少年は怪談を耳にする
~美月~
赤土美月が自分の学校に伝わる七不思議について初めて耳にしたのは小学6年生に進級して間もないころだった。昨晩まで降り続いた雨によって校舎を取り囲む桜はほとんど散ってしまった。その泥に染められた桜の花びらを踏みながら下校しているときに、通学路のマンションに住む俊介から聞いたのだった。
「僕たちの学校に七不思議なんてあったの?」
「俺も聞いたのこの前だからな~。最近できたんじゃあねえの?」
美月の問いに俊介はさして迷いもせず答える。俊介は、俺はこんな餓鬼臭い噂信じないけど、と念を押したうえで続ける。
「何か女子どもが騒いでんだよ。永井とか上村とか林辺りがさ~。あいつら前にもこっくりさんがどうとかで問題になってたろ? 全然懲りてないんだよ。馬鹿だよなあ、そんなのに振り回されるなんて」
「林さんは止めさせようとする側じゃない? こっくりさんのときもそうだったし」
美月は林という少女に少なからず好意を抱いていたので、それとなく反論しておく。俊介は短く刈りあげられた後ろ髪に触りながら答える。
「そうだったか? どっちにしろうるさい連中には変わりねーだろ」
「でもほら、林さんは学級委員だったりするから」
「何だよ、やけに庇うな。ひょっとして林のこと好きなのか?」
「そ、そんなわけないだろ?」
図星だったがからかわれるのが嫌だったので反論しておく。
「そういやお前も一緒に学級委員やってたもんな。一時期噂が立ってたときもまんざらでもなかったのかあ?」
俊介は覗き込むようにして美月に顔を近づける。サッカークラブで体を動かしているせいか、俊介は小学生にしては高身長だった。いつまでたっても前のほうで前ならえをしている美月とは大違いだ。
そりゃあ悪かったな、あんとき庇っちまって、と続ける。このままでは噂が明日中に広まってしまうので、美月は話を戻す。
「林さんのことはもういいだろ? それより何なのさ、七不思議ってのは」
照れなくていいって、と笑いながらも俊介は答える。
「俺も又聞きしたからなー。確か、透明の猫だろ。それから、怪人X、桜の下の死体に、騒ぐ理科室に、喋るチワワ。それから~、裏門の御札。だな!」
興味がないと言いながらも俊介はよく暗記している。美月は頭の中でそれぞれの怪談について想像する。意外と独自性の強いものが多い気がする。騒ぐ理科室はともかく、喋るチワワに裏門の御札に、ええと、他になにがあったっけ?
ぼうと考えながら歩いていると、美月の頭に一つの疑問が浮かび上がった。
「あれ? 騒ぐ理科室と裏門の御札、喋るチワワに桜の下の死体に……あと何だっけ?」
「怪人Xと~、ちょっと待てよ……そうだ、透明の猫!」
「六つじゃん」
「……へ?」
「六つしかないよ」
二人はどちらともなく立ち止まる。しばらく顔を見合わせ、同時に首を捻る。
「あれ、おっかし~な~。何か忘れてんのか? 待てよ、光る運動場だろ?」
俊介が両手の指を折りながら確認していく。美月はランドセルを背負い直してから歩き始める。
もうこういう噂は勘弁してほしいんだけどな、と美月は思う。
去年にもこういうあらぬ噂から問題が起こっていた。こっくりさんが生徒の間で流行り、多くの者が占いを始めたのだ。その占いはまやかしのものでしかなく、最初は恋話などのタネになる程度だったが、だんだんと行為がエスカレートしていき、いじめに発展する存在となってしまった。
当然学校側は全校集会を開き、そのような根拠のない占いがいかに愚かしいことか説明し、今後のこっくりさん等のまじない遊びを禁じた。学級内でも緊急ホームルームの時間がとられ、担任の先生が怒鳴り、あるいは諭し、仕舞いには泣き落としという多種多様な方法で生徒へ自律ある生活を求めた。
その時に割を食ったのが学級委員で、あなたたちがもっとしっかりしていればなどと無理難題を要求されたのだ。当時学級委員であった美月も随分と理不尽に責められていた。
「あ~思い出せね~。ウゼ~」
俊介が両手をこめかみに当てながら呻く。美月は横に並びながら俊介を制する。
「もういいよ俊くん。そんな下らないこと」
下らないこと、という単語に俊介がピクリと反応する。それから大げさに伸びをする。
「あ~、そうだったそうだった。こんな下らないことでむきになったってしょうがねーもんな。うん」
別に俺はこんな幼稚な噂話、興味ねーし。俊介はぶつくさと続ける。
美月はふと視線を感じ、ちらと後ろを振り返る。
今しがた曲ってきた十字路の真ん中に黒猫がいた。じっと美月を見つめてくる。美月は思わず足を止める。俊介は気が付いていないようで、何か話しながら先に歩いていった。
昔から美月は動物が好きだった。母方の祖母の家で飼われていた柴犬を家まで持ち帰ると駄々をこねたこともあった。猫も例外ではなく、その黒猫を見つけた時も自然と近寄っていた。
黒猫は美月が近づいても動かなかった。非常に毛並みがよく、首に赤いスカーフが付けられていた。逃げることも近づくこともせず、ただ美月の瞳をじっと見つめていた。
美月はその場にしゃがみ込んだ後、その猫に手を伸ばすことができなかった。その金色の目から視線を外せずにいた。ビー玉のような目にまっすぐ走る瞳孔は裂け目のようだった。
美月はその瞳孔の底にあるものを覗き込んでしまう。裂け目を見下ろすと、金色の原っぱが遠のいていく。音も、感覚も遠のいていく。辺りが黒に塗りつぶされていっても美月はちっとも怖くなかった。この場所にいつか来たことがあるような、そんな感覚すら――
「――ミッキーってば!」
美月は肩を掴まれて我に返る。
急に現実に戻された。驚いて尻もちをついてしまう。見上げると、肩をつかんだ俊介が訝しげな顔でこちらを覗き込んでいた。
「大丈夫かよ? 今結構ヤバい顔してたぜ?」
そういって俊介は半目で口元をだらしなくほころばせる。
「え、いきなり何その顔は?」
「アホう、お前の顔真似をしたんだよ。そんな顔で反応もなかったら心配もするだろ?」
そんな情けない顔をしていたのかと美月は少し恥ずかしくなる。
「大丈夫。ちょっと寝不足だっただけ」
美月はそう言いながら立ち上がる。そして辺りをきょろきょろと見渡した後、口を開きかけた俊介に尋ねる。
「あれ、さっきの黒猫は?」
「……はあ?」
「ここにいた猫だよ。首にスカーフ掛けてたから飼い猫だと思うんだけど」
毛並みも随分ときれいだったし、と続ける。まあいいかと美月は再び歩き始める。やけに喉が渇いた。帰ってすぐに麦茶を飲もうと考えていた。
美月は数歩歩いてから俊介が歩いてこないのに気付き、後ろを振り返る。俊介はますます眉根に皺を寄せてこちらを見ていた。
美月は首をかしげて、それから少し笑った。
「もう大丈夫だって俊くん。ほら、元気元気!」
美月はそう言って両腕を曲げて力瘤を見せるように上下に動かす。
「……猫なんか見てない」
「へ?」
美月は腕を直角に曲げたまま固まる。
「猫なんてどこにもいなかったぜ? お前何の話をしてるんだよ?」
美月は数回瞬きをしてから、腕をゆっくりと下ろす。俊介の足元を見つめる。確かにそこに黒猫がいたはずだ。ぼうっとしている間に逃げてしまったのだろうか。 いつからいなくなったのだろう。俊介が振り向いたときにはいなかったのだろうか?
もしくは。
最初からそんな猫いなかったのでは――
「お前、今日は夜更かしするなよ」
俊介が横に並びながら美月の肩をポンと叩いた。