黄昏世界/久遠
足に力を込める。ボロボロの体は鉛の様に重いけど、ソレでも俺は駆け出した。
正面の敵、人喰いまでの距離は十メートルと離れていない。一瞬の後にお互いの間合い―――刀の射程圏内へと到達する。
先に動いたのは奴だった。迷う事無くエリアへと飛び込む俺を迎撃する為に、羅刹もどきが凛と跳ねる。
デタラメな太刀筋……とても羅刹からのフィードバックを受けているとは思えない、まったくもって稚拙な一撃。地面すれすれを切っ先が横切り、下から上へ俺の顎目掛け襲いかかる銀の閃き。
不可解なのは、業としてはとても未熟なソレが、異能の眼を持ってしても見切れぬ程の速度を秘めていた事である。
斬―――と、俺を即死させていた筈の音が聞こえた。僅かに吹き飛んでいった俺の前髪が、その奇跡的な回避を証明している。そう、本来ならば吹き飛んでいたのは俺の頭部だったのだ。
回避、と言うと語弊が生じる。奴の攻撃が俺を掠めただけに止まったのは、単に俺の速度がガクンと落ち込んで、奴の間合いに踏み込みきらなかったってだけなんだから。
「はっ―――」
ガクンと崩れるように停止した俺をあざけ笑うと、人喰いは振り上げた刃を直下に落とす。ギロチンじみた一太刀。重く、速い必殺が俺を死へと誘った。
『解理の眼』を全開にする。最大限に発揮された『眼』は飛来する弓矢さえ見切るのだ。今度は先ほどのようにはいかない。
「―――!?」
違和感。一瞬の後、朱の飛沫が闇夜へ散った。
「ぐ……」
「ほぅ、ギリギリ避けたか」
ず。切り開かれた腹部に、羅刹もどきが突き刺さる。全開の『眼』を持ってしても捉え切れぬ鬼の動き。俺は成す術なくソレを受け入れた。
「―――っ!」
体の中に異物が侵入する嫌悪感と、全身をくまなくなぶる激痛。ガクガクと震える足はその役目を放棄して、俺は背後に倒れこむ。
どすん。乾いた音。地面に背中を預けた俺を、人喰いは残忍な瞳で見下ろした。
腹に突き立つ刀を引き抜く為に、左腕で刃を握りこみ―――
「ぎ、ぃぃ―――!」
―――刀をさらに突き入れられる!
「ははははははっ! 痛いか!? 痛いのか、兄弟!」
「―――っ、い―――あぁああああっ!!」
空白、空白。チカチカと視界が明滅し、ぶつりぶつりと思考は途切れる。
空白、空白。耳から脳に叩きつけられる、自分自身が刻まれる音。
空白、空白。断絶していた思考が繋がって……俺は体を仰け反らせた。
「が、ああああ、あ……」
痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い―――ッ!
マグマだ! 熱の、アツい塊が! 腹の中を暴れて、爆ぜて、焼ける!! 俺が、あぁ!
熱い、熱い!!
「っとと、危ない危ない―――なんだ、まだやれるのか?」
もがき、のたうちながら苦し紛れに振り回した刀を軽く躱して、人喰いは弾む様に言った。
「―――っ! ぐ、ぅ」
鉄塊を腹から引き抜く。ビチャビチャと傷口から血液が零れ、周囲に赤い池が出来上がる。
血に染まった羅刹もどきを杖代わりにして、俺はなんとか立ち上がった。
「武器を、離したな……」
治癒が遅い。絶え間なく襲う頭痛と嘔吐感を誤魔化す様に、また回復の為の時間稼ぎも含めて、俺は二本の刀を構えヤツへとそう告げた。そんな悠長な事をしている暇はないっていうのに、そうせざるを得ない状況に歯噛みしながら。
「二刀流か? 得物を増やせば良いって訳でもあるまいに……付け焼刃が通用しないって事くらい、兄弟でも解るだろ」
自身が無手になった事など意にも介せず……それどころか、二本の刀を構えた俺に対する警告をしてみせる人喰い。
馬鹿にするな。そう言い返してもやりたいが、奴のその自信を裏打ちするだけの力を目の当たりにしている俺にそんな言葉など、強がりでも吐けるワケはなくって……だから俺は、必死にヤツを睨みつける事しか出来ずにいた。
「……ふん、まあ良いさ。素手で刀とやりあってみるのも面白そうだしな」
無防備に間合いを詰める人喰い。完全にこちらの二刀流を『付け焼刃』と侮っているのだ。
ごくり、唾液を嚥下する。来い、あとニ歩……一歩……。
―――間合いだッ!
左腕の羅刹もどきを地面と水平に振るう。ぐっと身を屈めた奴の頭上を虚しく素通りするソレはしかし、第二撃への布石に過ぎない。
初撃を躱した―――しゃがみこんだ奴へと、右腕の神剣を叩き込む。いかに『眼』が動きを捉え切ろうと、体捌きが付いていかなければ意味はない。その点において、刀の数が増えたのは好都合な事であった。
「ちっ」
舌打ち。同時に掻き消える奴の姿。目の前から忽然と姿を消した人喰いはけれど、すぐに俺へと襲い掛かってくる様子はない。
「なるほど、ね。二刀の使い手も……記憶の中に居たってワケか」
左前方五メートル。無傷の人喰いは忌々しそうにそう呟いて、体を前に傾ける。
肉食動物が獲物を狩る様な、そんな印象を抱かせる前傾姿勢。瞬間、奴の体は再びその姿を消した。
「が―――あ!」
グラリ、とセカイが傾ぐ。後頭部を蹴り飛ばされたらしい。凄まじい衝撃によって、容赦なく地面に叩きつけられる。
追撃を避ける為即座に立ち上がって、俺は闇雲に刀を振り回す。閉じかけていた傷口から、鮮血が流れ落ちた。
「ははは、どうした。太刀筋が滅茶苦茶だぜ?」
声の聞こえた左方へと刀を振りぬき、真後ろから蹴り飛ばされる。
「くっそ、おお」
やけくそだった。二本の刀が偶然ヤツを掠めてくれるのをただ期待して、何も考えずに両腕を動かした。
だってしょうがないだろ! 奴の動きが見えないんだから! 『異能の眼』が役に立たないんだから!!
あぁ、そうだ。そうだそうだそうだ! そもそも俺がこんな化物みたいな奴と戦えるワケがないんだよ!
くそ、くそ。痛いよ、痛い。おかしくなりそうだ。ぐッ! 今度はアッパーカット、頭がグラグラする。口の中一杯に血の味が広がる。気持ちが悪い。もう嫌だ。苦しい、辛い。
「う、っうう……」
何度目だろう―――何度俺は、地面を転がされたんだろう。蹴られ、殴られ……はは、雑巾みたいだ。
ソレでもまだまだ終わる事なく、アイツは俺を嬲り続ける。
まるでサッカーボールでも蹴るみたいに横たわる俺の腹を蹴り飛ばし、そうかと思えば俺の肋骨を丁寧に一本ずつ砕いてゆく。
抗う事など出来ぬ俺は、壊れた人形みたいにその様子を眺めていた。
「―――」
そうして一通り俺の体を破壊した人喰いは、ピクリともしない俺の右腕から本物の羅刹を取り上げると、何か汚いモノを見る様な視線で俺を睨め付けてから、静かに静かに言葉を発した。
「飽きたな」
ポツリと、ソイツは俺に確かな終わりを告げた。
「あーぁ、つまんねぇ。つまんねぇつまんねぇ。まったく―――がっかりだぜ、兄弟よぉ」
綺羅綺羅と、俺の首へと切っ先を向けた羅刹が煌く。その冷たい先端を、俺を殺すその凶器を……けれど俺は、ただ見る事しか出来ないでいた。
「じゃあな兄弟。今日から俺が―――『村上亮』だ」
無慈悲に、そう、なんの躊躇いもなく。鬼の神の剣が振り下ろされる。
「ぁ」
綺羅綺羅としたモノが落ちてくる。静かに、静かに落ちてくる。
アレは何だ、アレは……。切っ先のその向こうで嗤う俺。そんな俺を、無表情に見つめる俺。俺が俺を殺す。そう、殺すんだ。
そうして、あぁ―――そうして死が落ちてくる!
刹那。いや、ソレは永遠だ。その流れは久遠のモノだ。永遠の、時のらせんのその向こう……輪廻の呪いのその先に、俺は時間の渦を視た。
「っっっ!」
不確かな幻想のセカイに浮かび上がる虚像。
ソレは人間だった。刀を構えて対峙しあう、二人の人間の影だった。
幾重にも切り結ばれる刀と刀。殺しあう二人の周りには解体された人々の残骸。
あぁ、そうか。俺は直感的に理解した。コレは『人喰いが羅刹に封じられた日』の再生だ。
溢れかえる死の真ん中で、踊り斬り合う二人の男。飛び散る血潮は意に介せず、互いに殺意を交し合う。
そうして。永遠に続くと思われたそのやりとりは……けれども実にあっさりと、幕を下ろす事になる。
ぐさり。片方の男に突き刺さる無骨な鉄の殺人道具。ごぶりと黒い、血を吐いて―――突然に、その映像が切り替わる。
次に現れたのは、俺の良く知る人物だった。
暗い昏い黒色の空間。天と地の境界、ソレすらも知れぬ未踏の領域。此処は何処だと考えるより早く、その男はこう言った。
「亮くん―――」
寂しそうに寂しそうに、その男はこう言った。
「瑞希を、瑞希を―――」
声に呼応するかの様に、その幻想は景色を変える。
その男の虚像が消えた後、俺の目の前に現れたのは一人の少女だった。
少女は、少女は楽しそうに笑っていた。
ニコニコと、ニコニコと……彼女は俺へと微笑みかけた。
―――あぁ、でも。
でも俺は知っている。その笑顔が、仮初のモノである事を。
泣き虫のアイツが、精一杯強がりをしているって事を。
あぁそうだ。そうだそうだそうだ! 俺は一体、何をやっている!
泣き言を言って、諦めて……。ふざけてる、あぁ、まったくふざけてる!
諦める? 俺が? 本当に諦めるのか!?
自問自答。縦も横も天も地も。光すら無い無明のセカイで、ソレでも俺は前を見る。
諦めるのか? 本当に、諦められるのか?
俺は、村上亮は……。
雛森瑞希の笑顔を―――諦められるのか?
答えなんて、最初から決まってる。
だから、俺は、俺は……。
「み、ずきぃいいいいいいい!」
現実へと還る。そう、ソレは一瞬の幻視。刹那に視た久遠の脈動。遥か続く、羅刹の記憶のひとカケラ。
グサリと音を立てて、羅刹は墓標の様に突き刺さる。