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アマタ行進曲  作者: こんぶ子
2/11

アマタ荘

 アマタ荘とは、埼玉県に存在する小さくて古ぼけた貸アパートである。築20年、二階建て、家賃四万、クーラー無し、風呂無し、トイレ共同、六畳一間、ペット禁止、大家は「天田勘之介あまたかんのすけ」さんと言う、腰の曲がったご老人だ。飄々としたお方だが、稀に突拍子も無い行動に出る事がある。以前、アマタ荘で暮らしていた若い女性が、天田さんに内緒で子猫を飼っていたらしい。結局すぐに露見する事になったらしいのだが、怒るかと思われた天田さんは落ち着き払った声色で、「うちの無職で親の金でパチンコ三昧な孫と結婚してくれるのなら、猫を飼うことを許そう」と真剣に交渉しだしたと言う。その後の問答の詳細は謎に包まれているが、結果として、女性は大泣きしながら子猫を連れてアマタ荘を去って行ったらしい。

 あまり快適とは言えないつくりのアマタ荘であるが、なんやかんや家賃も安いし、またその古ぼけた感じが何とも居心地が良く、私は気に入っている。ただ気に入った理由を天田さんに言えば、家賃を上げられてしまうかもしれないから、そっと心に秘めておく。


 炎天からの攻撃に熱を帯びた手すりを掴みながら、心許ない階段を降る途中、見覚えのある男の顔が目に入った。細面の骨格、大きめの鼻に、カマボコのような形の垂れ目。アマタ荘105号室の住人、大川宏典おおかわひろのり御前だ。彼は私を見付けると、その人の良さそうな顔をほころばせて大きく手を振った。私も笑顔で振り返す。

 大川君は、私がアマタ荘へ越してきた少し前からここで暮らしているらしい。私と同じく34の齢だが、私とは違い、彼は一度だけ結婚と言う華々しい舞台を経験している。バツがついたら男としての質が落ちるよ、と彼は笑っていたが、そんな事は無いだろう。結婚と言う第一の難関に加え、更に離婚と言う第二の難関まで見事に乗り越えた、そんな崇めるに値するような男の質が悪い筈は無いのだ。

 因みに彼は、十年間勤めた会社を一昨年に何故か突然辞め、今は焼肉店でパートとして働いてる。もし生涯フリーターでも、苦は無く暮らせる程度の貯金はあると言っていた。


「やあイセ君、おはよう。さっき帰ったとこなんだ」


 二週間前の事、大川君から突如「一人旅をする」と告げられた。行き先は決めず、一週間ぐらい気の向くままにぶらぶらしてくるよ、と穏やかな口振りで言った。旅好きである私は素直に羨ましく、会社をやめてみるのも良いのではないかと思ったが、悲しいかな、私には貯金と言うものがあまり無いのである。ギャンブルやキャバクラ嬢に貢ぐ等との事は一度たりともした試しが無いのに、年中懐が寂しいのは、私が俗に言う『低所得者』と呼ばれる人種である事と、趣味の旅行代が高くつく故であった。


「おはよう。元気だった?」

「元気も元気、絶好調だよ。屋久島の縄文杉を見てきたんだ。暑いし山登りはかなりきつかったけど、やっぱり縄文杉、ただ者じゃないってオーラを放ってたね。パワーを分けてもらった気がするよ。ほかにもいろんなとこぶらぶらしてさ、楽しかったよ」


 カマボコ目を細めて話す彼を、心底羨ましいと感じた。大川君の笑顔は、常にとても幸せそうなのだ。外面だけでなく、心の内側から幸せだと語りかけてくる。私は彼の笑顔と人当たりの良い性格が好きだ。


「イセ君はこれから出勤?」

「ああ、行ってくるよ」


 右手をさっと挙げて敬礼のような仕草をとってみせると、大川君は親指を立て「グッジョブ」の形をつくった。


 アマタ荘に住む面々は、年齢も職種も様々である。私と大川君は同い年だが、デスクワークに接客業と、お互い異なった仕事をしている。他にも、一人暮らしデビューを始めた男子高校生や、駆け出しのナースだと言う若い女性、早朝に出掛けたと思ったら深夜にも出掛けるなど何をやっているのか分からない青年に、顔も性別も分からないお隣さん等がいる。

 アマタ荘で暮らす殆どの人物は社交的であり、離れて住む家族の話や会社、学校の話を面白おかしく語ってくれる。

 だがその反面、当然だが内向的な人物もいらっしゃるので、誰彼構わずに無駄話を持ち掛けてはいけない。以前、下の階に住む職業不明の青年に、挨拶ついでに学生時代から二十半ばまで飼っていた犬の話をしてみたら、途端に顔を背け、小さく何かを呟きながら走り去ってしまった。他人と話すのが好きでないのか、それとも急いでいたのか、はたまた両方かもしれない。実に申し訳ない、私の配慮不足であった。







「伊勢崎さんって変わってますよね」


 コンビニエンスストアで購入した握り飯と抹茶ラテで小腹を膨らませていると、職場の後輩である華田はなださんからそんな言葉を投げられた。変わっている。すなわち普通ではない、おかしい、貴方は異常だ等と言う意味であろう。仮にも上司に向かってそれは、なかなか失敬な言葉である気がする。私は不満に眉根を寄せた。

 華田さんは仕事の出来も良く、たまに淹れてくれるお茶の塩梅も素晴らしいのだが、あまりにも思った事柄をつらつらと口に出し過ぎてしまう性格が玉に瑕である。


「心外ですよ」

「何て言うか、立ち振舞いからして変わってるんですよ。性格もですし、言うことも変わってる」


 不満の言葉を無視して、華田さんはそう続けた。そのような事柄をぽんぽんと口に出してしまう彼女もまた変わり者なのではないか。隣で花柄の可愛らしい弁当箱を取り出し、いただきますとお行儀良く手を合わせている女性にそう反論してやりたい。


「伊勢崎さん相手だから言えるんですよ。他の上司にはもし思っても言いません」


 まるで私の心の内を読んだかのような発言に驚きつつ、その横顔を伺うと、ふとこっちを向いた彼女と目が合った。が、すぐさまその視線は花柄の弁当箱に戻された。


「まだあのぼろぼろのアパートに住んでるんですよね。確かにお給料あんま良くないし旅費が嵩むとかも言ってましたけど、それでももうちょっとましなとこ有るんじゃないですか」

「分かってませんね、華田さん」


 弁当箱とその中身に目を向けたまま続ける華田さんに、わざとらしい得意顔をつくって返すが、彼女の目線は相変わらず彩り豊かな昼食へと向けられていた。そうして呆れたようにふうっと一つ溜め息を吐くと、手作りらしき卵焼きを箸でつまんだ。

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