苦い夢に甘いココアを
pixivに投稿したものの転載です。一部脱字を修正しています。
晩秋の枯れた景色が窓から見える2年5組で、担任が毎度ながらの適当な物言いでSHRの終了を告げると、教室に籠っていた生徒たちの声のボリュームは一気に上がる。
周りのことなど一切気にしない思い思いの声が響く中、その片隅で館花心悟は無駄のない動きで身支度を整えて、教室を出ようと静かに椅子を引いて立ち上がった。その動きで、天然パーマ気味の自分の髪が目元にかかってきたのが鬱陶しく、心悟は歩きながら指でくるくるとそれを巻いて目元から除けた。
(そろそろか……あんま長くするとダメだしな)
自分の髪の切り時を感じながら、心悟は誰にも声をかけないまま教室を出て行く。教室にも学校にも、授業以外では何の用事もない。そう、言わんばかりであった。
*
学校最寄りの駅から、校外へ向けて約20分。心悟は自動改札さえない小さな駅で降りると、駅員の顔など見ないまま定期だけ掲げて、脇目も振らずに家へと向かう。
心悟の家――カフェ『Wisteria Brook』は、その駅前から歩いて数分の所にあった。
2階建ての、レンガ調の建物の入り口には、店名の書かれた看板と、今日のメニューをチョークで書いたポップが置いてある。心悟は「営業中」というプレートがかかった木製のドアからではなく、ぐるりと裏回りして裏口から自分の家に入った。
帰宅の挨拶もなく心悟はすぐさま2階の自分の部屋に行くと、ハンガーにかけてあったYシャツと黒いスラックスを手に取り着替える。私服とはおよそ遠い格好に、更にデニム地のエプロンを羽織りまた1階に下りると、今度は手洗い場へ行って石鹸での手洗いの後にアルコールの消毒ジェルを手に塗りたくる。嗅ぐだけで酔いそうなアルコールの蒸発する匂いを感じながら、心悟は奥まった場所にあるドアのノブに手をかけ、立てつけの良くないそれを慣れた調子で押して開けた。
ああ、この匂い――思い切り吸い込んだ扉の先の空気は、澄んだ黒の芳香に包まれていた。
さっきのアルコールの匂いなど忘れるほどの香しいコーヒー豆を挽いた香りが、ふわっと心悟の嗅覚をくすぐり、胸も頭も満たしていく。そんな、普通の家とは少し違った香りが、いつも心悟を「帰ってきた」という気持ちにさせてくれる。
鼻から吸い込んだコーヒーの香りは体内を巡る何もかもを更新してくれるようで、代わりに腹にたまった老廃物とも思える外の空気を一気に吐き出すと、そのドアの向こうに立っていた初老の男性に声をかけた。
「親父ただいま。今から入る」
「おや、おかえり心悟」
その男性――心悟の父である館花敏夫は、かけた老眼鏡を指で直しながら心悟の方を向く。
今年で60歳になる敏夫は、心悟に遺伝した若干天然パーマの頭に白髪が混じり、見た目としても決して若く人の目に写ることはない。だが、言動に窺える物腰の柔らかさが手伝って、見せる老いもほんのり明るく照明のついたレンガ色の年季ある店内に馴染み、良い意味で「喫茶店の老店主」と呼べる雰囲気を醸していた。
「いつも悪いね。そんなに手伝ってもらうこともないのに」
「ま、好きでやってるだけだし。さあて、お仕事お仕事」
心悟はぶっきらぼうないつもの言葉を返すと、他に誰もいないカウンターに軽く背を預けた。
これが、心悟の日課。定休日である水曜日以外は、学校が終わればすぐに家に帰り、父親の手伝いをする――どの部活にも委員会にも属していない心悟が、放課後に一目散で教室から出ていく理由だ。
とは言っても、この店は急いで帰らなければいけないほど忙しいわけでもない。カウンター席の椅子が5脚と、2人掛けと4人掛けのテーブル席がそれぞれ2席設けてあるだけの小さな店には、休日はともかく、平日ではその半分を満たすほどの客が入ることすら稀だ。故に働くと言っても、実際に心悟が労働に汗を流すといった場面はそうそうなく、椅子に座ってぼんやりとしている時間の方が長いくらいである。
だが、この店にいる時間こそが心悟にとっての何より優先される物事であった。
学校に行くことが嫌なわけではない。帰りの寄り道に誘ってくれる、付き合いのある友人もいる。勉強だって疎かにしているわけではない。しかし、学校という場が、心悟にはどうしても自分を拘束するための檻のような気がしてならない。
人気のありすぎて淀んだ空気、ゴミの落ちた廊下、雑然と騒がしい教室、自分に届く感覚の全てが、むせこみたくなる不快を催させる。そしてそれを浄化するために、心悟は毎日この場所を目指して学校からいなくなる。
コーヒーやトーストの焼ける匂い、敏夫の几帳面な性格ゆえに掃除の行き届いたホコリ一つ見えない店内、最低限のボリュームでかかる静かな音楽と火にかけたポットから湯気の出る音しかしない空間。幼い頃から知っているこの小さな世界が、心悟にとっては自分に誂えられたかのような親和性をもって馴染んでいた。
程なくして、カランカラン――と控えめに鳴る店の入口に据えられたカウベルが、二人に来客を教えた。
「いらっしゃいませ」
敏夫がいち早く反応し、入ってきた二人組の中年の女性客に挨拶をすると、
「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ」
心悟もすぐさま立ち居を正し、二人を余裕をもって座れる4人掛けのテーブルへと案内する間に、敏夫が水を用意する。そして一旦カウンターに戻った心悟はステンレスの丸盆にそれを受け取ると、メニューを持ってまた客の前に立つ。
「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください。ごゆっくりどうぞ」
コップを二人の前に置いて、普段の雑な言葉などおくびにも出さずに静かに礼をしながら下がった心悟は、またカウンターに戻って敏夫に尋ねる。
「今日のケーキの残は?」
「じゃがいものキッシュがあと3つ、レアチーズは2つ、紅茶のシフォンも2つだね」
「ん、わかった」
それが分かれば問題ない――そう思いながら、メニュー決めもそぞろに全然違う話を始めた客たちに目を向ける。年齢、性別、時間帯から考えて、きっとケーキセット、しかもそれぞれ別々のケーキを頼むのだろう。今までの経験を基にして、心悟は勝手にそう判断した。
元が静かな店内だっただけに、たった二人増えただけで店内に響く音は何倍にもなったようにも思える。だが、心悟はこの場においては他人の声を嫌なものだとは感じられない。これもまた、店の音の一部だと思えるようになっていた。
しばらく経ってから、心悟に声がかかった。果たして注文は、レアチーズとシフォンのケーキセットが一つずつ。
「かしこまりました。しばらくお待ちくださいませ」
注文を伝票に書き込み、心悟はもう一度恭しく礼をして下がる。カウンターに戻る前に敏夫と目が合ったので、「ほれ見ろ」と意味を込めた目くばせをすると、敏夫は「確かに」と笑うような目で応え、すぐさま二人分のコーヒー豆を電動ミルに入れて挽く。
ゴゴゴ……と響くミルの音と、店内に一層立ち上るコーヒーの香り。その耳と鼻をむず痒くする刺激を心悟は人知れず楽しみながら、ケーキを盛る皿の準備を始めた。
この日の客は、この後もう一組男女のペアが来て、頼んだ軽食を写メに撮りながら騒いでいったのが最後だった。
「お疲れ、心悟」
「親父こそお疲れ」
入口のプレートを「準備中」に裏返し、鍵をかけて初めて心悟の一日は終わる。時刻は、夜の7時を過ぎていた。
元々が自分の家なので、この時間まで働いても大した賃金はもらえない。だがそれを心悟が不満に感じたことはない。お金よりも、ここで仕事をすることそのものが心悟の目的になっていた。
それが、物心ついた頃から当たり前になっていた、心悟の日常だったからだ。
その日も心悟はHRが終わると、すぐに教室を出ようとした。だが、そこに担任が教卓から降りてきて声をかけてきた。
「館花、ちょっと話があるんだが職員室までいいか?」
「……本当にちょっとで済むのなら」
面倒な……。そんな思いを露骨に態度で表しながらも、心悟は身支度を整えたバッグを背に負い、職員室へと付いていった。
「で、何でしょうか、先生」
「ま、簡単な話だ――これのことでな」
担任が自分の席に座るや否や書類の散らかった机から一発で取り出したのは、見覚えのある1枚の更紙のプリントだった。そこには、見慣れた自分の字が乱雑に書いてある。
「……進路調査、ですか」
「そうだ。進路希望、『家を継ぐ』って1年の時から書いているが――」
「ええ、何か問題がありましたか?」
「いや……だがな、前も言ったがお前の成績なら国立の大学も狙えるぞ。家計を気にしているんだったら奨学金という手段もある。お前の成績と家の状況なら奨学金の資格は充分あると思うんだが」
自分の進路についての可能性を示す担任の話だったが、心悟はわざらしく耳をほじりながら一言素気なく返す。
「大学は特に興味ないので。俺は家を継ぐので構わないんです」
就職難と言われ、家業の継承が途絶えていると嘆かれているこのご時世。大学に行かずに家を継ぐことなど、歓迎されるいわれはあっても文句を言われる筋合いはない。そんな正論を見えない盾にして恥じることなく振る舞う心悟だったが、返ってきた担任の言葉はやはり耳触りのいいものではなかった。
「それ『で』構わない、か。……そうか」
「…………」
含む所がありそうで、それでいて言いたいことを敢えて言わない担任の態度がこれ以上なく癪に障り、心悟は返す言葉に孕ませた怒気を隠しもせずに担任との話を終わらせようとする。
「話は終わりですか? 俺、家の手伝いがあるんですが」
「ん、そうだったな。……まあ、進路はもっとじっくり考えろよ。お前の将来はいくらでも可能性があるんだからな、何か一つ夢があってもいいと思うぞ」
「…………失礼します」
憮然とした態度のまま、心悟は形式通りのお辞儀をすると、気持ち早めの足取りで息苦しい職員室を後にした。
(夢とか――他人事と思って面倒を押し付けられる身にもなれって)
これだから、学校という場所は嫌いなのだ。
人間を一か所に押し集め、教育とか言いながら一方的に管理され、さも経験者を気取って上から目線で他人の人生に「指導」と銘打った文句をつけてくる。そのくせ、言ってくることはどこかで聞いたような「夢を持て」だの「将来は希望に満ちている」だののお題目を、言い回しを変えて唱えているに過ぎない。
そうした学校で言われるすべてのことを、心悟は下らないと一蹴したくなる。
「好き好んで呪われる奴がいるかよ」
誰にも聞こえない声量で一人ごちながら、苛立ちも背中を押した早足で昇降口へ向かう。どうせ、拘束されてしまった時間を考えればいつも乗るよりも一本後の電車に乗るしかないので、急ぐ必要はない。
それでも、このままいたら窒息しそうな学校に今日はもういたくないのと、コーヒーの匂いが恋しくて、心悟は枯葉を乗せた肌寒い風を感じながら、駅へと急いだ。
****
「うーん……でもねぇ……」
店に入ろうとして一番に聞こえたのは、珍しく思案に暮れたらしい敏夫の歯切れ悪い声だった。
「お願いします!」
それに続いて響いてきたのは、またもやこの店には珍しい若い女の子の、懇願するようでいて、でも少しの濁りもなく聞こえる澄んだ声だ。
何かトラブルでもあったのかと気になり、心悟はいつもより強めに店へつながるドアを押す。
「親父、どうした?」
「あ、心悟おかえり」
「――お、おかえりなさい!」
聞き知らない声で挨拶を返されたのは、心悟の出てきたドアの方を向いていた敏夫と対面して、カウンターに座っていた高校生らしい女の子だった。着ている制服は、心悟の通う学校にも近い市内有数の進学校のものである藍色のブレザーに寒色系を使ったタータンチェックのスカート。ショートカットの髪形は癖があるのか、横にはねて広がっている。
そして振り返った少女の顔を見て、心悟は瞬間「あら」と知らずに声を漏らした。くっきりと二重で大きく印象的な瞳と、ほんのり紅く色づいた肌。今時の女子高生らしく化粧はしているようだがそれも最低限で、自己主張の低いそれが却って少女の基から持つ可愛らしさを引き立てているようだった。
この辺りにこんな娘がいるとは――目が合った一瞬でそう思ってしまうほど、目を見張る少女ではあったが、少なくとも「おかえりなさい」と帰宅の挨拶を返される相手ではない。来店する客の顔を比較的覚えている心悟でも、記憶の中に合致する顔は存在しなかった。
「……誰?」
見たところ客とも違う雰囲気を持った少女を怪訝に思い、眉をしかめながら心悟が尋ねると、敏夫の方も普段は柔らかな曲線を描くその眉毛を下げて、軽く肩をすくめてみせた。
「うん、なんでもうちでアルバイトしたいらしいんだよ」
「あれ、バイトなんて募集してたっけ?」
「してないから困ってるんだよ。心悟だっていなくても事足りるかもしれない店なのに、これ以上人を増やしてもねぇ……。でもこの子、うちで働きたいって聞かないんだよ」
「そりゃまた酔狂な」
「あの、本当にお願いします!」
二人が困惑しているのを察したのか、少女はまたも澄んだ声を張って敏夫へほぼ直角に頭を下げる。しかしそれを受けても、敏夫はむしろ更に困惑したように少女の懇願を制止した。
「いや、だからそんなに頼まれても……それに君の家、市街地なんだろう? 電車に乗ってわざわざ来るような所じゃないよ」
それを聞いて、心悟も口を挟まずにはいられなかった。
「は? 市街から来たの? 電車代だけで結構かかるぞ」
てっきりこの辺に住む人だと思っていただけに、心悟の困惑までも深まっていく。市街に住んでいるなら、近くにもっと立地的にも条件的にも好都合なバイト先があるだろう。それをわざわざこんな郊外の小さなカフェに来て、働きたいとはどういう料簡なのか。仮に彼女を雇って交通費まで支払ったら店が見事な大赤字になる様を、心悟の長年の仕事で使いこまれた脳内電卓はあっという間に弾き出していた。
だが心悟の言い方に良からぬ気配を感じたのか、バイト希望の少女はその疑念を拭い去ろうとするように両手をワイパーにしながら、
「こ、交通費はいりません! こちらで働かせてもらえればそれでいいんです!」
泡を食っての弁明を敏夫と、そして心悟にもしたようだった。
「これだよ、心悟」
「意味、わかんないな……」
それに対し、父子は目を見合わせ少女の意図を理解する鍵を探るが、長年通じ合った二人のアイコンタクトでさえ、どうにもそれはわかりかねた。
「あの、どうしてもと言うならバイト代もいりませんよ!」
「いやいや、流石にそんなことは出来ないよ」
二人のことなど置いてけぼりにしながらとうとう完全に理解の範疇を超えたことを言い出した少女に、今度は敏夫が両手をワイパーにしつつ首を横に振り、彼女の話をかき消そうとする。
それはバイトじゃなくてボランティアじゃ――そう言いたくなるのを接客で培われた理性が口の中で噛み殺し、心悟はその妙な少女をじっと見つめた。
(……変な人)
最初に感じた美少女の印象はぼやけてしまい、今の感想はその一言に凝縮されてしまう。
どこから来るのかわからない熱意だけは感じるが、だからと言って彼女を雇うのかとなればやはり話は違ってくる。
親父だってそう思うだろ――心悟は店の責任者たる敏夫に視線で語りかけるが、それに反して敏夫は腕組みと黙想でまたも思案にふけり、ややあって一つの提案をする。
「じゃあこうしよう。二週間だけ、研修ということで働いてもらう。その間で君の働きが良ければ、そのまま続けてもらう。まあ、君も働いてみながら続けるかどうか考えるといいよ。時給は650円が限界だけど、それでいいかな?」
いやよくないよ。そう、少女ではなく心悟が言いかけた。
「おいおい、いいのか? 親父」
「仕方が無いじゃないか、こんな真剣にお願いされては。悪い子じゃなさそうだし、二週間だけならね」
「相変わらず商売っ気のないことを……」
苦笑いながらもいつもの柔和さを取り戻した敏夫の顔に、心悟は呆れかえってしまう。
敏夫のお人好しは、今に始まったことでない。常連にはツケを許し、初来店の客にも注文にないサービスを惜しまず、作る料理は様々なこだわりこそ見せるものの、値段は採算度外視のものばかり。あくまで客に料理を、この店を、楽しんでもらうことが敏夫の第一らしい。
いくら二人家族とはいえ、よくも今まで食うに困らずいられたものだ。帳簿の中身を覗き見るたびに、そう思ってしまうほどに。
その性格も手伝って常連客もつき愛されてもいるのだろうが、敏夫のこうした部分を心悟はあまり快く思ったことはない。
どうしても、『幸福の王子』を思い出してしまうから。
自分の身を削り、他者の意向を汲んでばかりで、終いには自分には何も残らないまま、ゴミ扱いされ消えていく。童話の中でこそ魂の救済で幕を閉じたが、現実で考えればあんな馬鹿馬鹿しい話はない。心悟は小さな頃見たあの話を思い出すたび、煮詰めたガムシロップをガブ飲みするに等しい、吐き気すら感じるひどい甘ったるさを感じてしまう。それに似た感覚を、心悟は時折自分の父親から覚えてしまう時があった。今もまた、その時だった。
だが心悟の感じた嫌悪は誰にも気づかれず、働くことを許された少女は初めて喜色満面でまたしきりに頭を下げた。
「ありがとうございます! 私、明日からでも来れますよ!」
「そうかい。でも今週の土曜からで大丈夫だよ。何かあればそこの心悟に訊けばわかるから」
「ちょっ、親父、勝手に――」
勝手に巻き込まれ反論しようとした心悟だが、それはカウンター席から素早く降りて自分の前に立ち塞がった少女の嬉しさ以外の何物でもない感情を示す顔に止められた。
「よろしくお願いします! 心悟さん!」
そう言って、自分にも丁寧にぺこりと頭を下げる少女。それを受け、心悟の二の句は音にできなくなった。
……機先を制された。そう思う。そうなれば自分が強く反対できる状況ではないし、それをする絶対たる理由があるわけでもないのだ。ここまで来ると次第にどうでもよいことのように思えてきて、心悟は頭を上げて見つめてきた少女に躊躇いながらも目を合わせ、諦めも混じった覚悟を決めることにした。
「……まあ、とにかく明日から、かな。ええと……」
少女の名前を知らず言い淀んだのを察したのか、
「『りな』です。野神璃奈って言います」
少女はにこやかに、心悟へ自分の名前を名乗った。
「は、はあ……よろしく」
仕方なく、心悟もそう言って軽く頭を下げた。
店で働くに当たり、制服などはないからエプロンと服は自分で用意すること、そして店に入る時間を決めたところで面接は終わり、璃奈は帰り支度を整えて、入口の前で見送る敏夫にぺこりと深い礼をした。
「ではよろしくね、璃奈ちゃん」
「はい! “いっしょけんめい”やりますから!」
いっしょけんめい――早口で言ったからなのか、カウンターの内側からその様子を見ていた心悟にはそう聞こえた。
「いやはや、最近の子は元気だね」
璃奈が帰ったのを見届けた敏夫が、入口を閉めながら苦笑した。どうやら璃奈の調子に押されてしまっていたのは、敏夫も同じだったようだ。
「いや、あの子が変わってるだけだと思うけど。というか大丈夫か? ただ働きでもいいなんて、逆に怪しく感じるけど」
「履歴書持参でそれはないと思うよ。何なら見てみるかい?」
「ん、どれ」
敏夫からカウンターの隅に置かれた履歴書を渡され、心悟は斜め読みで目を通す。
用紙自体はその辺の百円均一で売っている物だったが、そこに書きこまれた「野神璃奈」を代表とする美しい筆致の文字たちが、紙の価値自体を上げているようにも感じる。生年月日からして18歳になったばかりで、心悟よりも一年先輩のようだった。
被写体を不細工に写すことに定評のある証明写真も、彼女の整った顔立ちまでぼかすことはできなかったらしく、見間違えようのない先程の少女が少しの緊張を湛えた笑顔を見せていた。
自己PR欄には、簡潔に一言「一所懸命にがんばります!」とある。
「いっしょ、けんめい?」
一生懸命じゃないのか。些細な疑問を抱いた心悟の目線の先を敏夫が覗きこみ、「へえ」とつぶやいた。
「今時一所懸命なんて使う子もいるんだね。『一所に命を懸ける』。鎌倉時代の御家人が自分の領地を守るために使った言葉で、今の一生懸命の語源かな」
「……ふうん、やっぱ進学校なだけあって難しい言葉をご存知で」
「別に難しくもないと思うけどね」
敏夫の捕捉に疑問も失せて、またざっくりと履歴書を眺め出した心悟は、あることに気づく。
「他県の学校からこっちに来たんだ。しかもつい最近だし」
「おや、本当だね。こんな中途半端な時期に。親御さんが転勤族なのかな」
横から覗きこむ敏夫の声に、心悟はじろりと睨みを入れる。
「親父……ちゃんと履歴書見てなかっただろ」
「ははは」
父親の聞き飽きた愛想笑いに、そんなんで採用したのかよと説教の一つでもしたくなったが、これもまた敏夫の性格の為せる業だと嫌というほど知っている。心悟は説教の代わりにため息一つで妥協し、「もういい」と履歴書を敏夫に返した。
「ところでこのこと、彼女に言ったら駄目だよ。個人情報だし、聞かれたくないこともあるかもしれないから」
「んなこと言われなくとも。どうせ二週間だろ? そこまで深入りすることもないって。さ、いつも通りお仕事お仕事」
素気なく返した心悟は新しく来る同僚のことも深く考えず、いつもの接客モードに思考を切り替えようとしたが、そこで思い出したように敏夫から声をかけられた。
「そういえば、今日は遅かったね。学校で残されたかな?」
……そこを訊くか。せっかくの好きな店内の空気が急に重苦しくて吸い難いものに思えて、心悟の呼吸が一瞬止まる。
「……まあ、ちょっと。進路のことでね」
曖昧にぼかそうとした心悟の作戦は通じなかったようで、敏夫はもっと中身を追究してきた。
「特になしとか書いたんじゃないだろうね」
「違う。別にこの店継いでもいいかな、って書いたらちゃんと進路を選んで決めたのか――だとさ。大きな世話だっての」
「……そうか。でもそれは先生の方が正しいな」
いつも通りの柔和な、だが担任にも感じた含む所のありそうな敏夫の声が、心悟の癇に触れた。
「んだよ、普通子どもが家を継ぐって言ったら親としては喜ぶところだろ」
「確かにそうだけど、心悟の場合はね……。それこそもう少し、考えてみるといい。自分の将来はいくらでも開けるんだから」
「…………」
(――そういう親父は、呪われたまんまじゃないのかよ)
口から出かけたその言葉を、しかし心悟はやはりぐっと飲み込んで、微笑みを絶やさない父親を気づかれないようにしながらじっと恨めしげに見つめていた。
その時、カランカランと鳴るカウベルの音が心悟の心をそちらへ吸い寄せる。
「いらっしゃいませ」
これで、しばらくはそちらに集中できる。心悟は色々な意味で感謝しながら、楽しげに入ってきた二人組の女性客をテーブル席へと案内した。
****
今日の仕事も、夕食も風呂も終え、寝るだけになった心悟は学習机に背をもたれながらぼんやりと担任と敏夫の言ったことを思っていた。だが、それを考えて込み上げてくるものは、やはり気分の悪さだけだ。
―――夢は、人を呪うらしい。
子どもの頃に聞いた言葉は、心悟の心にしっかりとこびりつき残っていた。
「夢を持て」と、人はそう言う。だが、持てと言うなら夢はどこにあるものなのか。どこにあるかわからないものを、持てるわけがない。
そして何より、持った夢を叶えられなかった時、諦めざるを得なかった時、それでもその夢に未練を残してしまって人がそれ以上進むことのできなくなってしまった場合――即ち、“夢に呪われた”場合の責任を、果たして夢を持つよう言った人間は取ってくれるのか。
夢について考えるたび、心悟はそれに呪われているはずの人間に思いが至る。
それは、自分の父親――敏夫だ。
元々オートバイレーサーで、引退後はレーシングクラブの経営をしていたらしいが、敏夫と同い年だった妻が高齢出産の結果産後の経過を悪くして亡くなり、それ以降ずっと男手一つで生まれた息子を育ててきた。
言うまでもなく、それは心悟のことだ。
敏夫は心悟が生まれ妻が亡くなると、レーシングクラブを辞め、地元であるこの町に戻ってカフェを始めた。
それが、父子家庭であることに心悟が寂しさを感じないよう、家に常に誰かがいるよう配慮した結果だということは、幼かった心悟でもどことなく感じていた。
敏夫の部屋には、未だにレーサーだった頃の写真やトロフィー、オートバイの模型が飾ってある。店の本棚には、定期購読のバイクの雑誌。乗りもしないのに整備されたバイク。敏夫の夢の残滓は、そこかしこに見ることができる。
きっと、敏夫もレースという名の夢に未だ呪われている。そして呪われたのは、自分のせい。
常に優しく、怒った姿を見せたことのない父親を、友人たちは羨ましいと言ってはばからなかった。だが心悟にとってはその優しさも、途中で夢を諦め誰かのために生きることを強いられた者の、遠慮も混ざった陰を帯びているようにしか思えなかった。
その幼いながらに感じた引け目は、心悟に父親のために人生を使うことを望ませた。
成績が良いことが喜ばれると知ったから、勉強に労を惜しんだことはない。
家事が出来れば父親の負担も減るから、料理は勿論掃除や洗濯も一通りこなせるようにした。
店を手伝えば誰かに「偉い」と言われるから、小学生の頃から父親の手伝いをしてきた。
高校は経済的負担の低い学校を何か特別な理由があるように思わせて、一校だけ受験した。本当は高校さえ行く気はなかったが、それは望まれていなかったようだから今の学校にいる。
そして、大学には行かずにこのまま親の跡を継ぐ。それで、心悟の人生は充分満たされる。
だから、心悟に夢はない。持つ必要もないものだと考えていた。自分は冷めているのではなく、醒めている――そう、言い聞かせながら。
しかし、心悟が夢の呪いから逃れられているかと言えばそうではなく、夢はひたひたと自分の後ろに迫り、呪いを背負うようしつこく纏わりついてくる。そして今日、担任と敏夫の言葉が、とうとう自分の足の裾を掴んだ気がした。
気持ちが悪い――何かにつままれた感触を嫌悪して、心悟は吐き出すように重く言葉を漏らす。
「自分らの夢は叶って、んなこと言ってるのか? そうじゃないなら……道連れでも探してんのかよ」
それは嫌だ、やっぱり俺はこのままでいい。グラグラと煮詰まった苦く真っ黒い思考の果ては、結局いつもの答えに辿り着く。結果は同じだというのに、何かあればこんな悩みに惑わされている自分がアホらしいとさえ思えて、心悟は一人自嘲した。
もう寝ようと考えを切り替えた時、気づくと自分の腹の底がやたら重苦しく感じられた。
苦いだけのコーヒーを飲み過ぎたような後味の悪さに軽くえづいてしまい、心悟は気を紛らわすために台所に向かうと、冷蔵庫からレモンと店でも使っている炭酸水を取り出した。
レモンを半分に切って丸々一個絞り、自家製のガムシロップをスプーンで目分量測ってレモン汁と一緒に氷の入ったコップに入れ、そこに炭酸水を入れてさっきのスプーンでかき混ぜればレモンスカッシュの出来上がりだ。レモンの皮をゴミに捨てながら早速一口飲むと、口に広がるのはレモンの痺れる酸味とシュワシュワと弾ける炭酸の感触。その爽やかな口当たりが、先程までの気持ち悪さを消してくれる。
「かぁーっ……酸っぱうめぇ」
甘いのが嫌いな心悟は、いつも客に出すよりはガムシロップを少なめに作る。深夜の沈んだ気分で作った割にはそれが上手くいったことが更に気分をよくして、心悟はレモン絞りにまな板と包丁、そしてスプーンを洗うと、レモンスカッシュを持ったまま部屋に戻っていく。
今日は、これを飲みながら深夜のバラエティ番組を見て笑い転げてから寝よう。心悟は歩きながら、そう決めた。
そうすれば、きっとこの心の中のモヤモヤも晴れてくれるだろうから。
次の休日、心悟たちが午前9時開店の店内の掃除をしていた所で、「準備中」にしていたはずの入口がカウベルの音を出して開いた。
「すみません、まだ準備――」
急いた客かと思って顔を上げた心悟の目に飛び込んできたのは、
「店長さん! 心悟さん! 今日からよろしくお願いします」
「っと!?」
元気のよい挨拶で頭を下げる璃奈の姿だ。正直、璃奈のことなどすっかり忘れていて、心悟はその登場に面食らってしまった。
「遅れてすみません! ええと、まずは着替えたいんですが更衣室は……」
「ごめん、うち更衣室なくてね。家の方の脱衣所で着替えてもらうしかないんだ」
「わかりました!」
文句の一つも言わずにぱたぱたと敏夫の後について家の中に入っていく璃奈を、心悟はしばし唖然と目で追いかけていた。
しばらくして出てきた璃奈の格好は、ヒダの目立たない黒のひざ丈スカートで、白いワイシャツの襟元にはやはり黒のリボンが付いている。そして服を覆うエプロンは、フリルのついたチャコールグレー。「服は自前で」とお願いしたのが昨日なのに、ずっと前から揃えていたのかと思うほど完璧で、店の雰囲気にも自然に溶け込んでいた。
「心悟、璃奈ちゃんのこと頼むよ」
「親父なぁ……」
「よろしくお願いします。先輩」
まるで他人事のようにカウンターの内側で微笑む自分の父親に文句の一つでもつけようと思ったが、璃奈が昨日の如くぺこりと頭を下げたので、心悟の調子はやはり狂ってしまう。
「先輩って……。俺高2だから後輩だし」
「でも、働いてる時は年齢よりもキャリアの差が優先されないといけないと思います」
当然のように返した璃奈の真摯な言葉と目には、一切のからかいも疑念もない。純然と、自分を働く者としての“先輩”として慕う風な彼女の態度にひるみ、却って心悟が恐縮してしまう。
「とりあえず、敬語は慣れないからやめてもらえると嬉しいんだけど」
目を合わさないようにしながら心悟が言うと、璃奈はどこか様子見をしているように相手の態度をうかがう。それは、知らない人から餌を差し出された野良猫が、好意を受け取ろうとしながらも警戒の姿勢を怠らずに覗きこむのを連想させる動きだった。
「……本当に、普通のしゃべり方でいいですか?」
「うん、他人行儀にされると自分ちなのに居心地が悪いから」
心悟は目を斜めに逸らしながら所在ない手で自分の首を撫でる。自分と彼女が上手く噛み合っていないことを、口だけでなく仕草でも示そうとしていた。
そうでなくとも、知らない人と一緒に働くなんて初めてで何だかやりにくい。通常のアルバイトなら当然のことなのだろうが、ここは自分の家でもある。ある日突然自分の家に他人が上がりこんでくるのと似た感覚を、心悟は覚えていた。
しかし相手の邪気の無さは、嫌というほど伝わってくる。だからこそ自分が悪者に思えてきて、心悟の気はそぞろになって目も合わせづらくなってしまう。
璃奈の方はそんな心悟をまじまじと見つめていたが、やがてくすっと笑った。
「わかった。じゃあこんな風に話すけど、怒っちゃヤだよ心悟くん」
気安い返事に胸を撫で下ろされたのか、心悟の口からは深い息が漏れる。自分の中での違和感を綺麗に拭えたわけではないが、それでもさっきよりは楽だ。そこでようやく心悟は、璃奈の顔をはっきりと見ることができた。
「大丈夫です。じゃあよろしく、野神さん」
「璃奈でいいのに。そっちが他人行儀だよ」
だって他人だし――その台詞はまだコーヒーの香らない店の空気を吸い込むので押し込んで、璃奈の無邪気な笑顔から体ごと目を背ける。しばらくはこの微妙な違和感と気恥かしさに苛まれながら仕事をしなければいけないのかと、心悟の気は一瞬滅入りそうになる。
(とりあえず、二週間だ)
自分にそう言い聞かせ、心悟は自分の髪を指で後ろに梳きながら、気持ちを切り替えようと声を張る。
「さぁて、お仕事お仕事!」
「はい! 一所懸命いきましょう!」
いつもよりも気合を入れた掛け声に、今日は合いの手が入ってきた。どうやらしばらくは、これも自分一人だけのものではなくなるらしい。
****
二人が仕事に入って最初に店の入口を開けたのは二人の壮年男性だった。赤いジャンパーを羽織った一方は清潔感を感じ、茶色いジャケットを着た方はどことなくキザったらしい雰囲気を持った人物だった。どちらも見せる年齢の割に体は引き締まって、シルエットは若々しささえ感じさせる。
「いらっしゃいませ!」
心悟が反応するより早く、璃奈が弾んだ声で客のもとへ駆け寄っていった。
「あれ? 新しいアルバイトさん?」
「はい! 野神といいます! よろしくお願いします」
「ふーん、心悟も隅に置けないなぁ」
どこか興味深げににやりと笑った赤いジャンパーの男だったが、それを押しのけるようにもう一方の男が璃奈に迫ってきた。
「おやぁ? 随分可愛い子がいるじゃねぇか。どうだい、今から俺とお茶でも飲みに行かねぇか?」
「えっ? あ、あの、今仕事中なので!」
男からの突然のナンパに璃奈は驚き後ずさっていくが、男はフッとキザな笑みを浮かべてなおも璃奈から離れようとしない。
「まぁそうケチケチすんなよ。客なんて見るに俺らだけだし、君が抜けたって問題ねぇって」
「え? え? ええ?」
いよいよ狭い店の壁際に追い詰められ、それこそ街角でナンパされた少女のようになった璃奈が回した目で必死に送ってきたSOSを受け、仕方なく心悟と敏夫が男の背後からわざと音が出るよう水を置いて、助け船を送る。
「邑城さん、店内で年甲斐もないことすんのやめてください。それとお茶ならここで飲んでってください。何しに来たんですか」
「邑城くんの浮気性はコーヒーにもあるのかな。僕の店を捨てて他のコーヒーの所に行っちゃうのか」
「おいおい冗談だよ親父さん! 女もコーヒーも惚れたら一途だぜ、俺は!」
邑城と呼ばれた男は二人の援護にやられたのかさっと璃奈から離れ、プレッシャーから解放された璃奈はほっと息をつく。それを見て一足先にカウンター席に座っていた男が大きく笑ったのを、心悟はじとりと睨んだ。
「天童さん、笑ってないで止めてくださいよ。野神さん本気で困ってたじゃないですか」
「ははは! 悪い悪い」
天童と呼ばれたその男は、心悟の睨みも気にせず歯を見せて笑う。
「それに、元気で可愛い彼女じゃないか。ちょっとからかってみたくもなるだろう?」
「野神さんは彼女じゃなくて、期間限定の新しいバイトです」
「だったら彼女にしてしまえ。お前の結婚式に呼ばれて泣くまでが俺の人生設計だからな」
するとそこに、邑城も天童の隣に勢いよく座って会話に加わる。
「おっと、そん時は俺も呼べよ。おめぇの恥ずかしいエピソードは山ほどあるからな」
「親戚のおっさんですか。ったく……」
天童も邑城も心悟が幼い頃からこの店に通っている客であり、敏夫とも心悟ともとうに気心が通じている人間であった。
心悟としても、会話に遊びを混ぜるのが好きな天童の性格も、邑城がキザで嫌味な風に見えて根こそ真面目なことを知っている。客というよりは、それこそたまにやってくる親戚のような存在だ。
「大体二人とも、四十過ぎのおっさんが揃いも揃って女の子を困らせるとか趣味悪いですよ」
心悟が呆れかえってカウンターに相対した二人に説教すると、当の二人は揃って笑い声をあげた。
「いや、まさかこんな所で心悟の彼女を見るとは思わなかったから、俺たちも舞い上がってしまったかな」
「この店は最高だが、敢えて言うなら華が足りなかったからな。心悟もやっと色気づいてきやがって嬉しいぜ。俺の恋愛指南のおかげだな」
「華がなかった店でごめんね。璃奈ちゃんに感謝しないと」
「あと野神さんは彼女じゃないです。というか、毎度毎度男二人でサーフィンばっか行ってる人たちに色気がどうとか言われたくありません。天童さんは奥さんも構ってあげないと駄目だし、邑城さんは色男気取ってないでいい加減結婚してみせてください」
「ははは、心悟も言うようになったな」
「おめぇがケツの青いガキの頃から知ってるこっちとしちゃあ、皮肉も感慨深く聞こえるな」
「まったく……」
この二人は変わんないな――心悟がそう思っていた所へ、気づくと璃奈がそーっと天童たちの傍にメニュー片手に近寄ってきた。
「あの! ご注文は?」
「「ん? 『いつもの』で」」
さっきのナンパで警戒されているのを知ってか知らずか、二人は息の合った一言と指でサッとサインを送るだけで注文を済ませてしまう。当然ながら、初めて働く璃奈に常連客の「いつもの」などわかるはずもない。きょろっと目を丸くした璃奈に、二人は悪戯っぽい笑いを見せる。
「あれ、もしかしてわからない? いつもはこれで通じるんだけどなあ」
「おいおい、調子狂うなぁ。こりゃあ店を替えた方がいいんじゃねえか?」
「い、いえ! わかりました『いつもの』ですね! し、しばらくお待ちください~」
あからさまにからかわれているのに、璃奈としてはテンパっているのか安請け合いで「わか」ってしまうと、「わかっちゃったよ」なんて注文した二人に笑われているのも知らずにカウンターの中にいた心悟と敏夫へと慌てて駆けこんできた。
「えっとすみません! お二人の『いつもの』って――」
「はいはい、天童さんは砂糖抜きのホットミルク。邑城さんは深煎りブレンド、砂糖もミルクもいらない――ですよね」
「なるほど、『てんどうさん ホットミルク さとうぬき ゆうきさん ふかいりブレンド ブラック』と……。覚えました!」
不親切な注文に困惑する璃奈のため、心悟はわざと邑城の「いつもの」を復唱してみせると、璃奈はその場でメモを取りだし履歴書で見たのと同じ繊細な文字を書きこんでいた。
「おっ、へこたれないな、野神ちゃんは」
「その前向きさ、悪くねぇな」
「一所懸命だからね、璃奈ちゃんは」
璃奈の様子を微笑ましげに眺めていた大人三人からの声に、
「はい! 私も今度から皆さんのお話に加われるようがんばります!」
璃奈からは素直な返事が戻ってきて、店内は三人のどっという笑い声に包まれた。
(案外、強い人だな)
響く笑い声の中、一人だけ不安げに璃奈を見ていた心悟だったが、アクの強い常連客たちにも負けようとしないその様子は、それも杞憂だったと思えるほどだ。
二週間の付き合いじゃ済まないかもしれない――初日の最初の接客だけで、心悟にはそう予感する。本当、何となしにだけれど。
敏夫が自分の身の丈を超える業務用冷蔵庫から取り出したのは、まず普通はお目にかかれないであろう大型の瓶に入った牛乳だ。この牛乳だけでなく、コーヒー豆や炭酸水、食材を含めて店で出すものは敏夫なりのこだわりで選んだものばかりで、一般の小売店では見かけないものが多い。
これらをどのように選び、入手しているのかは心悟でさえ知らない。ただ少なくとも敏夫の舌が狂ってはいないことだけは、やはり自分の舌と、何より市街から外れた小さなカフェにやってくる固定客の多さが証明している。そう、心悟は確信している。
「おい心悟。おめぇが行かねぇなら、俺があの子口説いていいか?」
「邑城さんはさっき口説いてたでしょうが。歳考えてくださいって」
時折軽口を挟みながら、心悟は弱火にかけていたミルクのふちに泡が見えてきた所で一度火を止め、泡だて器でかき回す。その後もう一度火にかけることでミルクにふわふわの泡が立つのは、父親のマネから自然と覚えたことだ。
隣ではその教え主である敏夫が、独自の比率でブレンドしたコーヒーを淹れる。二度目に大きくお湯を注いだドリップからは、かぐだけで味を感じる香りが一層漂ってきて店にいる全員の鼻をくすぐった。
「野神さん、カップ用意してもらっていい?」
「はい! どれを出せばいいですか?」
心悟から声をかけられ、璃奈は素早くカウンター席の真正面に据えられたガラス張りのカップの棚に手をかける。カウンターからの観賞を兼ねた見せる置き方をされた何種類ものカップに璃奈の目が迷うが、今度は敏夫が背後の棚を見ないまま指示を送った。
「ホットミルクは白いのを。コーヒーは璃奈ちゃんの好きな柄のでいいよ」
「決まってないんですか?」
「そういう店だよここは。俺たちが証人だ」
「その日の気分だからな。親父さんらしいぜ、全く」
客も混じって談笑が繰り広げられる店内で、カチャカチャとカップを出す音が小刻みに聞こえだす。新人の仕事始めにしては上々のスタートだというのは、本人を覗いて店にいる者は声に出さずとも共通して感じていたことだった。
****
昼から3時までの一番回転の高い時間帯を切り抜けると店内はまた静けさを取り戻していき、客のいなくなる時間もちらほら生まれてきた。
「野神さん、初日からお疲れ。何か飲みたいものある?」
「え、いいの?」
今日初めてふうとため息をついた璃奈に心悟が労いの言葉をかけると、璃奈はきょとんとした顔で訊いてきた。
「お昼ご飯の時以外立ちっぱでしょ。今は客もいないし混むこともないだろうから、一緒に休みましょう。俺もいつもこの時間コーヒー作って自分で飲んでるし、ついでに作りますよ」
そう言われても璃奈は、許可を求めるようにちらと敏夫の方を向く。敏夫もその視線に気づいたのか、「いいよ」と答えてにこやかに笑った。
「じゃあええと――ココアが飲みたい、かな」
「あら、ココアか」
ココアと聞いて、心悟の声が軽く驚く調子になった。
「あ、駄目だった?」
「いやいや、自分じゃ飲まないから珍しい注文が来たなと思っただけです。じゃあ、座って待ってて。親父、コンロ借りるよ」
「ああいいよ。コーヒーは二人分でね」
「わかってますって」
カウンターで既にくつろいでいた敏夫の分のコーヒーも頼まれ、心悟は腕まくりをしながら俄然やる気を出す。ポットにかけた火を少し強くしながらミルに二人前の豆を入れてスイッチを入れたら、今度はココアの準備に冷蔵庫から牛乳と戸棚からココアパウダーを取りだした。
ペーパーフィルターに折り目をつけてドリッパーにセットすると、中細挽きにされた豆をミルから出してフィルターに入れる。それが終わると三人分のカップを出し中にお湯を注いで温めると、今度はココアを作る準備に入った。
ココアを作るのはいつぶりだろうか。そんなことを思いながら、心悟は鍋にパウダーと砂糖、牛乳を全部入れてしまってから、とろ火で温めながらただひたすらにかき混ぜる。作業としてはこれだけだが、かき混ぜる作業が手を抜けず少々手間を取らされてしまう。
しばらくはその作業にかまけることになる。そう思っていると、背後に人の気配を感じてふと振り返ったら、そこにどこか恥ずかしそうにしながら立っていたのは璃奈だった。
「野神さん? 座ってていいよ?」
手伝いでもしようとしているのかと思ったものの、璃奈はそうではないようで興味深げに心悟の体に隠れたココアの鍋を覗きこむ。
「あの、もし邪魔じゃなかったら作るの見てていい?」
「? それはいいですけど……」
「じゃあ、見学させてもらうね」
璃奈はぱあっと顔を輝かせると、心悟の隣に立って鍋の中をしげしげと見下ろした。
「最初から牛乳にココアを入れちゃうんだね」
「ああ。温めてからココアを入れたらダマが出やすいからね。うちはひたすら煮込んで完全にパウダーを溶かすようにしてる」
「材料の分量はどれくらいずつ?」
「えー……このスプーンで2,3杯くらい。親父も俺も目分量でやってます」
「そうなんだ。ふーん……」
メモを取り出し傍らでやたら熱心にココアの作り方を訊いてくる璃奈が気になりながらも、集中を切らすとすぐにココアが沸騰してしまうので、隣は見ないままに心悟は牛乳を鍋に注ぎ足してまたかき混ぜる。そんな無言な心悟の一挙手一投足さえも、璃奈は見逃すまいという風にじっと見つめてメモを取っていた。
しばらくして出来上がったココアに、最後の一手間として心悟は冷凍庫から小分けにされたホイップクリームを持ってくる。このホイップクリームも、取り寄せた生クリームから泡立てた自家製のものだ。
ココアにこれを乗せることで、ココアのコクが深くなる。ちょうどカップにはまる大きさで凍らされたホイップクリームをココアのカップに入れると、クリームはやや熱めにしたココアにじんわり溶けて、白色の泡の蓋を作りだした。
「はい、ココアお待たせしました」
「わあ! すごい!」
ふわふわの泡で覆われたココアに、隣で璃奈が小さな拍手をした。そうなると、心悟としても悪い気はしない。自分の作ったものをこうも喜ばれるというのは、やはり手間をかけた甲斐を感じてしまう。
「璃奈ちゃん、カウンターに座って飲みなさい」
「あっ、はーい」
敏夫に言われて、奥から2番目のカウンター席に座った璃奈に、改めて心悟はココアを差し出す。
「じゃあ心悟くん、いただきます」
「はい、どうぞ」
ココアの方も一段落つき、心悟は使った鍋を洗いものの中に突っ込むと今度は自分たちのコーヒーを淹れようとポットを持った、その時だった。
「あれ?」
璃奈から漏れた、無意識に口から出てきたようにも聞こえたそのつぶやきに、心悟のドリッパーに向いていた頭は反射的に声の元へと動いていた。
「変な味だった?」
思わず心悟が尋ねた。久しぶりに作ったから、分量がおかしかったかもしれない。クリームが古くて冷凍焼けでも起こしたか? 味を狂わせる可能性が、思いつく限りに心悟の脳裏に駆け巡る。そんな不安をかきたてられるほど、心悟には璃奈の漏らした言葉が妙に気になった。
その一言に込められていたように思えたのは、簡潔に言えば「期待外れ」だろうか。少なくとも、心悟にはそう聞こえたのだ。
しかし当の璃奈は、心悟が怪訝な様子で尋ねたのに気づいたのか慌てて首を真横にブンブン振り、必死でそれを否定しようとする。
「う、ううん! すっごい美味しい! 自分で作るのと全然違ってとっても濃いし、舌触りも粉の感じが全然しない! こんなの作れるなんてやっぱり心悟くんすごいよ!!」
「……そう?」
璃奈からの褒めちぎられても、心悟にはどこか釈然としないものが残る。まるで耳元で言われたようにはっきりと聞き取れた、さっきの声。それを忘れさせるには璃奈の褒め言葉も何だか弱く、上っ面で滑っていってしまう。
引っかかるものを感じながら、心悟が1度目のお湯をドリッパーに少量回し入れると、豆からは泡が立ちじっくりお湯を吸いながら空気を含んで膨らんでいく。それは豆が新鮮な証ではあるのだが、その様子が自分の疑念が膨れていくのとシンクロしているように思えて、心悟は豆が蒸れるのを待たないままに2度目のお湯を回し入れた。
上のドリッパーではお湯が落ちるに従って豆が谷状に沈んでいき、真下のサーバーには一筋の黒い滝が落ち、底に溜っていく。いつもなら飽きずに見ていられるその光景も、今日は何故だかじれったく感じられ、急くように心悟はまたお湯を注ぎ入れた。
「……蒸らしが足りなかった」
「そうだね」
自分が淹れたコーヒーの物足りなさに漏らした感想に、同じコーヒーを飲んだ敏夫が隣で相槌を打った。
せっかくの素材を生かせなかった申し訳なさをコーヒーに詫びながら、ふと心悟が左隣に目をやると、璃奈がココアを飲み干して小さく息をついていた。
名残惜しそうに唇についたココアを指で舐め取る璃奈の顔は幸せそうだが、心悟にはやはりさっきの一言が気になっている。
今回は、課題を残してしまった。自分のコーヒーを見つめながら心悟は反省し、いつもより味気ないコーヒーをぐっと飲み干す。口に広がる熱さといつもより薄い苦みをしばらく甘んじて受け、ゴクリと飲み込むと口の中には何の余韻も残らない。
次回はこんなことはするまい――心の中でそう決めて、心悟は苦いため息を一つついた。
*
それ以来、休憩時間にコーヒーとココアを作るのが心悟の日常に加わった。
それは璃奈が休憩時間に飲みたいものを尋ねると、決まってココアと答えるようになったからだ。
特にココアは、作るたびに意識的に分量を変えてみたり、火のかけ方に気をつけたり、ホイップを冷蔵庫で解凍してからココアに乗せてみたりと、色々と試行錯誤を繰り返した。
それをいつも璃奈は「美味しい」と言って飲み干してくれる。あれから、「あれ?」という声も聞くことはなかった。
しかし、璃奈が一口目を飲んだ時に見せる微妙な顔を、心悟は見逃していなかった。どこか寂しいというか、残念というか、そんな表情で璃奈は無意識なのか眉をぴくんと下げるのだ。その理由を訊くこともできないし、きっと答えてもくれないだろう。
そんなことが繰り返される間に気がつけば二週間はとうに過ぎて、一月が経っても璃奈は当然のように仕事を続け、常連とも親しく話をするようになっていた。
心悟も璃奈を仕事仲間として受け入れて、学校から帰れば敏夫と璃奈がいて、仕事をして、休憩時間にはどうすれば璃奈が納得するココアを作れるか思案する――それが新しい心悟の日常になって、もうしばらく続くものと、心悟は勝手に思っていた。
****
閉店した店内に心悟の怒号が響いたのは、街に初雪が降った日だった。
「親父! どういうことだよ!?」
「別に今決めたことでもないさ。前々から決めていたんだ」
怒りの矛先を向けられた敏夫は、そんな中でも諭すような口調で最低限のことだけ語る。
事の発端は、常連の財津が「いつもの」ブレンドを飲みながら発した何気ない一言。
「これも心悟が卒業したら飲めなくなるか……。店を畳むなんて勿体ない」
その言葉に、心悟が仰天したのはおろか、璃奈でさえ「ええっ!?」と叫んでいた。どうやら二人がいない間に、常連客だけに語っていたことだったらしい。
心悟はその場で問い質すことこそしなかったが、その間に据えかねていた怒りと疑問を閉店して二人きりになった今この瞬間、爆発させて叫んでいたのだ。
「次郎くんが言った通りだよ。お前が高校を卒業したら、この店を閉める。昔のお金があるからお前が大学に行くにしろ何にしろ、生活に苦労はしないはずだ」
「そうじゃない!! どうしてそんなこと黙ってたんだ!? 意味がわかんねぇよ! 俺は店を継ぎたいって――」
「お前には、夢を持ってほしくてね」
夢――一番聞きたくない言葉をこの最悪な場面で口にした父親に絶句した心悟の心の奥底から、ぞわりと込み上がってくるものがある。
「元々、お前を育てるために開いた店なんだ。心悟がここまで大きくなった以上、続ける意味はないだろう。いつまでも、お前をここに縛っておくわけにもいかないからね」
心悟には、何故かそんな敏夫の言葉がすんなり理解できた。だが、納得できたわけではない。むしろ相手の話の不愉快さに、どんどん押し込めていたものが吐き出そうになってくる。
――結局、そういうことかよ。
本当は、この店に見えるこだわりに、どこかで期待していたのだ。敏夫はこの店が好きで、オートバイからこの店へと夢を変えているのではないかと。
しかし、そんな淡い期待は今日、笑えてくるほどあっさりと瓦解した。
敏夫にとって、この店はいつでも畳める程度の思い入れしかなかった。むしろここは、自分を育てるために夢を諦め仕方なく作った、呪いの結晶そのものでしかなかったのだ。
それなのに……。それなのに、「夢を持て」だと? ここに縛るのがよくないだと? よくもそんな、矛盾にまみれたことを言えたものだ。心悟の「ここにいたい」だけの希望さえ打ち砕くことを、平然とした顔でしておきながら。
いくら頭を横に振っても、わけのわからない感情の奔流でぐらぐらと揺らいだ視界は直ってくれない。そしてとうとう、心悟がずっと出すまいと耐えてきたものが、喉まで上ってきて口から漏れ出した。
「夢って、何だよ……。そう言う親父の夢は、叶ってないだろ」
「お前が無事にここまで育ってくれた。夢ならもう充分叶っているよ」
「――ッ! 違うだろ!!」
この、甘さ。カップの底に溶け残った砂糖を飲み込んだ時の、ザラザラと違和感の残る甘ったるさと同じ不愉快さに耐えかねて一気に吐きだした感情は、もう止まらない。
「そういうんじゃなくて自分の夢だよ! 親父はあったんだろ!? オートバイって自分の夢が!! でも俺が生まれて母さんが死んだからってそれを諦めてこんな店やって――」
呼吸が合わずに、中途半端に言葉が切れる。それでも肩を震わせ無理矢理息を吸い込んだ心悟は、まだ吐き足りない思いを全て敏夫にぶちまけてみせた。
「それで俺が店をやりたいって言ったらこの店は閉める!? ふざけんなよ!! 勝手に夢を押し付けて、俺の居場所まで奪うんじゃねぇ!!!」
「…………」
敏夫は何も言わないまま、滅多に見ない真顔でじっと聞いていた。それをいいことに、心悟は遂に敏夫へ夢の正体を教えてやる。
「夢なんか、叶わなきゃ呪いと同じだろ……。なら夢なんか見ないようにして……持たないようにして……ただ目の前のことだけに生きる……それの何が悪いんだよ! それこそ一所懸命だろうが!!」
「夢は呪い、か……」
心悟の叫びに、敏夫はただ一言、そうつぶやいた。その見つめた目は遠く、ここにない何か、ここではないどこかを眺めているようだった。だがやがてその目を伏せてもう一度、泣きそうな目をした自分の息子に向けて、怒るでもなく、悲しむわけでもなく、平生の諭すような口調で心悟に語りかけた。
「心悟、一所懸命の使い方を間違えているよ」
「……え?」
こんな時に言葉の間違い探しかよ。そう言いたくなった心悟に、敏夫は「璃奈ちゃんから聞いたんだけどね」と前置きした上で、話を続ける。
「璃奈ちゃんには、一つの夢がある。その夢をかなえるために、この店で自分の出来ることをしたくて働きたいって言ったんだよ。それが彼女の、『一所懸命』だ」
「……へえ」
璃奈の使う言葉の意味を心悟に教えると、敏夫はすっと目を細め心悟の心を覗こうとする。
「でも、心悟は違うだろう。何となくわかってはいたけれど……お前は、ここを『逃げ場』だと思っていないかい? それを一所懸命とは、少なくとも璃奈ちゃんは言わないだろうね」
「逃げ場って……俺は、手伝えば喜ばれるから……俺のせいで呪われた親父の役に立てるから……そう思って」
感情を吐きだした時の勢いを失い、次第に言い淀んでいく心悟に対し、初めて敏夫は張り詰めた声で詰問した。
「ずっと、そんな気持ちで店を手伝ってくれていたのか?」
「……ああ」
吐き捨てるようにそう言うしかなかった心悟を、睨みともつかない細めた目で見つめていた敏夫は、一人得心したように小さく頷いた。
「じゃあやっぱり、お前が卒業したらこの店は閉めないとね」
「…………」
結局同じ結論に辿り着いた敏夫に、心悟は反駁の言葉を見つけられなかった。
これで話は終わり、とでも言うように心悟から目と体を離した敏夫は家へと繋がる戸に手をかけながら、思い出したように振り返って再び心悟に目を向けた。
「一度、夢について璃奈ちゃんに訊いてみるといい。それと、照明は落としておいてくれよ」
「…………」
敏夫がいなくなっても、しばらく心悟は立ちつくして動くことができなかった。
納得したわけじゃない。でもどうすればいいのか、今の自分にはわからない。
いよいよ真っ黒な姿をした“夢”が、心悟の肩に手をかけたように思えた。
****
次の日。あの気まずい雰囲気の後でも、心悟は店に出ることを選んだ。例え昨日どんなことがあったにせよ、ここが自分の一番落ち着く場所であったし、仕事をしていればそれ以外何も考えなくてすむ。
そこには当然のように璃奈もバイトに来ていて、客の帰った席を片付けてせっせとテーブルを拭いていた。
するとそこで、店の固定電話が鳴った。それを取った敏夫は何度か相槌を打ちながら、紙にメモを取っている。
「ごめん、ちょっと仕入の荷物でトラブルがあったみたい。市街まで行ってくるからしばらく店を閉めておいてもらっていいかな?」
電話を置いた敏夫が昨日のことなどおくびにも出さずに優しく声をかけるのに、留守番役の二人は二つ返事で了承する。エプロンを取っただけの服装で、すぐに敏夫は車に乗って出て行った。
「このお店、なくなっちゃうのか……」
入口のプレートを「準備中」にしてきた璃奈が、戻ってくるなりどんよりした雰囲気でつぶやいた。やはり昨日唐突に聞かされた話に、少なからぬショックを受けていたらしかった。
それを聞いて、心悟は昨晩ここで敏夫と言い争った時のことを思い出した。
璃奈は夢があって、この店で働くことを選んだのだという。しかし、夢という単語とこの店で働くという行為が、どうしても結びつくとは思えない。思えば、初めて璃奈がここに来た時も妙な熱心さを奇異に感じたものだった。
璃奈の夢とは、何だろう。敏夫の言ったことも手伝って、心悟は思い切って璃奈に尋ねてみることにした。
「そう言えば野神さん、昨日親父から聞いたんだけどさ……」
「うん、何?」
カウンターの中にいる心悟と席を挟んで立った璃奈に、心悟はどう切り出したものかとあーうー悩んだ挙句に、
「野神さんって、夢とかあるの?」
そう、当たり障りのない言い方で訊いてみた。
すると、璃奈は少し気恥ずかしそうに頬を指でかきながら、
「あー……うん。そろそろ叶うかなー、と思ってるのが一つね」
笑顔で、そう語った。
こんなにこやかに夢を語れる人もいるのか。そんな当たり前のことが心悟にはむしろ新鮮で驚かされ、更に璃奈の夢に興味を深めていく。
「訊いても、大丈夫?」
食いつく心悟に、やっぱり璃奈は照れた笑いを浮かべて、そして、言った。
「えっと――美味しいココアを作れるようになること、かな」
「……はい?」
あまりに拍子抜けの答えに呆けた顔をさらした心悟に、その反応を予期していたのか璃奈は眉を上げながらも目元は笑い、怒るというよりはからかうといった様子で心悟をじとりと睨む。
「あ、今『何だそれ』って思ったでしょ」
「いやいや、そうじゃなくて……。なんてーか、それって夢なの?」
「やっぱり思ってるんじゃない」
くすくすと戸惑う心悟を笑った璃奈は、やがてひとりでに自分のことを語りだした。
「心悟くんは知ってるかな。私ね、県外から転校してきたの」
「……うん、履歴書見せてもらったから」
敏夫からは個人情報だと言われたことだが、本人から切り出されたため心悟は正直に告げる。それに璃奈は怒るわけでもなく、恥ずかしがるわけでもなく、「そっか」とふんわり受け止めて続けた。
「実はね、私両親とも事故で死んじゃって、今年になるまで親戚の家で育ててもらったの。でもその前は、この辺に住んでたんだよ。小学校に上がる前くらいかな」
「…………」
「でね、本当は高校になったら自立してここに戻ってこようとしたんだ。でも、18歳になるまでは一人暮らしは認めないっておじさんに言われてたから、転校が今頃にずれこんじゃったわけ」
おじさんたら本当の娘が出て行くみたいにわんわん泣いちゃってねー、なんて笑って話す璃奈を、心悟はどう見ていいかわからなくなっていた。
そんな重い過去を、どうしてバイト先の店主の息子なんかにすらすらと話せるのか。そしてどうして夢の話から、この話が出てくるのか。全部が理解を超えて頭のまとまらない心悟だったが、一つの疑問が辛うじて浮かぶ。
「……何で」
「ん?」
「何で、戻ってこようと思ったの?」
「だ・か・ら、美味しいココアを作れるようになるため」
璃奈は当然のように「だから」を強調するが、心悟の中ではさっぱりリンクしない。ただ、心悟の疑問を察しているのかいないのか、璃奈は語ることをやめずにじっくりと話のパズルのピースをつなぎあわせていく。
「私ね、一回だけここにお客さんで来たことがあるんだよ。それも両親が死んでおじさんの家に行く直前にね」
そこまで言うと、璃奈はおもむろにカウンターの席に座り、「確かここだったかな」と一人ごちる。そこはちょうど今心悟が立っている目の前、奥から2番目の席だ。
「おじさんに連れられてここに来て、ココアを飲ませてもらったの。それがさ、すっっごい!! 美味しかった! それまでわんわん泣いてたのも忘れるくらい! その時から今まで、現在進行形で私の知ってる中で究極に美味しいココアだった!」
「ここで、飲んだのが……?」
ここでようやく、心悟にも少し理解ができてきた。幼い頃に飲んだココアの味に感動して、それを忘れられないで、自分でも作れるようになるためにわざわざ戻ってきたというのか。
とんだ夢だな。そう思いながらも、またそこで心悟は一つ引っかかる。これまで璃奈にココアを作ってあげたのは、全て心悟だ。確かにその時熱心にメモを取っていた気がするが、作る役は果たして自分でよかったのだろうか。
「だったら、俺が作んないで親父に作ってもらえばよかったんじゃ」
率直に疑問をぶつけてみたが、璃奈はふるふると首を振って否定した。
「それじゃあ駄目だよ。だってそのココア作ってくれたの、心悟くんなんだもん」
「えっ、俺!?」
またしても意外な事実に驚いてしまった心悟に、璃奈は「やっぱり覚えてないか」と笑う。
「私が泣いてたから、お手伝いしてた心悟くんが店長さんに言われて作って、『どうぞ』って出してくれたんだよ。私もその時はビックリしたなー。だって自分と同じぐらいの子がこんなの作れるんだって思ったんだもの」
璃奈の方は昨日の出来事のように饒舌に語ってくれるが、もう一方の当事者であるはずの心悟には、いくら記憶をさらっても思い出せるものはない。向こうにとっては一つの重大な記憶でも、こちらとしては客の一人としてしか認識していなかったのだろう。
それにしても、確かに幼い頃から父親のマネで厨房に立ったりはしていたが、子どもの作るものを客に出すほど緩かったのかうちの店。そんな別の疑問も浮かんではくるものの、当座の問題を前に心悟はその思いを一旦脇に追いやった。
この店で璃奈に出したココアが最高に美味しかった。それを作ったのは自分。ここまではわかった。じゃあ、それならばだ……。
「あ、じゃあ俺のココア飲んで変な顔してたのは?」
自分の作ったココアに、いつも最初だけ見せた微妙な表情。それを気にして今日まで色々と工夫をしてきたが、それが解消されることはなかった。
その質問に、璃奈は表情に出していたことを申し訳なさそうにしつつ、困惑を浮かべた表情で心悟に相談するような姿勢になる。
「それが問題なんだよ。何だかさ、私の記憶の味と微妙に違うんだよね。すっごく美味しいのは本当! でも……全く同じかなってなるとちょっと悩んじゃうの。それに何回かメモ通り自分で作ってみたんだけど心悟くんの味にもならないし」
「そういう、ことか……」
ようやくにして、全部納得がいった。子どもの頃作ったものと、今作ったものとでは同じ作り方でも差は出てくるだろう。子どもの頃の方が美味しいと言われたのは複雑ではあるが、当人がそう言うのなら、仕方のないことではある。
心悟はちらと、時計を見てみた。時間は午後5時過ぎ。敏夫が出ていってからしばらく経つが、まだ帰ってはこないだろう。ならば、実験も兼ねて何か飲み物を作っても文句は言われないはずだ。
「じゃあさ、一緒にココア作ってみる?」
「うん!」
心悟の提案に璃奈が瞳を輝かせ、席から降りるとカウンターを回ってきた。そこから二人で一通りの材料を揃えた所で、心悟はうーんと唸った。
「幼稚園とかの頃だろ……。多分いっぱい材料入れれば美味しいとかいう発想だろうから、気持ち多めにパウダーと砂糖を入れてみようか」
「わかった。じゃあいつもより多めに入れておりまーす」
心悟の指示に従い、璃奈はスプーン一杯分多めに材料を牛乳の入った鍋に入れる。
「で、子どもに火は危ないからきっととろ火。かき混ぜる時は力任せかも」
「よーし」
心悟の言うまま、璃奈はとろ火にかけた鍋を泡だて器で思い切りかき回す。その間に心悟は、生クリームを冷やしながらホイップを作っていた。冷凍庫にはまだ凍ったものが残っているが、作りたてのものを乗っけることでまた違うかもしれないと思ったからだ。しばらく二人は無言のまま、右手首に全神経を集中してそれぞれのかき混ぜるべきものを相手にしていた。
出来上がった二人分のココアを、二人はいっせーのせで一口飲んでみる。
心悟の口に広がるのは、カカオのコーヒーとは違ったくすぐったい香りと、クリームと牛乳が合わさったとろとろののどごしだ。砂糖は甘すぎるぐらいだが、子どもには却って好まれるかもしれない。そんなことを思いながら、心悟は隣に座った璃奈の様子を窺った。
「やっぱり違う?」
ほっと息をつきながらも、やはり満足げではない璃奈の表情を見て心悟が尋ねた。
「すっごく美味しいんだけど……何か違ってるように感じちゃうんだよね。小さい頃の思い出だし、記憶の方がおかしいのかな」
「いや、人の作るものだからさ、どうしても味に違いが出てくるのもあると思う。分量を計ったとしても条件次第だし、味が違うってわかる人はわかるらしいよ」
「そっかぁ。じゃああのココアを作るのは、夢のまた夢なのかなぁ。これも好きだけど」
夢か……。ふと心悟は、璃奈の夢について思ってみる。
彼女も、呪われているのだろうか。幼い頃の記憶を忘れられず、今になって一人ここまでそれを求めに来るというのは、ある意味夢の呪縛に捕らわれているのかもしれない。
だが、璃奈にはそれを重荷に感じている所はない。むしろそれを糧にして、今の璃奈がある。傍目から見ていただけの心悟でも、そう思えた。
あるいは夢なんて、仰々しく語るほどの大したものでなくともいいのかもしれない。ただそれが、自分の生きる上での道標にさえなれば、それだけで。
そう思った途端、昨日自分の肩に手をかけてきた黒い塊が、案外軽いものに感じられてきた。
それはきっと、この人のおかげなんだろうな。両手でカップを持って口をつける隣の璃奈を見てくすりと心悟が笑うと、璃奈が気づいて小首を傾げた。
「いやもしさ、そのココアが作れたらその後野神さんはどうすんのかなって」
「んー……自分の将来なんてまだよくわかんなくて、大学には行くつもりだけど、きちんとは決めてない。でもね、あのココアさえあればきっと、何があっても私は乗り越えられるかな――なんて思って。だって一番辛かったことも、あれのおかげで乗り越えられたんだから」
「そっか……でも勉強大丈夫なの? 受験生が今頃バイトって」
「これでも成績いいんだよ。授業で一所懸命やってますから」
「さすが一所懸命な人は違う!」
カップを置いて胸を張る璃奈に、心悟はやんやと喝采を送る。敏夫の言う通り、自分のは一所懸命ではなかった。璃奈という人間を知り、心悟はそう確信した。
「「ごちそうさまでした」」
最後の一口を飲み干し、ハモった二人は顔を見合わせ、揃ってプッと吹き出した。
「心悟くん、ひげついてる」
「野神さんこそ」
二人はまた一緒に、鼻の舌のひげを指で拭き取る。
甘いのも、たまには悪くないかもな――口に残る優しい甘さを味わいながら、いつしか心悟はそう思えるようになっていた。
****
それから冬も終わりに近づき、璃奈の最後のバイトが終わった。
「本当にお世話になりました」
入口のドアの前で深々と頭を下げる璃奈に、敏夫が恐縮そうな態度を示す。
「とんでもない、受験もあったのに今日まで働いてもらって本当に申し訳ない。すっかり璃奈ちゃんに甘えてしまったよ」
「いいんです。私もここで働けてとても楽しかったので」
笑顔でそう言う璃奈だったが、急に何かを思い出したのか眉尻を下げて落ちた調子の声で恐る恐る尋ねてきた。
「それであの店長さん……やっぱり来年になったら、お店閉めちゃうんですか?」
来年、つまりは心悟が高校を卒業する頃、店をやめると敏夫が言っていたのを璃奈はまだ受け止めきれず、思わず尋ねたのだった。
「それは――」
「閉めさせないよ」
敏夫の声を遮って、そう言ったのは心悟だ。
「心悟……」
目を見張って息子を眺める敏夫に、心悟はフン! と鼻を鳴らして告げる。
「親父、夢を持てって言ったよな? じゃあ俺の夢を今から言う。この店を俺が続けて、色んな人から愛され続けるようにすることだ。言っとくけど『逃げ場』として考えてるんじゃないぞ。ここが俺の、夢の在り処だ。誰が何と言おうとな」
「じゃあ、お店なくならないんだ!」
璃奈の喜ぶ姿に、心悟はこれでもかというほどに胸を張ってみせた。
「なくさせませんって。ただし、俺ももっと料理の勉強がしたい。調理師の専門学校を進路希望で出したから。学費の工面とその間の店の管理よろしくな、親父」
「お前は……仕様のない息子だな」
そう言いながら、敏夫の苦笑はどこか明るく、安堵を感じさせるものだった。
「心悟くん! 私、絶対また来るね!」
「いつでもどうぞ! 今度こそ納得させられるココア作れるようにしとくから!」
そう言い残し去っていく璃奈に、心悟は精一杯の声を張り応え、ずっと手を振っていた。
その隣、胸元で小さく手を振っていた敏夫は、ちらりと見上げないと見られない自分の息子の、気のせいか精悍になったように思える顔を見る。
「心悟、お前の夢は呪わないのかい?」
前に自分が言ったことの意趣返しなのか、意地の悪いことを訊いてきた父親に苦笑し、心悟は返す。
「呪われるかなんて、それこそ一所懸命やってみなきゃわからないさ」
****
午前9時になった『Wisteria Brook』の「準備中」というプレートのかかった入口から出てきたのは、天然パーマ気味の髪をバックに整えた青年だった。
その青年――心悟は、太陽に手をかざしながら晴天に恵まれた空を見上げる。
「ん~……土曜は本日も晴天なり。お仕事日和だな!」
すると店の奥から、心悟を呼ぶ声がした。
「心悟、開店準備完了だよ」
声の主は数年前より白髪が増えたが、それでもまだ老けこんでいるといった様子は見せない。
「了解親父。んじゃそろそろ開けますか」
父親の敏夫に声をかけると、心悟はプレートをくるりと「営業中」に回し、また店の中に入っていく。
心悟が専門学校を卒業してから、敏夫は同じカウンターに立ちながらも脇へ退き、実質的な店長は心悟になっていた。
元々常連客の多かった所へ、心悟が戻ってきてから地元誌へ何度か取りあげられたことがきっかけになって新規の常連も増えつつある。元の常連も、変わらず通ってくれている。
今の所は、順調な新人店長の船出だ。
「さあて、一所懸命お仕事お仕事!」
気合を込めて叫んだ途端、いきなりカランカランとカウベルが来客を告げて心悟は一瞬ドキッとする。
「っとお! いらっしゃいませ」
「いらっしゃい――おや」
入口を見れる所にいた敏夫が、何かに気づいて声を途中で止めた。
入ってきた女性の客は、勝手を知ったようにすぐさま店内に入り、奥から2番目のカウンター席に座る。
そこでようやく心悟も気づく。それが、何年か振りに来てくれた昔馴染みであることに。
その女性客は、メニューも見ずに真正面に立つ心悟へ向けて、一言。
「いつもの、お願いできますか?」
「――かしこまりました」
心悟はそんな注文にわざと恭しい礼で返し、くるりと踵を返して緩む口元を悟られないようにする。
(さて、今回は満足してくれるかな――)
誰にも聞こえないようつぶやきながら、迷わず心悟は戸棚から、ココアパウダーの入った缶を取り出していた。
―了―