黒猫は乙女の顔をする
~黒猫~
冷たい風が耳を打つ。僕はコートの襟を立て顔を深く埋めた。
今年のロンドンはやけに寒い。もう5月だというのに日中の気温が上がらない。重苦しい曇天を見ていると雪でも振ってきそうな気配すらある。
僕はテムズ川沿いにウェストミンスター宮殿を目指していた。宮殿に別段の用事があったわけではない。
ロンドンに来るのは実に二百年ぶりだった。僕が以前見た宮殿などは今となってはほとんど残っていないのだ。宮殿だけではない。ロンドンの街並みも随分と変わってしまった。変化する社会には慣れていたが、若かりし頃に見た風景がなくなっているというのはやはり一抹の寂しさを感じる。今こうして宮殿を目指しているのも、少しでも自分の思い出が輝く場所を求めてのことかもしれない。
チラリと右手方向を見るとビッグ・ベンが大きく見えていた。ずっと顔を伏せていて近づいていたのに気がつかなかった。
僕は一旦立ち止まり思案する。それからこそこそと近くの建物の影に隠れた。ばれないように変身を解除してから再び通行人に合流する。
街行く人は気付いていない様子だ。まあ意識を遮断していたから当然なのだけれど。
僕は首元のスカーフを左右に揺らしながら歩く。やはりこの姿の方がいい。黒い毛並みは寒さをしのいでくれるし、この姿なら魔力の消費もない。気を抜くと人々に撫でられまくるのが欠点だけれど、そのくらいは我慢しよう。昔もこうして石畳に肉球を押しつけていたものだ。
そんなわけで僕は黒猫だ。普段はアメリカでウロウロしている。サンディエゴの海浜公園辺りで日向ぼっこしている赤スカーフをつけた黒猫がいたら多分僕なので丁重に扱ってほしい。好物のチーズバーガーを置いて行ってくれるなら喉を撫でさせてあげよう。
僕は塀に飛び乗り、時計台を見つめる。現時刻は十六時九分。
僕はくああと一つあくびをする。何だかんだ半日歩きまわった。やはり行き当たりばったりの捜索はよくないなと反省する。無駄に疲れただけだった。彼は一体どこに行ったのだろうか。
「クローイ?」
僕を呼ぶ声がする。振り返ってみると見知った顔があった。
「やっぱりクローイね! 会いたかったわ! 探していたのよ」
僕はネコなりのしかめっ面で挨拶する。
「やあご主人。僕はそんなに会いたくなかったよ」
ご主人は美しい金髪をかき上げながら話す。
「そんなしかめっ面しないの。可愛い顔が台無しよ。」
「ご主人がはしゃいでいるときはロクなことがないんだ。どうせ面倒な頼みごとだろ?」
街行く人々は僕たちに見向きもしない。目を凝らして見ると、ご主人が〝防覚膜〟を展開しているようだ。動作なしでここまでの簡易結界を作れるのは僕だけだと思っていたので少しショックだ。
ご主人は俯いてハアと一息ついてから顔を上げる。うるんだ瞳を見せながら眉根を寄せていた。辺りに甘い香りが立ち込める。
「クローイ、実は折入って頼みがあるの」
「言っておくけど僕に〝魅惑の魔術〟は効かないよ。今更そんな古臭い手にかかるほど僕は馬鹿じゃない」
ご主人はしかめっ面で舌打ちした後、すぐさま笑顔になる。
「最近欧米文化に飽き飽きしているでしょ?」
「いや別に――」
「ええ!? 『そろそろ日本で大きな仕事がやってみたいと思っていた』ですって? そんなあなたに朗報があります」
「ねえご主人――」
「向こうで仕事を引き受けてくれないかしら? ルガールと一緒に」
「ちょっと話を――ルガール?」
思わず耳がぴんと立つ。その様子を見てご主人がにやりと笑う。昔馴染みのいやらしい顔だ。
「ルガールに会いたかったんでしょう? でも残念。彼は日本よ」
僕は平静を装ってフンと鼻を鳴らす。
「別に会いたかったわけじゃないさ。ただちょっと『頼むから九死に一生な目に遭ってくれ』と願っているだけで」
「願うだけじゃ叶わないわ、クローイ。自分で行動に移さなきゃ」
ご主人が僕を目の高さまで抱き上げる。
「仕事内容について〝覚えて〟ちょうだい。話はそれからよ」
僕はご主人の目を見て少し考える。どうやらトラップなどは仕込んでいないようだ。
「いいよ。とりあえず〝覚える〟だけなら」
僕は目を瞑った。呼吸を浅くする。視覚、嗅覚、触覚、舌覚。聴覚以外の普段使っている感覚を遠のかせる。
そのまま耳の瞼をこじ開けた。
自分の体が宙に浮いたように感じる。同時に色鮮やかな世界が広がる。
ご主人の頭の中は久しぶりに覗いたが、相変わらず溢れんばかりの感情を持っている。生き生きとしていて実にすがすがしい。記憶は幾分かぼやけているのが普通なのだが、ここまでくっきり触れられるのはご主人の心の豊かさゆえだろう。
ご主人は毎日こんな風に物事に触れ、感じているのだな。うらやましいとも思うが、如何せん眩しすぎる。たまに触れるのはいいが毎日これは僕にはきつい。
ご主人の感受性の高さを堪能している間にも高速で思考が流れていく。ふむふむ、なるほど。これは大仕事になるかもしれない。ほう、なかなかの報酬だ。やれやれ、最近は教会も後手に回ってばかりだね。しかしルガールは相変わらず言うこと聞かない奴だな。
景色がにじんでいく。だんだんと引き戻される感覚が襲ってくる。何度経験してもこの瞬間の心地には慣れない。お酒を飲み過ぎた状態で満員電車に乗ってしまった感覚に似ている。何となく分かるだろ?
潮時か。〝サトリ〟を終える間際、僕はちらりとご主人の隠しごとを探ってみる。しかし遠くに見えたのは光る魔法陣だった。おそらく探索拒絶の魔術だろう。さすがに対策くらいするか。ちぇ、弱みが握れれば面白かったのに。
世界が一瞬真っ白に光ってから、現実に引き戻された。目を開き、大きく息を吐く。車の走る音、川の臭い、風になびくご主人の金髪。ふむ、どこにも支障はないようだ。
ご主人の顔を見ると、下唇をぬっと突き出している。
「私の秘密を探ろうとしたでしょ?」
「何のことかな」
すっとぼけてみる。
「あなたも隙あらば人を出し抜こうとするようになったわね。全く誰に似たのやら。」
アンタだよ、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「それで? 引き受けてくれる気になった?」
僕はまた考え込む。仕事内容にはあまり魅力を感じない。要は教会の尻拭いをしろということだ。教会の失墜だの新世紀派の台頭だのの派閥闘争には僕は興味がない。教会が失墜するのは僕にとっても痛手だが、今の教会の腐敗っぷりを見るとそれも致し方なしかとも思う。
それに仕事自体もなかなか大変そうに聞こえる。教会側が予言を改変しようとするのを、新世紀派閥が黙って指をくわえて見ているわけがない。「闇打ちには闇打ちを」と刺客を送り込んでくるだろう。あまり闘いたくはない相手だ。
そんなマイナス要素を抱えながら、仕事を断るのを躊躇している理由は一つ。
「ルガールと会いたいんでしょ?」
ご主人が代弁する。
モゴモゴと口の中で声を転がす僕にご主人が続ける。
「仕事に乗ってくれるのならルガールの位置を教えるわ。言っておくけどこれを逃すとまた彼は行方を眩ますわよ」
そうなのだ。ルガールときたら意地でも僕に会いたくないのか、遠方の仕事ばかり引き受けている。必死に探して場所を突き止めても、もうとんずら決め込んだ後でした、ということを何度も経験した。「北欧以外住み家と認めない」とまで発言したルガールが、メキシコでUFO飛来量調査なんてチビインプでもできる仕事を三ヶ月もするなんて絶対におかしい。
「さあ、どうする?」
ご主人が尋ねてくる。
ベビーカーに乗った赤ん坊がこちらをポカンと見つめている。「言語を発しない時期のニンゲンは皆一様にコチラ側の存在を認知できる」とフランスの権威ある教授が論文を発表していた。見つけられたところで言い振らせないから特に問題はない。ただこうして見つめられると急かされているようで落ち着かない。
「さあさあさあ?」
ご主人が急かしてくる。正直うっとうしい。
僕は一度振り返り、美しきビッグ・ベンを見つめる。時計小屋の下で左右に揺れる振り子を想像する。
頭の中で振り子を八往復させたところでご主人に向き直る。期待に満ちたご主人の表情を見ながら、口を開く。