黄昏世界/刹那
「俺はお前を借りる事で存在している……ってのは前に説明したよな?」
その言葉は、人喰いにとって何の意味も持たなかった。
そもそも、彼が青年との差異を感じたからといってソレを説明してやる必要などはないのである。否、人喰い自身の目的―――青年を殺害し、羅刹の呪縛から解放される事―――を考えたなら、むしろソレはマイナスの要素しか持たないのだ。そんな迂闊さを見せるのは圧倒的な戦力差……勝利の確信を数瞬のやり取りの内に感じとったからであり、詰まる所人喰いは今宵の余興を盛り上げてみようと……わざわざ伝えなくても良い情報を口にしているのである。
「村上亮という肉体と、村上亮という魂……百二十ニの魂の残骸によってソレらを複製し、『俺』という精神を定着させたモノ……ソレが今、此処に存在している俺だ」
本来、人喰いは用心深く、狡猾である。そんな彼が『余興を盛り上げる為』などといった理由で無意味な言葉を発する事などはありえない。だが、現に人喰いは青年にとって有益な情報を与えている。そこには絶対的な自信と、彼に残された僅かばかりの人間性が見受けられた。
永い永い孤独の間に磨り減り砕けた、人間らしさのひと欠片。
―――有体に言えば、人喰いは村上亮を気に入っていた。
だから彼は青年との殺し合いを、一方的でつまらないモノにしたくはなかった。悠久の孤独を癒し、彼に成り代わってもなお、彼を忘れぬよう……均衡し、逼迫し、熱中する……そんな殺し合いを求めていたのである。
「この間も言ったが、俺たちの存在はダブってるんだよ。肉体的にも、魂魄的にもな」
多重存在って言うんだが……。人喰いはそう言葉を繋げてから、刀を僅かに持ち上げた。
その動作に青年は一瞬身構えるも、どうやら人喰いに攻撃の意思は無いようで、ソレが青年へと振るわれる事はなかった。
「皮肉なモンだろ。俺を捕らえ、呪っていた刀が……今、俺の手に握られているなんてな」
そこまで言われて、青年はようやく気付く。眼前にて白く妖しげに光る凶器が、自らの刀と同質のモノである事に。
「気付いたか。ま、厳密に言えばコピーだが……それでも、本物と同等の力は持っちゃいるぜ?」
予知じみた紙一重の回避、一瞬にして背後へと移動した瞬発力、大地を裂いた黒い亀裂……。その力は紛れもなく、青年の……否、羅刹に記録されている鬼の異能と同様のモノである。
「だけど、俺は……」
それでも先ほどの現象には説明がつかない。青年の知っている異能力には、刀をはじき返す様なモノなどはないのだから。
「確かに、兄弟の持ってる力にはそんなモンは無いな。けど……何か忘れてねぇか? 俺がお前の体を借りたあの日、山ん中の神社で戦ったあの悪魔を」
瞬間、青年の脳裏に過ぎる、顔の無い化物。突然襲い掛かってきたトレンチコートの悪魔。
「ま、悪魔ったって三下も良いトコの下級悪魔だが。奴さん、羅刹の魔力に惹かれてノコノコやってきたのが運の尽きってな……肉体構成に不足していた魂魄と魔力。そのついでに吸収したのが今の『鋼化』だ」
もしも奴が現れなかったら、刀をぶっ壊す気でいたんだが……よくよくコイツには縁があるらしいな。ゆらゆらと刀を揺らしながら、人喰いは複雑な表情を浮かべてそう言った。
「単純に肉体を頑強にするだけの能力―――人間よりもタフな悪魔が使えば強力だろうが。元が元だけに、今の俺が使ったところで致命傷を防ぐ事くらいしかできねぇ……中途半端なモンだ。もっとも、さっきみたいな不完全な一撃ならはじき返せるみたいだが」
言葉を区切る。傍らから見守る瑞希にも解るほど、人喰いの殺気は鋭くなっていった。無言の圧力が、ネタばらしは終わりだと告げている。
緩やかに、グラウンドが闇に包まれた。月を雲が覆い隠し、音も無く月光が途切れたのである。
ソレが合図とばかりに、二本の刃は静止を止める。
刹那、殺し合いが再開された。
……
先手を打ったのは人喰いだ。眼前にて彼を待ち受ける青年目掛け、暗闇の中を疾駆する。
「そら!」
声と同時に振るわれる、神剣の模造品。ただただ強靭な腕力によって繰り出される斬撃が、青年を分断せんと恐るべき速度で空を裂いた。
『眼』を用いてもなお霞む速度。頭上より迫る悪夢の一撃を、青年は真正面から迎撃する。
圧倒的な破壊の予感。その様は、さながら宇宙を行く彗星同士の激突だ。白銀の尾を引く弧状の軌跡が、空中にて切り結ばれる。
「ぁ―――?」
声にならぬ声。瞬間、青年の脳髄に閃いたのはある種の直感だ。
有無を言わせぬ理屈ぬきの恐怖。あの刃を受け止める事は出来ない……即座にそう判断し、青年は切っ先を手前に引いた。
刀身の側面……鎬の部分を滑らせるようにして、人喰いの必殺を受け流す。接触箇所から火花が散った。
防御から回避へ瞬時に転じた青年の判断力と人間離れした技術に、鬼はニヤリと笑みを浮かべる。正面から受け止めようものなら刀のみを『砕断』し、体を二つに割ってやったのに……。彼の笑みは、先ほど与えた情報を青年が有効活用した事に満足し、自然とこぼれたモノである。ソレでこそ、殺しがいがあると。
刀を振りぬいた鬼と、ソレを受け流した青年。明らかな隙を晒している人喰いに対し、けれど充分な反撃を与えるには距離が近すぎる。刀身同士が絡む程の近距離では、刀を振るう事はかなわない。
仕切りなおしだ。青年は一歩後ろに後ずさり―――けれど人喰いはソレを許さず、さらに体を接近させる。
「ば―――」
馬鹿な。そう続けようとした青年の声は、鬼の繰り出した左腕によって中断させられた。
インファイト。お互いに武器を有しているのにも関わらず、人喰いはその間合いの内……刀の使えぬ接近戦を仕掛けた。そこには何かしらの意図があるのだろうか。
思考は鬼の正拳によって吹き飛ばされる。青年は咄嗟に、空いている左腕でそのストレートを受け止めた。
「―――!」
ゴッと、骨の砕ける音が響く。不安定な体勢の為躱しきれぬと判断しての行動であったが、予想以上の威力を持っていた鬼の拳は容易く青年の骨を破壊した。
「もう一発だ」
呟いた人喰いはあろう事か刀を手放し、空手になった右腕で青年の腹部を打ち抜く。
「させ、るかよ!」
左腕に走る激痛。青年は歯を食いしばり『跳進』を起動させた。
瞬時に、両者の間には三メートル程の空間が出来る。虚空を切るだけに止まった鬼の右腕には、手放した刀が再び収められていた。
初めから青年が後方へ逃げる事を予想していたのだろうか、人喰いは流れる様に身を捻ると、バネ仕掛けじみた動作で刀を投げ放つ。
不気味な音を立てて、白光する凶器が飛翔した。
「え!?」
人喰いの突飛な攻撃に唖然とするのは一瞬で、青年は即座に身を屈める。
言うまでもないが、本来日本刀は投擲する為の武器ではない。故に、ソレを放り投げた所で命中させる事は困難だ。目標が動く物体であるのならなおさらで、案の定、鬼の刀は青年の頭上左側を大きく飛び去っていく。
当然だ、あんな攻撃が当たる筈は無い。青年は刀から眼を離し、視線を前方に向け……自身の目を疑った。
人喰いが、いない。
「上だ、亮っ!」
少女の声が弾ける。
青年は反射的に空を見上げ―――其処に敵の姿を見た。
手には羅刹に良く似た刀。青年と同じ顔が、薄っすらと微笑んだ。
コンマに満たぬ時間。異能の眼によるセカイの逆行は、生存する為に―――鬼の攻撃を防ぐ為に―――必要な情報を青年へと与え、彼は最も正解に近いモノを選択し、行動する。
青年を垂直に刺し貫こうとする鬼の刃。首筋にまで押し付けられた死神の鎌を止めるため、今度は亮が空手となった。
「うおおおっっ」
バチンと、乾いた音が一度だけ鳴り響く。まるで周囲の空気が固体となってしまったかの様に、二つの影は動きを止めた。
突き出した両腕の先に握られた刀は、同じ様に突き出された両腕によって無力化されている。所謂、真剣白刃取りである。
人喰いが足場の無い宙にいた事による腕力差の消失と、解離の眼という人ならざる異能によって、その奇跡は形を成した。
ゆっくりと、セカイが動きを再開する。自身の重さに耐え切れず、青年は人喰いもろとも地面に倒れこんだ。
間髪入れずに起き上がる。土煙の向こうには、やはり即座に起き上がった自分自身の姿が見えた。
自分でも信じられぬ様な攻防を繰り広げた青年は、昂る心臓を無理矢理に押さえつけ敵の様子を慎重に窺う。
もうもうと立ち昇る土煙が次第に晴れて行く。ソレと呼応するかの様に、雲の切れ間から眩い月光が差し込んできた。
無垢なる光に射抜かれた鬼は―――冷たい笑みを浮かべている。
そうして大振りな動作で一歩青年に近づくと、彼らしからぬ小声でぼそりと言葉を発した。
「―――わりぃな、兄弟」
刃物じみた殺気が、さらに濃密なモノへと変貌していく。
制御できぬ感情を無理矢理に抑え付け―――抑え付け、抑え付け、精一杯に抑え付け……。限界を超え、堰を切ってしまった時の様に……溢れかえった凶々しい殺気は、常軌を逸する程に強く強く脈動していた。
「さっきはああ言ったけどさ。やっぱり邪魔だわ」
揺ら揺らと辺りを満たしていた黒い感情が、一人の少女へと向けられる。
すぅ―――と、鬼の右腕が音も無く、天を掻く様に伸ばされた。
「ソイツ―――先に殺す事にしたから」
「何を、言って……」
言葉を区切ったのは、青年が人喰いから絶望的なまでの『力』を感じたからである。村上亮という器を持ってしても受け入れられぬ程に異質で、異常な力。
―――人喰いの異能が、発動する。