屋上にて。或いは、此処よりも遠くへ
暖かなオレンジ色の夕焼け。立ち入り禁止の看板を乗り越えて校舎の屋上へと訪れた青年は、辺り一面を照らす陽光の優しい輝きを眩しそうに眺めた。
風は少し冷たい。季節は秋。徐々に澄んでゆく空気がそっと、人々に時の移り変わりを知らせている。
暖色の海に抱かれながら、青年は静かに目を閉じた。その行為自体に大した意味は無い。ただ、なんとなくである。
びゅう、と頬に感じる風に混じって、柔らかな匂いが彼の鼻腔を微かにくすぐった。ゆったりとした動作で振り返る。すぐ後ろには、見慣れた少女が立っていた。
風が弱まる。ゆらゆらと揺れていた彼女の艶やかな黒髪が、すぅと静かに動きを止めた。
驚いた様子の少女はそれでも小さく微笑んで、青年の隣へと歩み寄る。
先ほど微かに感じた少女の匂いがその鮮烈さを増すにつれて、青年は自身の鼓動が高まるのを感じた。
そうして肩と肩が触れ合う程の距離にまで近づくと、少女はすとんと腰を下ろした。
青年は僅かに逡巡するも、気がつけば少女と同じように腰を下ろしていた。
夕暮れを眺め座る少女と、少女の現れた方を向いて座る青年。互い違いに、けれどとても近しい距離に座る二人は、言葉を交わす事も無く、静寂の時がゆるゆると流れていく。
太陽が水平線に近づくにつれて、徐々に伸びる影法師。それをぼうと眺めていた青年は、隣に座る少女の体温を確かに感じながら、彼女との出会いを思い返していた。
一つ一つ、鮮明に浮かび上がる非日常の出来事。夜の街を、校舎を……彼の周囲を密やかに、けれど確実に侵食していった怪異の数々。その発端とも言える彼女。思えば、雛森瑞希という少女との出会いこそ一番の怪異なのかもしれない……なんて考えて、青年は僅かに苦笑する。
と、そんな青年の考えが伝わったのか、瑞希は少々ムッとした表情を浮かべ言った。
「今、ちょっとだけ失礼な事を考えただろう?」
その口調が、平素の……普段通りのモノであった事が、青年を複雑な心境へ追いやった。聞き慣れた安心感と、彼女は今まで通りなのだ、という焦燥。自己紹介の時に見せた彼女は、本来の彼女では無かったのだろうか。彼女の心はまだ、王を演じているのだろうか。
「瑞希―――」
青年は彼女の名を呼んだ。何を言えば良いのか、自分は一体どうするべきなのか……未だに答えを見出せないでいた亮は、だからその代わりに彼女の名前を呼んだのだ。
「ん……」
彼女は照れた風な様子で僅かに目を細めると、小さな、けれど良く通る声で言葉を紡いだ。
「なぁ亮……あの夜……お前は私に尋ねたよな。私の言う『約束』って何なんだ、って」
ポツリポツリと語られる、彼女の、その根幹の話。ソレは概ね、来栖から聞いたモノと同じであった。
王として育てられた事。その為には、弱い自分は見せてはいけないと思っていたという事。クーデターの日、両親と交わした『生きるという約束』。
「変だよな……父様や母様は、ただ私に生きていて欲しいって願っただけなのに……私はその願いを履き違えた。私はただ、私として生きていれば良かったのに……約束だから生きなきゃいけないなんて、そんな風に考えていたんだ」
言の葉は夕暮れの空に溶けていく。青年は聴き逃さない様に、じっと耳を澄ませていた。
「でも……私は亮に『約束』って何なんだ、そう尋ねられるまで……ソレが正しいんだって思い込んでいて、疑う事なんてなかったんだよ」
仮初の生に幸福などありはしない。来栖の言葉が青年の脳裏に反芻する。
「だって父様との約束を守っていないと……王に相応しい人間を演じていないと……私は、私は……」
語尾が揺れる。頬を伝う、一筋のきらめき。彼女は泣いていた。
「私は……潰されて、しまいそうだったんだ……だって……だって私は……」
嗚咽交じりに続ける彼女。彼女の肩は小刻みに震えている。
「―――混血、だから―――」
「……」
混血……人と鬼の交わりしモノ。ソレ自体は別に珍しい事でもない……瑞希が前にそう言っていたのを思い出す。
だが……王族ともなれば話しは別だろう。純血主義なんて連中もいるのだから、瑞希はきっと昔から、自分が混血である事にある種のコンプレックスを感じていたんだ。青年は彼女の話しから、そう結論した。
「前に……言ったな……羅刹は、鬼の証でもあるって……勿論アレは、混血のモノにしか宿る事のない呪いだ……けれども、確かにソレは『鬼の証明』でもある……羅刹が亮に吸収された時は私、本当にショックだったんだよ……」
人か鬼か違いは些細な事なんだ。彼女はそう言っていた。混血という曖昧な立場の少女が、ソレでも自分は鬼なんだと……胸を張って言えたのは、きっと羅刹のおかげなのだろう。
「―――っ、」
青年は唇を噛んだ。ならば……少女から鬼の証明を奪った自分は、同時に彼女のアイデンティティをも奪った事に他ならないのだから。
「でもね……思い出したんだ。人喰いの力で、残された『眼』すらも私から消え去ったあの時。鬼ではない、別の何かになったあの時……私を貫いたのは人喰いの刀なんかじゃなくって、遠い遠い記憶だったんだよ」
そう、ソレは幼かったあの日。毎日が輝いていたあの日。父と母と私……その三人がセカイの中心だったと信じていた、遠い遠い記憶の向こう。ただただ幸せだった、哀れで美しい思い出。
「『自らは鬼である』……だから、みずき。父様は、私の頭を撫でながらそう言った……。刀なんか無くったって、『眼』なんか無くったって……私は私であるだけで……雛森瑞希であるだけで……ちゃんと、鬼なんだ」
そう言う彼女の声は、前向きな明るさに満ちていた。
「『約束』にすがらなくたって、『刀』に求めなくたって、『仮面』に隠さなくったって……私は、私で良いんだって……私として生きていけば良いんだって……」
ふっと息を吸い込んで、それから彼女は立ち上がった。彼女の影がすぅと揺らめく。
「それに……」
とてとてと青年の正面へと回りこみ、瑞希は亮へと手を差し伸べた。
答える様に、青年はその手を握る。ぎゅっと、強い力で握り返された手に引かれ、青年は立ち上がった。
「っしょっと……それに―――声がね、聞こえたんだ……私の名前を呼ぶ声が」
夢とも現とも知れぬ意識の狭間。血を流し倒れた少女を護る為、傷つき戦った青年の叫び。
「私を護るって言ってくれた人の声が……。うん、きっとその人なら、私が何であろうとも、私を見てくれる……何となくそんな気がして……コレって私の勘違いなのかな」
「……ん」
「言葉遣いは……クセになっちゃったからすぐには直せないけど……」
視線と視線が交じり合う。オレンジの舞台、向かい合う二人の役者。王の仮面を脱ぎ捨てて現れたヒロインは、剣を棄てたヒーローの手を取って歩き出す。
「私は変わりたい。私じゃない私から、私らしい私へ……」
「出来るさ。難しい事なんて何もない」
断言する青年に背中を押されて、少女は一歩を踏み出した。
「そう、なのかな?」
見えない事は恐ろしい。知らない事は恐ろしい。人はいつだって未知に戸惑い、道を見誤る。
その度人は、星を見て、地図を読み、正しい道を模索して進む。
時には誰かに手を引いてもらう事もあるだろう。
「ああ、楽勝だ。ソレに……もしもの時は、あー、手伝うし……」
「うん―――うんっ」
そう言って微笑む青年を見て、少女も負けじと笑顔を返す。
「さぁ、行こうぜ。そろそろ最終下校時間だ」
行き先なんてない。どこに行けばいいのか……それすらも分からない。
ただ、此処よりも遠くへ。
少女は歩く、繋いだ手の暖かさを感じながら。
興味を持って下さった方、ありがとうございます。一話から付き合ってくれた皆様に、ただただ感謝です。これにて『此処よりも遠くへ』は一旦幕を下ろさせて頂きます。まだまだ書きたい事もありますので、もしかしたら続編やるかもーとか考えたりもしてますが……どうなる事やら。その時はもっとペースアップを心がけたいと思います(汗。ご意見・ご感想あれば是非ともよろしくお願いいたします。それではっ!