人は、あたしは彼女しか知らない。密かにもやついた自分の胸のうちに気付いたが、気が付かないふりを装ってにやっと笑った。
ふと、伊勢崎さんは朝刊を取りに起きたのではないかと思い出す。さりげなく201号室に目をやると、ポストに突っ込まれたままの新聞紙を確認できた。視線を元に戻すと、相変わらず悲しそうな伊勢崎さんの横顔が有った。この様子だと、新聞の事は綺麗さっぱり忘れているだろう。まあ、本人が思い出すまで言わないでおくとしよう。あたしをもやつかせた鈍感男に、わざわざそんな事を思い出させてあげる義理なんて無いのだ。
「それにしてもさっきの人、実は伊勢崎さんの生き別れの兄とかってオチは無い?」
「有るわけ無いさ。生き別れの兄弟がいるなんて聞かされた事無いし、それに」
伊勢崎さんは首を横に振り、淡々と続けた。
「俺とは全く似てないもの」
顔色一つ変えずにそう呟く。ふざけている様子などまるで無い伊勢崎さんに、思わず乾いた笑い声が溢れた。