その筋っぽい男
廣田視点でお送りします。
午前六時前、あたしは小さな小さな自分だけのお城を出て、そこから徒歩数分の場所に建っている古ぼけたアパートへと足を運んだ。今にも崩れ落ちそうな階段を慎重に上がり、『伊勢崎』との表札が掲げられた部屋の前で、ぽつねんと一人佇む。もうすぐ、この部屋の主である伊勢崎さんが新聞を取りに来るであろう。多分寝起きでぼけーっとしてる。そんな中で、ドアを開けたら真ん前にあたしが立っている。そんな重いもよらない出来事、きっと驚くに違いない。伊勢崎さんの間の抜けた顔を思い浮かべると、ついつい口角が上がってしまう。
数分もしない内に、ドアを隔てた向こうから、ばたばたという足音が聞こえた。来たぞ。にやついているであろう顔をどうにか取り繕い、わざとらしい無表情をつくって、ドアを開くのを待つ。がちゃ、とノブを捻る音が耳に入った。そのまま木製のドアが開かれると、そこには案の定、目を見開いて口をぽかんと開けた伊勢崎さんの姿があった。
「えっ、ひ、廣田さん、びっくりした。どうしたの?」
「びっくりすると思ったから来た。用事は無い」
無表情のまま手のひらを小さく振ると、伊勢崎さんは眉を下げ、その精悍な顔立ちをみるみる情けないものにした。彼のこの表情が、何とも言えない程に面白くて愛しいのだ。
「全く、君は本当に変な遊びが好きだなあ」
「伊勢崎さんのその顔見ると、今日も一日頑張ろうって気になるんだよね」
「あいよ、それはどうもです」
眉を下げたままへにゃりと笑う伊勢崎さんに、心臓がどきりと音をたてた。あたしって趣味が悪いのかもね、と心の内で苦笑する。もっとも、にぶちんな伊勢崎さんは、そんな事まるで気付いてないんだろうけど。
……ところで今日の伊勢崎さんは、いつも以上に落ち着きが無い気がする。いつも大人ぶってる割りにすぐ動揺したり困った顔したりするけど、今日はそれに加えて、どことなくよそよそしい様に感じるのは気のせいだろうか。
様子の違う伊勢崎さんに思案していると、突如、がしゃんと言う大きな音が足元の方で響いた。驚き音の発信源を探すと、厳つい黒色をしたバイクがコンクリートの上に横たわっており、その側にはオールバックの男性が立っていた。
「大丈夫ですかー」
あたふたとした様子で伊勢崎さんが階段を降りていくから、あたしも慌ててその後を追った。伊勢崎さんはバイクの男性の側まで駆け寄ると、一瞬だけ固まった。どうしたのかと続けて男性に目をやると、あたしも同じ様にかっちり固まってしまった。
男性は、推定身長180㎝半ばであろう伊勢崎さんよりも、更に背が高い様に感じた。おまけにその顔付きは、伊勢崎さんと兄弟なのではないか?と言う疑念を沸き上がらせる。とどのつまり、悪人面なのだ。くっきりと刻まれた眉間の皺に、ナイフのような鋭い目付き。伊勢崎さんに似ているが、歳が彼よりも幾らか上であろう事も相まって、もしかしたらそれ以上に「その筋っぽい」かもしれない。
「ああ、すまんな。バイクが倒れちまった」
壊れたりしてねえよな、と倒れたバイクを起こし、それをまじまじと睨み付けている彼を、あたしと伊勢崎さんは凝視した。
「ところでさ、ちょっと聞きたい事が」
そう言って、その筋っぽい男はこちらに顔を向けた。はじめて正面から見たその顔は、斜め横から見るよりもたいそう迫力があった。
「あ、はい、何でしょう」
「……いや、お前らはあのアパートの住人か?」
「ええ、はい、私はそうですが、この子は違います」
そう言って、伊勢崎さんはあたしを手のひらで指し示した。緊張しているのか、途切れ途切れに言葉を発している。
「ふうん、そうか……。いやまあ、やっぱ何でもねえや。ところでお前、そのでっかいの」
「あ、えっと私ですか、何でしょう」
「名前、何て言う?」
緊迫した空気が、あたしと伊勢崎さんに流れる。名前を聞いてどうするつもりなのだろうか。まさか、何か恐ろしい事案を起こし、それに伊勢崎さんを使用するつもりなのではないだろうか。ふと斜め前に立つ伊勢崎さんを見ると、首筋に汗が幾つも伝っていた。暑さのせいだけではない事は、はっきりと分かる。あたしの肌にも、冷たい汗が流れていた。斜め前から生唾を飲み込む音が聞こえる。どうやら返答に困っている様子だ。
「ああ、まあ答えたくねえなら良いよ。すまんな」
「いえ、あの、すみません」
「あーだけどさ、お前、いせざきナントカとか言う名前じゃねえか?」
「どうして御存知なんですか?」
目をひんむいて大声を出す伊勢崎さんに、やってしまったなと言う視線をくれてやる。あたしの冷ややかな視線があってか、伊勢崎さん自身も己の過ちに気付いたらしく、はっとして口をつぐんだ。そんな伊勢崎さんを見て、その筋っぽい男は品の無い笑い声を高らかにあげた。
「がっはっは。大丈夫だよ、別に疚しい事しようって訳じゃあねえからさ」
「いや、でもあの、どうして」
「知り合いがこの辺住んでてさ。その時ちょっと聞いたのよ」
「はあ、あの、どういった御知り合いで」
「一夜限りの恋ってやつだね」
悪人面を更に凶悪に仕立てて、その筋っぽい男は右の口角を引き上げた。
「清純そうな見て呉れの子だったけど、いざおっ始めるとあっちから求めてきてさ、かなり燃えたよ」
「はっ。ちょっとあの」
「お兄さん、あたしに構わずどうぞ」
狼狽しきっている伊勢崎さんが面白くて、わざと困らす様な事を言うと、彼はやっぱりあたふたとしながら、あたしとその筋っぽい男の顔を交互に見た。
「がっはっは。なあ嬢ちゃん、この兄ちゃんおもしれえな」
「でしょう。伊勢崎さんは絶好の玩具ですよ」
失礼極まりない事を承知済みでそう茶化す。伊勢崎さんは少しむっとした表情を浮かべたが、すぐさま筋っぽい男に向き合って、一生懸命に言葉を並べた。
「あのう、お兄さん。その様な話はちょっと、私も困りますし、あの、私を御存知な方のようなので、私もそのお相手の事を知っているかもしれないので、ちょっと」
しどろもどろになりながらも何とか言葉を発する伊勢崎さんに、あたしもその筋っぽい男も、声を揃えてげらげらと笑った。可哀想な程に情けない表情を浮かべる彼は、いつも通りの伊勢崎さんだった。先程のよそよそしさは、やっぱり気のせいだったのかしら。どうしたら良いのか分からない、と言った様子の彼を眺め、その姿をまた愛しく思って再確認する。
あたしは異性として、伊勢崎さんの事が好きだ。