紅い瞳の少女/月下鮮血(前)
◇ ◇ ◇
振り下ろした拳は、間違いなく青年の頭蓋を粉砕していた。
だがそこに青年の姿はなく、虚しく空を切ったソレは勢い余って植え込みに突っ込んだ。
木の幹がえぐれる。
間一髪の所で少女が青年を突き飛ばしたのだ。もし少女の反応が遅れていたら……青年は間違いなく絶命していただろう。
凶器じみた一撃。
「くそ、外しちまったか……まぁいい。俺の狙いは初っから姫さんだからな」
男はそう言って少女に向き合った。愉悦に歪んだ表情は、不気味な空気を携えている。
―――実体を持った殺意。
そんな表現が、嫌なほど当てはまった。
にやりと、男は不適に微笑む。
殺人行為……それに秘められた一種の背徳感と禁忌思想を、男は極上の快楽と考えていた。今まで殺した人数は十人にも満たない……我々と人間はお互いに干渉しないのが掟だからだ。
でも、ダメだった。
一度憶えたその快感を思うたび拳が震える。咎められ、厳しく罰せられてなお、男はその衝動を抑える事ができなかった。
噴き出す血液を、気管が潰れて骨がひしゃげる音を―――
―――ああ、もっと聞かせて欲しい。
その事を考えると、今回の事件は自分にとって最高の出来事なのだろう。なんせ同種とはいえ、公的な理由で殺人という遊戯を愉しむ事が出来るのだ。
そう、男にとって人の命とはその程度のものでしかなかった。子供が遊ぶような玩具……欲しいと駄々をこね、飽きると惜しげもなく手放す遊具。
命なんてその程度。
だからこそソレは、実体を持った殺意という表現こそが相応しい。
さて……と呟いて男は少女に歩み寄る。
「死ね」
一言……たった一言そう口にして、男は必殺の一撃を放つ。死……という絶対的な結果を秘めて迫る一撃を、少女に向けて振り下ろした。
辺りに響くのはただ虫の声。
漆黒の闇を切り裂くように繰り出されたその拳を、少女は身を屈める事で躱した。
―――なっ?
男は一瞬自分の目を疑った。この至近距離で、命を奪うという目的のために全力をもって振り下ろした必殺の一撃を……この自分の身長の三分の二程度しかない小柄な少女はなんなく躱したというのか?
いや、偶然だ……躱せる筈がない。男は再び少女へその殺意をぶつける。
先ほどのただ拳を振り下ろす単純な動きではなく、今度こそ全力の右ストレート……正拳突きを放った。
音速に近い速度で迫る巨大な拳を、身を傾けて躱す。
もはやソレは偶然ではない。
「てめぇ……ちょこまかと」
自分の攻撃がこうもあっさりと、しかも二度続けて躱されたことに、男は我を忘れた。
ただ闇雲に打ち出される連撃を、少女は事もなげに躱していく。
それはまるで、踊りのように優雅で……。
全てが計画通りであるかのような、台本にそって行われる出来の良い演劇のような……美しい演技。
「く……っそ……死ねッ」
なおも続く暴風雨の中を、少女はただ軽やかに潜り抜けていく。突然浴びせられた回し蹴りも、後方へ大きく跳躍することで躱す。
と、少女は右手を男の方へ向けたかと思うと、透き通った鈴のような声で男に問うた。
「今なら見逃そう……潔く退くか、ここで死ぬか……選べ」
その瞳には先ほどのような少女のあどけなさはなく、抑揚のない声は聞いているものに言いようのない恐怖を感じさせた。
少女の問いかけには微塵の迷いもない。おそらくどちらを選らんでも、少女の言った通りの結果に辿り着く。
「破魔の剣……か? 噂で聞いたぜ。てめぇみたいな雑種に取り付く呪いだってな」
男は少女の問いかけには興味を示していない様子で、挑発めいた台詞を吐いた。
一見動じていないように見える少女だが、身体を覆う殺気はその密度を高める。
もはや、先ほどの選択肢は潰えた。
待つのはただ、男の死。
「ならば見せよう……数多の同胞を切り捨ててきた我が呪い。輪廻の呪縛、神剣・羅殺を」
少女が言い終わるやいなや、男は少女へと踏み込んだ。
その圧倒的な迫力に、少女は焦ることなく立ち向かう。
殺那……そう、それはわずか一瞬の出来事。男の踏み込みに対し、少女は何も持っていない腕を振り下ろした。
ただ、それだけ。
その時、初めて少女の顔が焦燥感で凍りついた。
「なッ?」
ゴッっという、骨が強打される音が辺りに響く。二、三メートルの距離を少女は滑空していった。
男の踏み込みが浅かったのが不幸中の幸いか。そうでなければ致命傷は免れなかっただろう。
「ぐ……ぅ」
少女は倒れたまま起き上がろうとはしない。
いや、正確には起き上がれなかったのだ。
致命傷を免れたとはいえ肋骨は折れていたし、地面に叩き付けられた衝撃は背中から内蔵に痛手を与えていた。
「なんだ? 破魔の剣ってのはただのハッタリか?」
男はそんな事を呟きながら少女へと近づいていく。
そうしてその前で立ち止まると、少女の首に手をかけた。
「悪いな……死んでくれ」
一気に力を込める。
少女の華奢な首は、しかしなんの危害も加えられる事はなく、その太い腕から解放された。
「なッ?」
今度は、男が驚きの声を上げる番だった。
つまりソレは、まったくの予想外。
―――背中が……斬られた?
ひゅっという風を切る音と共に、男の背中からは紅い赤い鮮血が吹き出していた。