犬っころは憤慨する
愛犬ジュンジュンを連れて湯ノ道公園を散歩することが、大田光代の早朝の日課となっている。公園の東口から入り、公園の真ん中に位置する池を脇に見つつぐるりと一周する。先週に降り続いた雨のせいで桜は散ってしまっていたが、新緑の木漏れ日が心地よい。何より連日の花見客の喧騒も洗い流されていることに光代は満足する。
この時間帯は光代のよく見知った顔にしか出会わない。朝のジョギングをする老夫婦と柴犬を連れ歩く中年の男、それにトイレ裏にこっそり猫缶を置いていく腰の曲がった老婆。老婆は人目を避けるようにそそくさと公園から出て行ってしまうので、まだ声も聞いたことはないが、老夫婦や中年男とは毎朝挨拶を交わす。
だからこそ湖脇の公園のベンチに若い女性が座っていた時、光代は歩みを緩めマジマジと見つめてしまった。
金色のウエーブのかかった長髪、白い肌。黒のチノパンを履いており、灰色のロングコートを羽織っている。マスクを口につけており、口元は見えないが携帯電話で話しているのだろうか、微かに話し声が聞こえ、それに呼応してマスクが動いている。ベンチの足元に灰色のペットキャリ―が置いてある。肝心の犬の姿は光代の目からは分からなかった。電話で話しているところを話しかけることもあるまいと、美千代はそのままベンチの前を通り過ぎようとする。
「おはようございます」
驚いたことにその外人女性の方から話しかけてきた。光代も慌てて挨拶を返す。ジュンジュンがワン、とその外人女性の左側に向かって吠える。先ほど光代の位置からは見えなかったが、チワワのような灰色の小型犬が女性の横にチョコンと、いわゆる「お座り」の状態で座っていた。
「可愛らしい子ですね。ラブラドールですか?」
その女性はジュンジュンの前に腰をおろしながら光代に話しかける。人懐っこいジュンジュンは尻尾を振りながらそれに応える。
「ええそうよ。そちらの犬も、その……可愛らしく」
光代が言い淀んでしまったのは、お世辞にもその犬が可愛いとは言い難かったからだ。小型犬ながら大きく尖った耳や首筋のふさふさの白い毛は立派なものだったが、目つきは悪く、申し訳程度の四足も酷くみすぼらしい。何より光代はこのエセチワワの発する生意気な雰囲気が気に入らなかった。小型犬らしい舌を出すような仕草を一切せず、こちらを品定めするように一瞥した後、興味は尽きたといわんばかりに耳の裏を掻き始めた。
「お~よしよし。お前はジュンジュンというのね」
女性は首輪に書かれているネームを確認しながら、ジュンジュンの首の裏を掻いている。
光代はむしろこの女性の可憐さに目を奪われていた。年は光代より30程下であろうか。先ほどは気付かなかったが、水色の瞳をしている。ジュンジュンを撫でる仕草一つ一つが繊細でありながら、女性からはパワフルな元気さを感じた。彼女の周りにキラキラと靄が包んでいるような錯覚に陥る。
光代は咳ばらいをし、女性に話しかける。
「失礼ですけど、この辺に住んでいる方だったかしら?」
「つい先日こちらに引っ越してきたんです。以前はイギリスにおりまして」
「あら、通りで見たことないと思ったわ。へ~イギリスから」
女性は立ち上がる。光代より10センチほど大きい。光代が平均身長より少し低い程度なので、女性にしては大柄なほうだろう。
女性は小さくお辞儀しながら名乗る。
「カレン・デイビットソンです。東町の方に越してきました。この子は相棒のルガール」
「あらあらこれはご丁寧に。大田光代です。日本語がお上手ね~。私よりうまいんじゃないの」
カレンは苦笑しながら答える。
「親戚に日本人がおりまして。幼いころから日本語は聞いていたんですよ。散歩中にいきなり話しかけてすみません。その子があんまり可愛いものだから」
「あら、あなたにもこの子の可愛さが分かる?」
光代は眼鏡を光らせる。愛犬の自慢となれば普段の10倍しゃべる光代だ。普段からおしゃべり好きなのにこれ以上まくしたてられるのは勘弁と知人からは犬の話題を振られなくなっていたのを光代は残念に思っていたところだ。これはチャンスと言わんばかりに光代は話し始める。
「この子と出会ったのは3年前の梅雨の時期でね、一番上の娘が地方の国公立大学に行ってね。家が少し広くなっちゃって、なんか寂しいな~なんて考えてるときに商店街の――分かる? 商店街。北口の方の。そうそう大街道――そこのペットショップが閉店セールやってたのね。普段の半額なんて猫ちゃんもいて。雑貨屋なんかだったら分かるけど、ペットたちが値引かれてるのって何か嫌じゃない? 命ってそんなものなのかしらとかちょっと憤慨しながら何気なくショーケースを見たの。そしたらこの子がいたのよ! まだ小さかったけど今に勝らぬ愛くるしさでね、上目づかいで見てくるのよ。私一目ぼれしちゃって! それからこの子を飼い始めたんだけどまあ~最初はたいへんだったわ。分かるでしょ、あなたも犬を飼ってる身ですものね。夜中に鳴いたりカーペットを汚したり……でも私は愛情を持って躾てね、今じゃ本っっっっ当にお利口さんになって。私が抱きしめるとキャンキャン吠えて喜んでくれるのよ~。そうそう聞いて、この間なんか――「おいおばさんその辺にしておけよ」
光代は思わず口を閉じる。この場に似つかわしくない青年の声がしたからだ。光代は周りを見渡すもそれらしい姿はない。池に鴨の親子が泳ぎ、ジュンジュンは、ベンチの方をじっと見ている。カレンの飼い犬のルガールは相変わらずふてぶてしい顔でこちらを見つめている。
「今誰か男性の声がしませんでした?」
「え、気のせいじゃないですか、この場には私たちしかいないですし」
そう言いながらもカレンは妙にそわそわしている。視線を泳がせながら子犬の座るベンチの方へにじり寄って行く。
それに気付かない光代は辺りを見渡しながら眉根を寄せる。
「変ねぇ。確かに誰かが――「俺だよ俺。年食い過ぎて耳が遠くなっちまったのか?」
光代は驚愕する。明らかにルガールが、ベンチの上の子犬が喋ったのだ。ポカンと口をあけてまじまじと見つめていると、ルガールはため息をついて喋り始めた。
「おいおいそんなアホ面すんなよ、死んだ時と区別がつかなくなるだろうが。だいたいあんたさっきその犬に上目遣いされたの~とか言ってたけどな、その犬が本当に見つめていたのはその横を通り過ぎていった巨乳のねえちゃんだよ。あんたみたいなおばさんに媚なんざ売るわけねぇだろ。あと抱きしめると吠えて喜ぶなんてのも、あんたの加齢臭とどぎつい香水に死にかけていただけだ。その犬も随分参ってるぜ。それとこれは俺の個人的なアドバイスなんだが、その悪魔じみた目もとの化粧はやm「オラァ! 「ぐえっ!」
カレンがちゃぶ台返しの要領でルガールの座るベンチごとひっくり返した。ベンチを固定していたコンクリートが地中から引きずりだされ、ずうんと振動が2人の足元に伝わってくる。先ほどまでの繊細な指の動きとは対照的なカレンの行為に、光代は空いた口が塞がらない。ルガールは2~3m程吹っ飛ばされ、柵にぶつかり伸びてしまっている。
しばらくの間、カレンが肩で息をする音だけが場に流れる。
「……あの、カレンさん?」
光代は混乱したままとりあえず話しかける。カレンは光代に背を向けた状態で顔までは見えない。呼吸を落ちつけ、状況を整理しようとしているように感じた。
振り向いたカレンの雰囲気は先ほどまでとは違っていた。
「……また失敗か」
カレンから先ほどまでの愛くるしい笑顔は去り、眉根に皺をよせ、下唇を突き出している。そのような顔でさえ可愛らしいと思わせるとは、やはりよほどの美人なのだな、と光代は感嘆する。
カレンはおもむろに細い右手を光代の目の先へ突き出す。
光代が最後に認識したのはカレンの右手の中指と。
「コード:hぢscしおdjこいzk」
訳のわからぬ言語であった。
「あなたは今日普段通りの散歩していただけで特に何の変哲もなく、ましてや喋る犬や絶世の美女になんて会っていない。そしてあなたはこれから家路に着くまで後ろを振り向かずに歩く」
「私は今日普段通りの散歩していただけで特に何の変哲もなく、ましてや喋る犬や絶世の美女になんて会っていない。そして私はこれから家路に着くまで後ろを振り向かずに歩く」
うつろな目をした大田光代はカレンの言葉を復唱し終えた後、すたすたと歩き始めた。ジュンジュンは怯えたように後ろを振り返りながらも、御主人に遅れぬように歩く。
カレンはジュンジュンに申し訳ないと顔の前で手を合わせた後、ううんと唸っている子犬の首根っこを引っつかみ、乱雑にペットキャリーに放り込んだ。脇に転がるベンチを一瞥し、はあと大きなため息をついた後、大田光代と反対方向を向く。歩きだすと同時に右腕をあげ、パチンッ、と指を鳴らした。
空気が震える。ベンチがゆっくりと宙に浮き、元あった場所へ動きだした。土台のコンクリートが地面の下に埋まり、抉れた土も平らになるようモゾモゾとまるで生物のように土が移動する。
数分後、ジョギングをする老夫婦が通るころには、何一つ変わらぬ公園の姿があった。
~次元の魔女~
「毎回言っているでしょうルガール。その姿のときは喋るなって」
とある路地裏。カレン・デイビットソンは腕を組みながら足元の子犬に話している。通風機や壁を這う管がこの町の窮屈さを物語っている。ハエのたかるポリバケツや目の高さに蜘蛛たちの巣があり、通路としてここを使う人はそういない。コソコソ話すには好都合の場所だが、カレン自身としてもこんなところに長居はしたくない。
「どうしてあんたは考えるより先に口が出ちゃうのかしらね?」
「キャンキャン」
「せっかくこのあたりの情報網を作り上げようとしているのに」
「クゥ~ン」
「毎回余分に魔力を使わないといけない私の身にもなってよね」
「ヘッヘッヘッヘッヘ」
「とにかくもっと犬らしく振舞ってちょうだい。分かった?」
「クゥ~ン」
「……ルガール、今だけは話してもいいわ」
「おっ、そうだったのかい? いやなにこんな汚ねえ場所に連れてこられたから、俺ァてっきり今度はみすぼらしい捨て犬の真似をしなくちゃあいけないのかと思ってよ」
「……」
「いやしかしなかなか板についてただろ? 俺のみすぼらしい子犬の演技は。何せ最近ずぅ~っと、哀れで惨めな子犬の姿のまんまだったからなあ」
カレンは右手で眉間を揉みほぐす。ルガールは明らかにご立腹だ。プルプルと震える口角を見れば一目瞭然だった。イライラしているのはカレンとて同じことだったが癇癪を起こすわけにはいかない。
今朝がた大田光代に対してカレンが話したことに嘘偽りはない。彼女たちは仕事で日本へはるばるやってきた。ただその仕事内容が人間目線からは特殊なだけであって、仕事を遅滞なく遂行しなければならないということはどんな世界であれ同じことだ。
今回カレンが引き受けた任務はそれなりに面倒だ。ルガールは軽い気持ちで日本に来たのかもしれないが、教会から多大な期待を寄せられて送り出されている。色々問題を起こしてきたルガールの名誉挽回もかかっているのだ。ここで失敗するわけにはいかない。
にもかかわらず、ことごとく失敗を促してくるのが相棒であるルガールなのだ。今日だけではない。先日も同じ公園で中年の男に、子犬姿のまま「そんなに禿げ散らかしてて頭痛くなったりとかしないのか?」と言ったところだ。頭が痛いのは私のほうだと言ってやりたかった。
ここで怒りを爆発させてはだめだ、とカレンは自分に言いきかせる。ルガール自身には詳しく伝えていないが、この任務はルガールのための仕事でもあるのだ。その辺の野良犬でいいというものではない。ないはずだ。多分。
カレンは今までにないほど優しくルガールに話しかけた。
「ねえルガール、そんなに子犬でいるのが嫌?」
「嫌かだと? 子犬でいるのが嫌かだと!」
逆鱗に触れたらしい。
「糞ガキどもに追い回され、大型犬に吠えちらされ、そんな生活が嫌かだと? 嫌に決まってんだろうが! 仕事だったら我慢できるってんなら手前が犬に変身すればいい。そうすりゃ少しは俺の苦労も分かるだろうさ。電信柱に片足上げておトイレする惨めさが分かるだろうよ!」
「私はそういう意味で言ったわけじゃ――」
「この際だからハッキリさせようじゃねえか。なんで俺だけがこんな目にあってるんだ? 別にお前が犬役でもいいだろうが。まさかお前さんがやりたくないだけってんじゃねえだろうな」
「そういうわけじゃないって(実はそういうわけだけど)。っていうかその点に関しては何度も話したじゃない」
面倒くさくなったカレンは、思わず彼が嫌いな言葉を吐いてしまった。
「いいじゃない。ルガールは狼男なんだから。犬になるなんてお手の物でしょう?」
~犬っころ~
気に食わない。まったくもって気に食わない。
この目の前の女は、犬と狼を同じもんだと思っていやがる。俺がいくら懇切丁寧に犬と狼は別物だと説明しようとしても、まあ落ち着きなさいよドッグフードをあげるからと返すような女だ。ドッグフードなんざ誰が食してやるもんか。
魔術師ってやつは大概こうだ。自分たちがこの世界の秩序を守っているからと無意識に高慢ちきな奴が多い。カレンはその中でも随分とマシなほうだが、それでも他種族のことを分かろうとしない節がある。
「あのなカレン。誇り高き狼様とその辺の犬っころとでは天と地の差があってだな」
「でも私たちからすれば似たようなものよ。ただの人間を犬にするのと、ルガールみたいな狼男を犬にするのとでは術式の容易さも違うし、消費する魔力も変わってくるのよ。あなたも多少魔術をかじっているんだから分かるでしょう?」
カレンが言っていることは本当だ。俺には狼の血が流れているだけあって、犬に変化する術式の量は通常の半分以下でよいはずだ。その分魔力消費も抑えられる。
それにしたってだ。
「なんでこんなできそこないのチワワみたいにならなきゃならないんだ?」
我ながら可愛いとも、ましてやかっこいいともいえない姿だった。全長30cmほど。尖った耳や頭から背中に伸びる白い毛はまだいい。首回りのふさふさの毛もまあ許す。問題は頭部以外だ。まずどう考えても比率がおかしい。頭がでかすぎるのか、体が貧弱すぎるのか、1頭身ほどしかない。体は細く、首回りに毛をつけることに魔力を費やしたのか、体毛が薄い。極めつけは四つ足で、酷く貧相で軽いはずの体を支えるのにも苦労し、すぐにプルプル震えてくる。
「もっと狼らしさを出してもいいだろうが」
「今回あなたには潜入調査をしてもらうのよ。怖い顔していたらターゲットに近づけないわ」
「こんなにみすぼらしいと誰も近づかねえよ。もうチョイ立派にできなかったのかよ」
「そこはまあ魔力削減の弊害ってやつよね」
他人事のように言いやがる。実際他人事、犬事って感覚なんだろう。
「だったらこの首回りの毛の分の魔力を他に回せよ。なんでここだけこんなフサフサなんだ?」
「だってそのほうが可愛いじゃない」
駄目だこりゃ。俺は天を仰いだ。灰色の壁に挟まれる形で水色の空が窮屈そうに見える。ドイツの空のほうが広く、何より青かったはずだ。
なんだって俺はこんなところに来ちまったのか。半月前の自分の考えの浅はかさを恨む。
悪くない仕事だと思った。カレンから今回の話を持ちかけられたのは雪の降りしきるケルンの喫茶店だった。俺はアルゼンチンでの長期出張から帰ったばかりでしばらくは馴染みあるケルンに滞在するつもりだった。
ドイツ人の盛況を懐かしく思いつつ、のんびりコーヒーを飲んでいるときに――ちなみにこのときは青年の姿だ。犬の姿じゃないのであしからず――カレンが店に入ってきた。俺は久しぶりの仲間に喜び、隣の席に招き入れた。思えばここで無視しときゃよかったんだな。
「日本で仕事をするつもりはない?」
カレンはひとしきり談笑した後こう切り出した。仕事内容は端的に言っちまえば、ニンゲン――俺たちのことを何も知らないお気楽な種族――家庭への潜入及びその周囲で起こるであろう怪奇への索敵・処理だ。普段俺がやっていることとそう違いはない。
「ただ規模が違うのよね。」
カレンはホットコーヒーにミルクをかき混ぜながら話す。少し憂いを含んだようにカップに目を落とす仕草は並みの男なら手を差し伸べざるを得ないだろう。
「今回の事件、起こってしまうと世界第一級事変に認定されそうなの。前々からその怪奇は予言はされていたんだけど、魔術教会の本部も後回しにしていてね。ほら、予言したのがドイツのヴェルナーで――そうそう世紀末派の――それでどうせ今回もホラだろうと高をくくっていたんだけど」
「本当らしいと」
カレンは、はあ、とため息をつく。
「万象法廷で認定されちゃうと、責められるのは私たち魔術教会でしょう? 今まで何してたんいたんだって。何よりせっかくノストラダムス事変で失墜していた世紀末派やそれを支援している新世紀派が復権するのをお偉いさん方は恐れているらしくて」
「それでその怪奇が起こっちまう前に秘密裏に片付けちまおうって算段か。いかにも落ち目教会の考えそうなこったな」
それなりの皮肉を込めたつもりだったが、カレンは特に気にかけるでもなくコーヒーを口に含む。俺が教会に好印象をもっていないことを矯正するつもりはないようだ。
それにしても世界第一級事変とは驚いた。世界規模の事変なんてそうそうお目にかかれるものではない。俺は直接関わってなかったが、二〇世紀半ばに起こったデス・パンデミック事変のときは酷い有様だった。今後百年は起きないものと思っていたが。
「そんな重要な仕事をどうして俺に回してくるんだ? 自慢にもならないが俺が最後にした仕事は、引っ込み思案なチュパカブラに牧場を襲うことの意義について力説することだったんだぜ? いきなりハードル上がりすぎじゃねえか?」
「重要な仕事だからこそあなたに頼みたいのよ。有能でもPKでボールを明後日の方向に蹴っちゃうような人じゃ駄目なの。ここ一番でふてぶてしくど真ん中に転がせるような人材が欲しいのよ」
これには確かに同意だ。最近の魔法使いどもは実戦経験が少ないせいでいざという時の判断力に欠ける。何が起こるか分からない今回のような場合俺のような存在を欲しがるのも無理はない。
「教会が出す魔術師よりあなたとのほうが連携がとりやすいだろうし」
これにも同意。本部はときたまとんでもない奴を相方に添えてくる。以前ギリシャの隠し神殿でミノタウルス狩りを命じられた時、あろうことかメデューサと組ませやがった。迷宮で連携を取れとのことだったがとんでもない。俺は奴が角からひょっこり顔を出すたびに石像にされたもんだ。
「それにね、ルガール」
カレンはウェーブのかかった髪をかき上げつつこちらを向く。
「やっぱり遠い東亜の国で寂しい思いはしたくないもの。一人ぼっちはもう嫌よ」
どこか寂しそうな笑みを浮かべながらカレンは言った。寒さからか頬がほのかに赤らんでおり、水色の瞳が宝石のように輝いている。
ここまで言われたら仕方ないと俺は二つ返事で承諾した。まあカレンは信頼できる奴だし、借りもあるしな。
それにしてもあの日のカレンは綺麗だった。キラキラと輝き、まるで魔法にかけられたような――
「思い出したぞ!」
回想終了。俺が突然叫ぶもんだから、カレンは驚いて3cmほど飛び上がった。
「お前、あの時俺に〝魅惑の魔術〟を使いやがったな!」
「……ナンノコトカシラ」
「とぼけんじゃねえ! 変だと思ったんだ。潜入方法だのを承諾したことだけ覚えていても、その経緯が靄にかかったように記憶をうまくたどれない。思い出せるのはお前の顔だけ。今朝あのおばばに使っているときに気付くべきだったぜ」
「別にいいじゃない。そんな些細なこと。魔術なんて使わなくったって私は十分魅力的なんだし」
「お前が魅力的? 冗談はよしてくれ。俺はお前の腹ん中全部知ってんだぜ? お前みたいな性悪と付き合うくらいなら、雌ゴブリンと口づけ交わすほうがマシだね」
「あら、その性悪に鼻の下伸ばしていたのは誰だったかしらあ?」
カレンが憎たらしい顔で俺を見降ろしてくる。先ほどまでは穏便にことを運ぼうとしている節があったが、どうやら開き直ったらしい。余程面白いことだったのかくっくっと笑っている。
「あの顔、写真で撮っておきたかったわあ。その写真さえあれば私、どんな困難も乗り越えられそうだもの」
この流れは非常にまずい。この性悪にペースを持っていかれてしまう。俺は頭を巡らせ、違う話題をふることにした。
「まあとにかく俺が今日喋ったことについてはだ」
「私、席を少し外したときに影からそっと見てみたんだけど、あなたぽ~っとして二やついてたのよ。もうおかしくって」
「聞けよ! 今日喋ったことは俺のミスかもしれねえがな。俺にはあの公園での人間関係築きに意味を見いだせないんだよ」
「ルガールって精神系魔術に弱いわよね。セイレーンの雫事件のときも、政府重役ポルターガイスト事件のときも、ピンクの雌プードルスパイ事件のときも――」
「ピンクの雌プードルスパイ事件のことは忘れろっていつも言ってんだろうが!」
カレンはあっはっはなどと腹を抱えて声をあげて笑っている。駄目だ。完全に主導権を握られちまった。こいつがこんなに楽しそうにしているのは久しぶりに見た。慣れない土地で色々疲れもあったんだろう。
だからと言って俺をストレス発散の対象にするのは勘弁願いたい。
カレンは一しきり笑った後、目もとを少し拭いながら話す。
「ごめんなさい、何の話だったっけ?」
「だから今日のおばばといいこの前の禿のおっさんといい、仕事と何の関係もない会話に何の意味があるんだよ?」
「あら、意味なんて必要?朝のさわやかな挨拶に」
「何がさわやかな挨拶だ。お前だって今朝、早く終わってくれよこのおばさんの話とか思ってたんじゃないのかよ」
「さっさと終われよこのクソババアと思っていたわよ」
俺より酷いじゃねえか。
「でもねルガール。思っていても私は口に出したりなんかしないわ。公園での会話はこの辺ですでに異変が起きていないかちょっと調査したかっただけ」
「それこそ魔術で調べられるだろ。下らねえ『魅惑の魔術』なんかよりもっと効率がいい魔術がよ」
「あら、上等な『魅惑の魔術』をご所望?」
また少しくすくすと笑う。こうなったら付き合うだけ無駄なので、俺はカレンが話し始めるのを待つことにする。
カレンは笑みを顔から消し、真面目な口調で俺に語りかける。
「〝魔術は所詮魔の術式なり〟よ。あなたにも教えてあげたでしょう? 現代魔術教育の前時代的理念は批判されがちだけど、私はこの理念だけは真理だと思う。高等魔術が使えたとしても、私は出来る限り乱用したくはない。」
珍しく真剣なまなざしを向けてくる。俺はその水色の瞳から視線を外す。こういう顔でカレンが語ることで間違っていたことはいまのところない。
まあここはカレンにあわせてやろう。成功報酬が魅力的なのは事実だしな。
「……分かったよカレン。もうしばらくは我慢する」
「さっすがルガール! よっこの伊達犬!」
「伊達狼だ。とにかくもう帰ろうぜ。早く昼飯が食いてえ」
「昼飯って、まだそんな時間じゃ――」
ブブブブッ。カレンの尻ポケットに入れていた携帯電話が震えている。着信があったようだ。携帯を耳元に当てて、カレンですと名乗っている。
しかし誰からだ?教会からなら携帯なんてしち面倒くさいことはせずに念波を飛ばすはずだ。日本に来て1週間程度で友人でもできたのだろうか。こちらに背を向け口元に手をあててコソコソと話すものだから内容が聞こえない。
カレンは通話を終えるとこちらに素早く向き直り、慌ただしく捲し立てた。
「ごめんルガール、ちょっと急用ができたからロンドンへ飛んでくるわ。その間に街で空間が歪んでいるところを探しといてくれる?但し首を突っ込みすぎないようにね。あと昼ごはんなんだけど、洗面台の上の棚の中にドッグフードがあるからそれを食べて。まあ間違って買っちゃったから正確にはキャットフードなんだけど、似たようなもんよね!」
とんでもないことを言いやがる。喋りながらもカレンは赤い魔術式の書かれた黒い手袋を両手にはめ、即座にペットキャリーを転送し、代わりに箒を左手に呼び寄せていた。カレンが箒に跨り、目を瞑ると、カレンの同心円状に風の波が噴き出した。足が数センチ地から離れる。金色の髪が風に煽られ逆巻く。
風を顔面にもろにくらいながらも俺はカレンを呼びとめようとした。
「おい待てカレン!」
「1週間くらいで戻るから!」
「話を――」
カレンは透明化と高速化の呪文を簡易詠唱した。
次の瞬間、大きな風がうねり、俺は近くのポリバケツまで吹っ飛ばされた。急いで起き上がった時には、もうカレンが飛び去った後だった。