亡霊は決意する
~桜の守り人~
ばさばさばさ。私の耳元で大きな羽音がしました。
私はびっくりして、五メートルほど飛び上がってしまいました。比喩などではありません。本当に、目の前の高い鉄棒よりを軽々と飛び越えてしまいました。
さらに私の寝惚けがたたってそのままそよ風に乗ってはるか上空まで飛ばされてしまいました。気付いた時には私の寝ていた桜の木がブロッコリーほどになっているではありませんか。
これはいけないと私は急いで意識を集中させます。地に足を、地に足を、地に足を……
くわん。
足が砂場に着いた感じがします。足がないので本当に感じだけですが。ほうと息をつきます。今日も戻って来られました。
砂場では児童が数人遊んでいます。二人の子供が砂をうず高く積んでいます。バケツに入れた水は砂を固めるためのものでしょう。帽子をかぶった男の子がスコップを持ってもういいか、もういいかと砂の山を作っている女の子に尋ねますが、女の子はまだ駄目よと砂を山の上にサラサラと落としていきます。
微笑ましい光景です。もう少ししたらこの子たちも一緒に遊ぶことはなくなってしまうのでしょう。みんなランドセルが窮屈になるころに、男の子と女の子は離れていってしまうのです。
それでも結婚して、子どもを産んで、またその子どもたちが砂場で山を作ることになるのです。ああ、移ろう時代に変わらぬ心の何と愛おしいことか。
カアー。
一句できそうだったのに。邪魔をするとは何事かしら。
鉄棒に乗ったカラスさんが声を張り上げています。そうでした、このカラスさんに起こされたのでした。
突然声を荒げたカラスさんに子どもたちがびっくりしています。ここでは怪しまれると思い、私はカラスさんに校舎の屋上へ行こうと提案します。
カラスさんはカアと一声、ばっさばっさと飛び立ちます。
私は砂場に一礼してからカラスさんに続きます。
ふわりと飛んでから振り返ると先ほどの少年がこちらを見上げています。
〝見える〟子かしら。などと驚きましたが、そんなことはないでしょう。私を通り越してカラスさんを見ていたのでしょう。皆の注目を集められるカラスさんがうらやましいです。
私たちは校舎の屋上に降り立ちます。この湯ノ石小学校は夕立市の東側に位置しています。少し自転車をこげば、商店街や湯ノ石温泉に立ち寄れます。
私も日本各地を巡ってきましたが、居心地の良さで言えば、ここは上位に入るでしょう。温暖な気候、適度な発展、何より依り代の桜が生きるこの校庭。元気な子供たちを見ていると自然とこちらも楽しい気分になります。
私は校舎の屋上の貯水槽に座って街並みを見渡します。
真正面に見える建物は国立の大学でしょう。間には亀道川が流れているはずです。
右手に視線を移せば湯ノ石中学校がすぐ近くに見えます。その奥の大きな建物群は商店街でしょう。駅ビルの上の観覧車がゆっくりと回っています。
何より目立つのがそのさらに奥、子山の上に建つ城郭。夕立城と呼ばれるこの城は江戸時代に建てられました。火災の影響もありいくつかの建造物は戦後再建されたものですが、天守閣は江戸後期から残る歴史あるものです。ふもとの城山公園の桜と重ねて見る姿は惚れ惚れする美しさがあります。
右斜め後ろに見える森林は湯ノ石公園。その奥に湯ノ石温泉とそれを囲む街並みがあります。
左手は住宅街を挟んで山が構えています。川を遡っていけば亀道川ダムに行きつきます。私はダムなるものは無粋で好みではありませんが。
逆に川沿いに下っていけばこれまた無粋な浜風を阻む工業地帯に行きまして……
カアー。
また一声鳴かれてしまいました。空を飛んだ後は気分が高揚していけません。
「ごめんなさい、カラスさん。綺麗な景色についつい思いを馳せてしまって」
カラスさんは嘴をくいと上げます。なにやら自慢げです。こんな景色なら自分はいつも見ている、といったところでしょうか。
空を駆け抜けるというのはさぞ気持ちの良いことでしょう。私はふわふわとしか飛べないので一度経験してみたい気持ちもありますが、そんな速度で飛ぶとあまりの目まぐるしい光景に頭の処理が追いつかない気がします。
コンコンとカラスさんが地面を嘴で叩きます。本題に入るようです。私も姿勢を正します。
カアー。ばっさばさ。かあくあーっかー。ばさ。コンコン。ばさばさばっさ。くぁーーーー。カアカアー。
カラスさんが身振り手振りを交えて何か伝えようとしています。陽気に阿呆に踊っているように見えますがその目は真剣です。私もその真意を見極めなければ。
カアー、カアー。カアカー?
一通り鳴き踊ったところで首をかしげます。伝わったかどうかの確認をしているようです。
私は小さく微笑みます。
どうしましょう。全く何を言っているのか分かりませんでした。
そもそも私に動物の言葉が分かるという能力はありません。ニンゲンの頃よりは動物の考えていることは分かっているつもりですが、それは長年生きて――失礼、長年死んで身に付けた勘によるものです。感情ならなんとなく分かりますが、会話するとなるとそれなりに苦労します。動物の側は私の言葉が分かっているようなのですが。
それにカラスさんの動きがどうにも滑稽で話が頭に入って来なかったというのもあります。こういう玩具があれば売れるだろうなどと考えてしまいます。
四回ほど繰り返してもらって――そのうち一回は思わず手拍子してしまって怒られてしまいました――ようやく理解しました。
どうやらこの地域、特にこの学校の様子がおかしいとのこと。海の向こうの強いもののけの方々がうろついていて、町の結界にひびが入ってしまっているらしいです。その隙をついて妖怪たちも街に出てきてしまっているらしいです。
最近夕立市の〝影縫〟(ニンゲン社会の警察のようなものです)たちが忙しなく動いているのはそのせいだったのでしょうか。この校庭にずかずかと上がり込んでなにやら調べていた天狗のことが思い出されます。
そういえばこの学校の生徒で一人、妖気の強い少年がいました。小さな体では背負いきれぬほどの禍々しい妖気。彼が関係しているのでしょうか。
だとするならば。私は風になびく髪を押さえながら立ち上がります。
だとするならば木陰で眠りこけている場合ではありません。私も死んで久しいです。亡霊の身になってから様々な時代を見てきました。その中で一つの真理を得ることができました。
いかなる理由があろうと子どもたちの平穏が乱されることがあってはならぬということです。
私は校庭の端に植えてある葉桜を見ます。私もあの桜の下で数え切れないほどの生徒を見送ってきました。私は生徒たちから随分元気をもらったものですが、私の方からしてあげられたことといえば入学式に桜を満開にしてあげることくらいでした。
今こそこの学校に恩返しを致しましょう。戦いは好みませんが、苦手ではありません。
私はカラスさんを見送ってから夕立城へと向かいます。戦闘がありうるのであればそれなりの装備を揃えなければ。
この久雅夜叉美墨の名にかけて、子どもたちをお守り致します。