Mの喜劇
その日、あなたはとある図書館の司書として、いつも通りすごしていました。
その図書館は、街に一つだけある図書館です。そのため、平日でもそこそこのにぎわいを見せていました。特にいつもより利用者が多いわけでもなく、少ないわけでもない。そんな、昨日と変わらない時間がゆったりと過ぎていきます。きっと今日も平凡な一日として、記憶にとどめられるのでしょう。いえ、記憶にも残らないかもしれませんね。
「すみません」
おや、利用者がやって来たようです。その人は古ぼけた、それでも丁寧に手入れされているカウンターに一冊の本を置きました。本の表紙には『小夜啼鳥の啼く日』と書かれています。あなたはその本をよく知っていました。読んだことのある本だというのももちろんですが、人に薦めたことがあったからです。
薦めたのは確か、この図書館の常連でもある可愛らしい女の子です。可愛らしい女の子だなんていったら失礼かもしれません。あの年頃の少女は少々気難しくて、子供扱いすると怒るものです。かといって大人扱いすれば、まだ子供だからというのでしょう。
そんな、子供と大人の間で宙ぶらりんになっている少女は、ピアノと読書が好きなのです。この図書館によく足を運び、あなたにお薦めを聞くこともしばしば。たまに、ピアニストになるという夢を語ったりもしていました。
そういえば最近、その少女の姿を見かけないことをあなたは思い出します。ですが物思いにふける前に、あなたにはやらなくてはならないことがありました。今は仕事中なのですから、しっかりと対応をしなくてはなりません。
そう思ったあなたは、目の前の利用者に貸出か、返却か問いかけました。しかし利用者は首を振るばかり。そうか、延長だ。そう思いいたって確認するも、また首を振られてしまいます。
不思議に思ったあなたが問いかけると、利用者は貝のように閉ざしていた口を開きました。
「この本、少しおかしいのですが」
そういって利用者が本を開きます。開かれた場所はもう、終わりに近い場所でした。ですが、本来なら文字がきっちりと整列しているその紙の上はなぜか閑散としています。
そう、驚いたことに真白だったのです。もちろん、本のいくつかのページは真白になっていてもおかしくありません。けれども真白のページはその後何枚も続き、そのまま物語は終わってしまっているのです。
これは一体、どういうことでしょうか。少なくともあなたが読んだ時には、このような状況になってなどいませんでした。この閑散とした紙の上に、きっちりと文字が整列していたはずです。あなたの記憶が間違っていなければ。
ひとまず、あなたはその本を預かることにしました。この状態のままで貸し出すわけにはいきませんから。仕事を終えたら館長にでも相談しよう、そう決めたあなたは休憩時間に本を鞄へと仕舞いこみ、仕事に精を出しました。ここで一つ誤算があったとしたら、仕事が終わった頃にはすっかりその本のことを忘れてしまっていたことでしょう。
一日の仕事を終え、あなたは家へと帰ってきました。
明日も仕事ですから、しっかりと休養を取っておかなくてはなりません。寝る準備は万全、さて明日も頑張るぞと気合を入れたところでようやく、あなたはとある重大なことを思い出したのです。あの、文字が脱走してしまった本のことです。
館長に相談することも忘れ、挙句の果てに持ち帰って来てしまったあなた。なぜか寝る直前になって思い出してしまうとは、不思議な偶然もあるものです。いっそのこと、忘れたまま寝てしまった方がよほど良かったかもしれません。そうすれば、その本のことを気にせず快眠できたでしょうから。
しかし現実は違います。あなたはその本のことを思い出してしまい、もう眠るどころではありません。寝ようと思って横になっても、本のことが頭の中に浮かんでしまうことは容易に想像できました。
いつもの睡眠時間を諦めたあなたは、鞄の中から本を取りだします。相談する前に、異変の手掛かりを少しでも見つけておこうと思ったあなたは、『小夜啼鳥の啼く日』と書かれた表紙を眺め、内容を振り返ります。この本の内容は確か、このようなものでした。
◆ ◆ ◆
あるところに、一人の少女がいました。優しかった両親を事故で失い、少女に遺されたのは莫大な財産だけ。悲しみに暮れる少女の周りに集まってくるのは、財産目当ての人しかいません。欲にまみれた人びとに取り囲まれた少女は、必死で両親の遺してくれたものを守りました。しかしその代わりにこころは芯まで凍りつき、感情という感情すべてを失ってしまったのです。
笑うことも泣くこともないまま生きていた少女はある日、一人の少年と出会います。こころを凍りつかせた少女は最初、少年を拒絶していました。そんな少女の反応に悲しげな表情を浮かべながらも、少年は少女から離れようとはしませんでした。最初は何一つ反応しなかった少女も、少年のひたむきな行動に何かを感じたのでしょう。少しずつですが、少女は少年と話すようになりました。そうなればもう、あっという間のことです。一年も後には、少女の顔にまた、笑みが浮かぶようになっていました。
ここで物語が終われば、なんて幸せな結末だったでしょう。残念なことに、物語はそこでは終わりませんでした。少女の顔に笑みが浮かぶことが多くなればなるほど、反対に少年は悲しげな表情を浮かべることが多くなります。実は、少年は当初から少女の持っている財産が目当てだったのです。少女の信頼を得れば、もっといえば少女に愛されるようになれば、財産は自ずとその手に転がり込んでくる。少年はそれを見越して、少女に近づいたのです。
ですが、少年の計画は後一歩のところで失敗しました。それは少年が、少女を愛してしまったからです。少年は少女を愛してしまったがゆえに、苦しみました。ずっと少女を騙していたのですから。では少女にすべてを打ち明けられるかといえば、それも無理な話です。すべて知られたが最後、少女に嫌われてしまうと考えれば恐ろしくて、とても打ち明けるなど不可能でした。
結局少年が選んだのは、死でした。遺書に今までのことを書き記し、少女に別れも告げないまま少年は自殺してしまったのです。遺された少女は遺書からすべてを知り、両親が亡くなった時以来の涙を流します。そして少女は決意しました。悲しみしか生まないものを手放すことを。
少女は遺された財産をすべて寄付し、少年の墓の前で告白します。はじめから財産を手放していればよかったのかもしれないと。それでも、財産のおかげで少年に出会うことができたのだと。打算と欲望が引き合わせた縁であっても、そこには確かに愛があったことを。そしてすべてを失った少女は、涙を拭って再び歩き出すのです。幸せな明日をその手に掴み取ることを願って。
◆ ◆ ◆
一通りの話の流れを思い出したあなたは、本を開きます。すべてを読むのはさすがに時間がかかりすぎますから、最後の方のページを開きました。真白のページの手前です。あなたの記憶通りなら、ここには少女が涙を拭って歩き出す場面が書かれているはずでした。ですが、そのような場面はどこにも見当たりません。
そこに書かれていたのは、少年と少女が寄り添って歩いている場面です。あなたは目を丸くしてしまいました。どういうことだろうと遡ってみれば、二人がやって来ていたのは少女の両親の墓でした。そこで、少女は少年のことを恋人だと告げています。
記憶がこんがらがってきたあなたは、そこで一旦本を閉ざしました。目を閉じ、深呼吸を数回行います。再び本を開いて確認すると、やはり変わってはいませんでした。相変わらず、少年は生きているままです。
そこであなたは、もう少し手前を確認することにしました。開いたのはちょうど、少年が遺書を書き記しているところです。読んでみても、そこにおかしな点は見つかりません。前に読んだ通りの内容が記されています。
首を傾げながら読み進めていくと、少年が自殺する場面に移りました。少年の手には毒薬の入った小瓶が握られています。このままでは、少年は死んでしまいます。それでは最後の場面と話が食い違ってしまいますから、ここで何かしらの異変が見られることでしょう。
そう思ったあなたは恐る恐るページをめくります。……少年が小瓶の蓋に手をかけたその時、少年のいる部屋の扉が開きます。驚いた少年をよそに部屋に入って来たのはなんと、少女でした。
思わぬ展開に口を半開きにしたまま、あなたは書かれた文字を目で追います。……少女は少年が握り締めていた小瓶を不審に思い、問い詰めました。なんとかごまかそうとした少年ですが、机の上の遺書を見られてしまいます。結局、少年はすべてを少女に告げました。話を聞いた少女は最初こそ傷つきます。けれど少年の愛を受け入れ、二人は両想いになるのです。
そこまで読んでようやく、あなたは最後の場面の謎を理解することができました。確かにこの流れなら、ああいう結末になるのもおかしくありません。真白のページも、内容の変化が原因と見てよさそうです。
すっかり晴れやかになった気分のまま、あなたは本を閉じました。これでこころおきなく眠れるのですから当たり前です。いそいそと横になったあなたは、目を閉じました。しかしすぐに開いてしまいます。それもそのはず、本の内容が変わってしまうという謎は残ったままなのですから。
起き上がって再び本を開いたあなたは、もう一度内容を確かめました。けれども先程とまったく変わらない内容に、頭を抱えてしまいます。これはもう一人では解決できない。そう判断したあなたは、結局諦めて眠ることにしました。
気になって眠れないかもしれないと思っていたあなたですが、頭を使ったからでしょうか。すぐに睡魔はやって来て、夢の中の住人となったのです。
「あなたは、誰?」
聞き覚えはないけれど可愛らしい少女の声に、あなたは目を開きました。直前の記憶は、諦めて眠ろうとしたところで終わっています。ですから、きっとこれは夢の中に違いないとあなたは思いました。そうでなければ、寝起きだというのにこんなにも頭がさえているなんてありませんから。
そう考えたあなたは、自分の前方にいる少女に目をやりました。正確にいえば、それしか見ることができませんでした。なぜなら、あなたは動けなかったのです。まるで、顔だけが宙にぽっかりと浮いているような不思議な感覚です。けれどもなぜか、戸惑いを感じることはありません。きっとこれが夢だと、きちんと理解しているからでしょう。
「私はマキナ」
突然聞こえてきた、老人とも子供とも、男とも女ともつかない声に初めて、あなたは少女の他に誰かがいたことに気づきました。
その人物は、ちょうど少女と向き合うようにして立っていました。その横顔は非常に整っていて、作りものめいてすらいます。それゆえに、特徴がまったくありません。それでいて、どこかで見たような気がする顔です。
首を傾げることもできないあなたはただ、見知らぬ少女と、マキナと名乗った人物をじっと見つめます。
「彼のもとに行きなさい。手遅れになる前に」
彼とは一体、誰のことなのでしょうか。あなたはマキナの言葉をまったく理解できません。しかし、少女は理解したようでした。裾をひるがえし、どこかへと駆けて行きます。
少女の行き先が気になるあなたでしたが、残念なことに動くことはできません。目が覚めるまでずっとこのままは遠慮したいところです。そんなことをぼんやり考えていたあなたは、不意にマキナと目が合いました。
いえ、それもおかしな話ですね。だって今のあなたはいわば傍観者。少女だってあなたを認識していなかったのですから、マキナと目が合うことなどあり得ないはずなのです。だからこれは、気のせいなのでしょう。
そう思った時でした。マキナの口が歪んだのは。あなたはその表情を表す言葉を知っていました。その言葉は、微笑みです。見えていないはずのあなたに、マキナは確かに微笑んだのです。
次の日、あなたはいつも通り図書館に足を運びました。
もちろん、例の本は鞄の中に入れてあります。今日こそ、館長に相談しよう。そう思っていたあなたは、図書館についてすぐにその達成が不可能であることを知りました。なんと、館長はしばらくの間休みを取ることになっていたのです。
昨日までは確かに、そのようなことにはなっていませんでした。他の職員ならともかく、館長がしばらくの間休みを取ることまで見落とすはずはありませんから。気になったあなたが理由を調べれば、なんてことはありません。昨夜、腰を痛めて入院することになったとのことでした。
それにしても、なんという運命のいたずらでしょう。昨日忘れさえしなければ、と肩を落としたあなたでしたが、すぐに気を取り直しました。館長に相談できないのなら、他の職員に相談すればよいのです。
「本の内容が変わっている? そんな馬鹿なことあるはずないだろう」
とある職員に相談したところ、このような答えが返って来てしまいました。
あなたは、その職員にいい返すこともできません。きっと、体感していなければあなたもそう返すに違いないと思ってしまったからです。元々の本の内容を知らなければ、確かめることさえ難しかったでしょう。
それでもめげずに、あなたは他の職員にも相談します。けれども、返ってくる答えは皆同じようなものばかり。とある職員からは、証拠を持って来いとさえ、いわれてしまいました。それも一理ある。そう思ったあなたは後日、別の図書館を訪ねようと決めました。
ひとまず解決を先送りにしたあなたは、気持ちを切り替えて仕事に励みます。今日こそは平凡に一日が過ぎていくに違いない。あなたはそう考えていましたし、仕事をはじめてしばらくは、いつも通りのゆったりとした時間が流れていきました。
その利用者がやって来た時、あなたは襲い来る睡魔と戦っていました。なにせ昨日は、不思議な本と格闘していたせいで睡眠時間を十分に取れなかったのです。いつもはありがたい暖かな室内も、この時ばかりは強敵へと姿を変えています。
「すみません」
ともすれば出会ってしまいそうな瞼たちを引きはがして、あなたはカウンターに置かれた本に目をやりました。その表紙には、『零れ落ちた歯車の行方』と書かれています。あなたはその本をよく知っていました。読んだことのある本だというのももちろんですが、人に薦めたことがあったからです。
そう、薦めたのは『小夜啼鳥の啼く日』を薦めたのと同じ少女です。不思議な偶然もあるものだ、とあなたは思いました。とはいえ、おかしなことでもありません。少女には、他にもたくさんの本を薦めていましたから。
「この本、少しおかしいのですが」
そういって利用者が本を開きます。開かれた場所はもう、終わりに近い場所でした。ですが、本来なら文字がきっちりと整列しているその紙の上はなぜか閑散として――いませんでした。
昨日とまったく同じような流れでしたので、あなたはまた同じようなことになっていると予想していたのです。ですが、残念なことに予想は外れてしまいました。もちろん、外れているに越したことはありません。拍子抜けしてしまった感じは拭いきれませんが、あなたは努めて笑顔で対応しました。つまり、どこがおかしいのかを尋ねたのです。
すると、利用者は口ごもりながらも説明してくれました。要約するとこういうことです。
利用者は、この本がお気に入りなのだそうです。それで、また読みたいと思って借りていきました。そしていつも通り読み進めていたところ、最後の場面がおかしなことになっていることに気づき、持ってきたそうです。
利用者の方に、内容の正しい本と入れ替えることを約束したあなたは、その本を預かることにしました。他の職員に相談をしても同じ結果に終わるだけでしょうから、ある意味正しい判断といえるでしょう。
結局、平凡な一日になるという予想はあっけなくくつがえされてしまいました。ですが、昨日とは一つ違うことがあります。それは、家に帰っても本のことを忘れていなかったことです。
いつもならまだ、眠るには早い時間。内容が変わってしまったことの手掛かりが少しでも見つかるかもしれない。そう考えたあなたは、今日預かってきた本を鞄から取りだしました。
『零れ落ちた歯車の行方』と書かれた表紙を眺め、内容を振り返ります。この本の内容は確か、このようなものでした。
◆ ◆ ◆
あるところに、一人の少年がいました。田舎暮らしの少年の夢は、立派な騎士になることです。その夢を叶えるために少年は訓練に明け暮れ、ついには試験を合格することができたのです。
少年はとても喜びました。なんといっても、夢にまで見た騎士になれるのですから。胸に希望を詰め込み、その瞳をきらきらと輝かせながら少年は、騎士団の門をくぐります。今日から少年は騎士団の一員として、どこかの隊に配属されることになるのです。
王城を守る、花形ともいえる騎士隊だろうか。それとも王都を守る、住民に感謝される騎士隊だろうか。はたまた、地方に駐屯して平和に尽くす騎士隊だろうか。結局のところ、少年はどんな場所だってよかったのです。その剣で誰かを守れるのならば。
しかし少年が配属された騎士隊は、そのどれでもありませんでした。しいていうのならば、名誉のためにお金で騎士位を買ったお貴族様の尻拭いをする、雑用隊でしょうか。落ちこぼれと罵られ、命令には絶対服従。
そんな騎士隊に配属された少年が、希望を失っていくのはあっという間でした。希望を失った少年は、虚ろな瞳のままに何も文句をいうことなく仕事をこなします。それが何であろうともう、少年にはどうだってよかったのです。たとえ、守るための剣を傷つけるために振るうことになっても。
そんな少年のことを、他の隊員たちも気にかけません。騎士になった理由は人それぞれですが、皆同じような状態でしたから。ですが、そんな状況であっても気にかける人が一人だけいたのです。それはその隊の、隊長でした。
隊長は、熱心に訓練を行いました。落ちこぼれといわれても、豪快に笑い飛ばしていました。意に反する命令には従いません。もちろん、そんなことをすれば怒られます。罰だって与えられます。それでも隊長は、強くあり続けました。しかし残念なことに、隊長の熱意はまったく届いていませんでした。むしろ、迷惑だと思われていたのです。そんなある日のことでした。彼らに、一つの命令が下されたのは。
その命令とは、獣の討伐です。凶暴化した獣たちがとある地方で暴れているので、それを討伐しろとのことでした。といっても、お貴族様の尻拭いのためです。満足に戦えないお貴族様をかばい、それでいて目立たないように戦うといった困難極まりない状況は、簡単に予想できます。そのため、隊長以外は皆やる気なんてありませんでした。実際にその時、無力な民たちが傷ついているのにも関わらず。
騎士たちが現地についた時、もうそこはひどい有様でした。怒りや悲しみが渦巻くその場所で、やはり虚ろな瞳のまま少年は戦いはじめます。その戦いは予想通り困難を極めました。けれども、獣たちの数は無限ではありませんから次第に減っていきます。もうすぐ終わる、と皆が思ったその時でした。それまでの獣と比べても一番大きく、凶暴そうな獣が現れたのは。
お貴族様たちは、我先にと逃げ出しました。自分の命が一番大事なのでしょう。残された少年だって、本当は逃げたかったのです。ですが、命令とあらば逃げることはできません。少年は懸命に戦いました。しかし途中、足に大けがを負ってしまいます。誰もがその少年の命を諦めましたが、隊長だけは諦めず、身をていして少年を助けました。
結局、獣の討伐は完了しました。ただ一人、隊長の命と引き換えに。少年は、真新しい墓の前で隊長の最期の言葉を胸に刻みつけました。『立派な騎士になれ』。その時から、少年は再び立派な騎士になるという夢を抱きます。二度と逃げないことを、亡き隊長に誓って。
◆ ◆ ◆
一通りの話の流れを思い出したあなたは、本を開きます。利用者に説明された、最後の部分に目を通しました。あなたの記憶通りなら、ここには墓の前で、少年が誓いを立てている場面があるはずです。ですが利用者の話の通り、そんな場面はどこにもありません。
そこに書かれていたのは、少年がベッドに横たわっている隊長に誓いを立てている場面です。どうやら、隊長は亡くなっていないようです。昨日の経験から、そうだろうと推測していたあなたはさほど驚きませんでした。
本を閉じたあなたですが、どうにも謎は解けそうにありません。昨日よりも早くに諦め、寝るために横になったあなたはそこで初めて、今日の朝に見た不思議な夢のことを思い出します。
どうしてだか、本の内容が変わるという謎と不思議な夢になんらかの関係があるようにあなたは思いました。一度そう思ってしまえば、気になって仕方がありません。今日こそ眠れないかもしれないと思ったあなたでしたが、睡眠時間が足りていなかったからでしょうか。すぐに睡魔はやって来て、夢の中の住人となったのです。
「君は、誰?」
聞き覚えのない、せっぱつまった様子の少年の声に、あなたは目を開きました。直前の記憶は、夢が気になって仕方がない状態で眠ろうとしたところで終わっています。どうやら、また同じような夢の中のようです。
そう考えたあなたは、自分の前方にいる満身創痍な少年に目をやりました。やはりこれも昨日と同じで、それしか見ることができません。動けなくとも不安は一切感じないので、問題はないようでした。
「私はマキナ」
おや、ここにきて覚えのある声があなたの耳に飛び込んできました。その声を出した人物は、少年と向かい合うように立っています。昨日の夢に現れたマキナと、相違はないようです。
あなたはそこで、マキナが謎の鍵なのかもしれないと思います。どうにかして手掛かりをつかみたいとマキナを見つめてみますが、得られそうにもありませんでした。
「今すぐこの場を離れなさい。命令よりも命が大事なら」
まるで予言のような言葉に、少年は戸惑っています。しかし、マキナのいう通りだと思ったのかすぐにその場を離れました。
少年がいなくなり、あなたの目の前には荒らされた地面とマキナだけが残されます。ここはどこなのだろうかと必死に考えていたあなたは、マキナと目が合いました。それを気のせいとはもう、あなたには思えませんでした。だって、目があった瞬間マキナがひどく自然に微笑んだからです。
マキナは確かに、あなたをその目で捉えていました。
次の日の朝、あなたは『零れ落ちた歯車の行方』を開きました。目指したページには、少年が戦場から逃げ出す場面が記されています。しかし、マキナのことは一切書かれていませんでした。
二冊に増えた本を鞄の中に入れて、あなたはいつも通り図書館に足を運びます。今日は何が起きるのだろうと頭の片隅で考えていたあなたでしたが、その日は何も起こりませんでした。
いえ、何も起こらなかったというのは間違っていますね。というのも、ピアノと読書が好きな常連の少女の母親がやって来たのでした。その母親は、娘である少女が借りていた本を返しに来たのです。何でも少女は今入院しているらしく、代わりに返しに来てくれたとのことでした。
返却日を過ぎても返されない本は少なくありません。だというのに、その母親はわざわざ返しに来てくれたのです。そのことに大変こころが温かくなったあなたは、今度の休日に少女のお見舞いに行こうと考えて病院名を尋ねました。
「×××病院に、あの子は入院しています」
そこはくしくも、腰を痛めた館長が入院している病院でした。あなたはせっかくだから、入院している館長のもとにも訪れようと思いました。本のことを相談するよい機会です。
休日の用事が決まり、うきうきとした気分になったあなたでしたが、少女の母親の顔色はあまりいいとはいえませんでした。体調がすぐれないのかもしれないと思ったあなたは気遣いの言葉をかけましたが、少女の母親は言葉を濁します。
人には一つや二つ、いいたくないことがあるものです。無理に聞き出すのはよくないと考え、あなたは少女の母親を見送りました。
その日は結局、不思議な夢を見ることもなく過ぎていきました。ですがあなたは、なぜだかそれを不思議に思いません。それはきっとその日、内容の変わった本に出会わなかったからでしょう。あなたのこころの中ではもう、本と夢の謎がぴったりとくっついていたのです。
次の日、あなたはいつも通り図書館に足を運びました。
二冊の本はそのまま鞄の中に収められています。置いてきても構わなかったのですが、不思議と持っていた方がよい気がしたのです。
カウンターの中で、あなたは明日のことを考えていました。今日が終われば明日は休日ですから、お見舞いに何を持っていこうかと思考を巡らします。花にしようか、それとも果物の方がいいかもしれない、なんて考えていると突然、騒がしげな足音が耳に入りました。
一応いっておくと、図書館では静かにするものです。走るのは、もちろん注意の対象になりますから、このような足音を立てる人はいないはずでした。しかし現実に聞こえているのですから、注意しないといけないでしょう。
そう思ってカウンターから離れようとしたあなたでしたが、その足音の主がまっすぐカウンターに向かってくるのに気づきました。その手には一冊の本が抱えられています。タイトルまでは読み取れませんでした。
「この本、どうなってるんですか!」
騒々しい足音を立てていた利用者が、カウンターに本を叩きつけます。いえ、叩きつけるという表現は間違っていますね。その利用者は勢いよく叩きつけようとしましたが、直前で動きを止めて、古ぼけたカウンターにそっと本を置いたからです。
足音のことを注意しようと思っていたあなたでしたが、その本に対する扱いを見て止めました。図書館で走ってはいけないということを、この利用者はきっとよく理解しているでしょうから。今回のことはただ、それ以上に問題なことがあっただけなのです。あなたはカウンターに置かれた本を開いて、そう思いました。
やはり、開かれた紙の上は閑散としていました。おそらく、きっちりと整列していただろう文字たちの姿はまったく見当たりません。あなたが開いた場所は真ん中あたりでしたから、そのまま後ろまで見てみました。けれど、行けども行けども真白のページが続いています。
では、前の方はどうでしょう。最初のページを開けば、そこにはきちんと文字が整列しています。ですが、ほんの数ページ進むともう、文字たちは脱走していたのです。
精一杯の謝罪をしたあなたは、利用者が立ち去るとすぐにその本の表紙を眺めました。そこには、『みかん色の太陽の下で』と書かれています。あなたはその本をよくは知りませんでした。読んだことはなかったのです。しかし、見覚えはありました。ちょうど、昨日返されたばかりの本だったのです。返したのは、ピアノと読書が好きな常連の少女の母親でした。
一日の仕事を終え、あなたは家へと帰ってきました。鞄の中の本は三冊に増えています。そう、あなたは『みかん色の太陽の下で』を持って帰って来たのでした。
それはというと、確かめたいことがあったからです。そのためには、内容の変わった本が必要でした。夢を見るのがあなたの目的だったのです。
眠るにはまだ早い時間ですから、あなたは『みかん色の太陽の下で』を読んでみることにしました。数ページほどですから、さほど時間はかかりませんでした。そこに書かれていた内容は、このようなものです。
◆ ◆ ◆
あるところに、一人の女性がいました。その女性には、大切な幼馴染がいます。けれどその幼馴染は今、遠い場所で働いていました。なぜなら彼らの故郷の町は貧しく、男性は都に出て働く必要があったからです。
そんなある日、幼馴染の青年から手紙が届きました。故郷にもうすぐ帰ると、そして女性に伝えたいことがあるという内容がそこには記されていました。女性はとても喜び、青年の帰りを指折り数えて待ちます。
そして、青年は無事に故郷へと帰ってきました。その足ですぐに女性のもとへと行き、求婚をします。それを受け入れた女性は、青年とともに幸せな人生を歩んだのです。
◆ ◆ ◆
その内容は、特におかしなものではありませんでした。ですが、物語として成り立っているかといえば、決していえないでしょう。
そもそもこの話を読んだことがないあなたも、おおまかなあらすじは聞いています。この話のあらすじには、幼馴染の女性と想い出の場所を巡る話であるという内容が書かれていたはずでした。明らかに内容が変わってしまっています。
内容が変わっていることを確認したあなたは、少し早いけれども寝ることにしました。確かめたいことがあるせいか、妙に気分が高まっています。眠れなかったらどうしようと考えていたあなたでしたが、いらない心配だったのでしょう。すぐに睡魔はやって来て、夢の中の住人となったのです。
「あなたは、誰ですか?」
聞き覚えのない、穏やかな女性の声にあなたは目を開きました。直前の記憶は、眠れなかったらどうしようと考えていたところで終わっています。あなたの予想通り、不思議な夢の中のようでした。
予想が当たったことにほっとしたあなたは、前方にいる女性に目をやりました。その女性の向かいにはこれまたやはり、マキナがいます。
「私はマキナ」
確かめたいことがあったあなたですが、今の状態では確かめられません。それは、マキナの顔を正面から見る必要があったからです。焦っても仕方がないので、あなたは状況を見守ることにしました。
「山に行くのはやめなさい。危険な目に逢いたくはないでしょう」
山とは一体、何のことでしょうか。本の内容には一切書かれていませんでした。マキナのいい方からすると、本来の内容では女性は危険な目に逢っているのかもしれません。すべて、あなたの予想にすぎませんでしたが、そうだという不思議な確信もありました。
女性がいなくなり、あなたの目の前にはマキナだけがいます。感じられないはずの胸を高鳴らせながら、あなたはマキナを見つめていました。そしてついに、マキナがあなたと目を合わせます。微笑んだマキナを見てあなたは、なぜ今まで気づかなかったのだろうかと思いました。
――マキナをもっと人間らしくすれば、あの常連の少女にそっくりだということに。
次の日、あなたはいつもとは違い病院に足を運びました。
三冊の本はそのまま鞄の中に収められています。そして片手には、道中の花屋で購入した花がありました。一つだけなのは、すでに館長のもとへお見舞いに訪れたからです。館長は、以外にも元気そうでした。腰を痛めたといっても、そう重いものではなかったようです。大好きな本に囲まれて、好きなだけ読みふけることができるからでしょうか。むしろいつもより楽しそうなほどでした。
あなたが少女の入院している病室まで行くと、ちょうど母親が部屋から出てきたところでした。この間と同じように、母親の顔色はあまりいいとはいえません。それでも、あなたの姿に気づくとその顔に笑みを浮かべました。
「来てくださって、ありがとうございます」
その感謝の言葉に、あなたは少しむずがゆい気持ちになりました。当初は純粋にお見舞いに行こうと思ったあなたでしたが、今は別の理由の方が強いのですから仕方がないことかもしれませんね。
もどかしい思いを抱えながらも、あなたは少女の母親の後ろ姿を見送ります。その時になって初めて、あなたは少女の入院理由を聞いていないことに気づきました。今更尋ねに行くのも気が引けたあなたは、ひとまず少女の病室に入ることにします。
少女のいる病室は、個室でした。窓が開けられているのか、爽やかな風があなたの横を通り過ぎていきます。手にした鮮やかな花から、柔らかな甘い香りが漂ってきました。その鮮やかさは、白い病室の中でひどく浮いています。
「誰?」
聞き覚えのある、可愛らしい少女の声にあなたは返事をしました。あなたの姿を見れば、少女は口を歪めます。それは夢で見たのと同じく、微笑みでした。
「司書さん、こんにちは」
礼儀正しくあいさつした少女に、あなたもあいさつを返します。花を、横に置かれた小さな机に乗せると、少女は綺麗だと喜んでいるようでした。その姿はまるで病人には見えません。唯一、その指に巻かれた包帯を除いて。
「司書さん、また面白い本があったらお薦めしてね」
少女のその言葉に、あなたは頷きました。そして、鞄からあの三冊の本を取りだします。少女の目の前にある、ベッドに備えつけられている机にそれを置けば、少女は目を丸くしました。
「司書さん、どうしたの? これはもう読んだことあるよ」
もちろん、あなたはそのことを知っています。この三冊の内の二冊は、あなたが少女に薦めたものでしたし、もう一冊は先日、少女の母親から返されたものでしたから。
あなたは戸惑う少女に対してゆるゆると首を振り、じっとその目を見つめました。すると、少女は顔に浮かべていた笑みを消し去ります。
「ねぇ、司書さん」
可愛らしいはずの少女の声が、その時だけはおぞましいもののようにあなたには感じられました。どろどろに煮詰めた、ねっとりとしてひどく甘い声。それは甘美な毒のように、あなたの耳を浸食していきます。
「失って、初めて得るものがあるって信じる?」
少女の目は、とある物語の少年を思い出すような虚ろなものでした。あなたは少女の問いに、口を開くこともできません。けれども、少女はそのようなことを気にしてはいないようでした。
「私は、あると思う。けどね」
少女はそこで言葉を切ると、包帯の巻かれた指を見つめました。きっと、こうなる前は素敵な音楽を奏でていただろうその指は、ぴくりとも動きません。少女の夢が叶えられることもきっともう、ないのでしょう。なにも知らないはずなのに、あなたはそう確信していました。
「失わなければ得られないものなんて、いらないよ」
その後、あなたが少女の姿を図書館で見かけることはありませんでした。
お読みくださり、ありがとうございました。