黄昏世界/逢魔ヶ刻
◇ ◇ ◇
気が付くと家に居た。どうやら途切れそうな意識のまま、フラフラと家に帰ってきたらしい。酷い頭痛がする。
静かすぎる部屋。誰もいない家に帰ってきた俺は、グラグラと揺れる感覚に耐え切れずソファに身を沈めた。
カチコチと時を刻む秒針。自らの息遣いすら、嫌に響く。
……喰ラエ。
か細くなっていく意識と引き換えに聞こえ始めた、声。十分ほどの間隔で俺の脳髄を蕩けさせる。機械的なカウント音と相まって、それは最高に気味の悪い不協和音となった。
あぁ―――狂ってしまいそうだ。
……喰ラエ。
俺は少しでも気を散らそうと、テレビの電源を入れる。
「―――ぁ」
モニターに映った『人間』を見て、あの声がざわついた。
肉ダ肉ダ肉ダ……。
喉が鳴る。画面の中の『人間』が、とても美味しそうなゴチソウに見えた。
「あああぁあ」
何だ? 俺は……一体どうなっているんだ?
まるで―――自分が自分じゃなくなるみたいに―――
喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ喰ラエ―――
「あぁああああああああああああ」
―――俺の意識は断絶した。
……
走っていた。いや、実際のところ今も走っている。
何処までも続く空間。空と大地の捻じれた、渦の様なセカイをただひたすらに。
背後から迫るアイツから、只ひたすらに逃げている。
「はぁ……はぁ……」
なんだか解らない、けれどとても恐いもの。純粋な恐怖から、足は地面を蹴り身体を前へと
走らせる。
逃げなくちゃ、逃げなくちゃ。これ以上ないってくらいの全力疾走。心臓が悲鳴を上げた。
木々の生い茂る森を抜け、小さな小川を渡り……小高い丘を越えてもなお、ソイツは後についてくる。息せき切って駆け抜けて、それでもソイツはついてくる。
何時終わるとも知れない鬼ごっこ。鬼は『俺』で逃げているのも『俺』。確信はないけれど、予感めいたモノを感じた。多分、恐らく、追ってきているのはアイツだろう。
『俺の貌をしたアイツ』だろう。
自分自身に追われる、なんて。まるで禅問答だ。
「はぁ……はぁ……あッ」
余計な事を考えたせいだろうか……それとも、そもそも体が限界だったのか。俺の脚はもつれ、ガクンと膝が折れた。
「あ―――」
捕まる。捕まってしまう。
一心不乱に俺を追っていた足音が、ピタリと止まる。
アイツが、すぐ後に、いる。
「く……そ、」
体を起こし後を振り向くと、まるで当然の事の様にソイツは其処にいた。
「よう、兄弟。そろそろ覚悟は決まったかい?」
実に愉しそうに、俺の貌はそう言った。以前とは比較にならぬほど流暢な言葉である。
「お前は……お前は一体『何』なんだ?」
不安を紛らわす為に強い調子で尋ねる。
「……その質問は、前にも答えたぜ?」
芝居がかった動作。両手を大きく広げ、勿体ぶって続ける。
「俺は、『お前』だよ」
自分と俺とを交互に指差して、以前と同じ答えを口にした。
「ふざけるな! 俺がお前だと!?」
「違う違う。『俺が』お前なんであって、お前は俺じゃないよ」
「―――? どういう、ことだ?」
「良いか兄弟? 人には……否、モノにはそれぞれ確立した『個』がある。確固たる目安……
自己と他を別け隔てる境界線が。いつだったかあの気に食わない男が言っていただろ? 何者をも受け付けない絶対の内向……究極の閉じた世界こそその本質ってな。言い換えるなら、そう、自己認識ってヤツだ」
とても以前のソレと同一の存在であるとは思えないほど、ソイツは饒舌に語る。
「例えば……そうだな、お前は何を持って自分を自分だと認識する? 朝起きて鏡を見て、自分の顔が映ったらあぁ俺だ……なんてそんな手間かけるか? 違うだろ? 自分は自分……それは何をしても覆らない絶対法則として無意識に成り立っている。思想とか立場とかそういうものじゃない、存在としての自分だ。その絶対の認識である筈の『個』が、俺には欠如している」
辺りを見渡し、わざとらしく溜息をつく。どうやらソイツは、ソレを語る事を愉しんでいるらしい。
「だからさ、兄弟。俺はお前のカタチを借りる事でしか、俺として存在する事が出来ないんだよ」
俺はお前でお前はお前。理解は出来るけど、納得する事は出来ない。
他人としてしか存在できない? そんな在り方は歪だ。
言葉には出さなかったが表情に出たのか、ソイツはそんな俺の考えを看破して反論する。
「確かに俺だって、そんなふうに在る事は変だって思うぜ? けどさ、そういう在り方をしなけりゃそもそも存在する事すら出来ないんだ。このクソったれなセカイに捕り込まれた時点で俺自身の『個』なんて揺らいじまったんだから」
先程までとは一転し、ソイツは露骨に怒りを表す。
「だから俺は、お前があの刀を握るまでこうやって存在する事すら出来なかったんだ。概念として記録されているだけで、自由意志とかそういうのはなかったんだからな」
「かた、な……羅刹の事か?」
「そうだよ……忌々しい、あの刀。お前があの夜、偶然その身に宿した呪いだ」
輪廻の呪い。混血のモノに宿る、鬼としての証明。記録装置。
「だがな兄弟? お前が刀の宿主になったのは偶然でもなんでもないんだと、今はそう思うぜ? 能動的に『吸収』するお前と受動的に『記録』し『再生』する刀……皮肉なもんだ。鬼が鬼である為に創ったモノが人間に奪われ、あまつさえ対極を成しているんだから」
一歩、ソイツは俺に近づいた。
「そうだ、だから全部は必然なんだ。お前が今まで戦ってきた者達は、あの魔神へと繋がっている。不死身の能力も、弓兵との一戦も……あの男と戦う為には必要だった。魔術師に殺されず、バロールを殺す為には―――全部が必要だったんだ」
一歩、ソイツは俺に近づいた。
「でもな? 兄弟。まだ、足りないんだよ。最低でも、あと二人分は欲しいんだ」
一歩、ソイツは俺に近づいた。
「だからさ、兄弟」
狂気を孕んだ視線が俺を見据えた。
「少しばかり、『お前を借りる』ぜ?」
流れる様な動作でソイツは俺に覆いかぶさると―――
―――俺の首筋に、噛み付いた。
……
カチコチという、規則的な音で目が覚めた。
西日に赤く染められた部屋。点けっぱなしのテレビから時報が流れる。どうやら今は十八時らしい。えーっと、家に帰ってきたのが昼過ぎだから……五時間程度気を失っていた計算になる。
「……それでは、九月五日のニュースをお送りします」
不意に、ニュースキャスターの男性の言葉が引っかかった。
九月―――五日? それ、ちょっとおかしくない?
ホームルームで文化祭の話しをしたのが二日で、宮山の家にDVDを見に行ったのが次の日の三日。んでその次の日の四日―――つまり今日―――は学校を休んで……アレ? どうやっても五日にはならないんだけど……。
そこで俺はその考えに至る。もしかして……気を失ってから丸一日以上が経過したのではないのか、と。
いや、それはおかしいな。だって……急な出張でもない限り、父さんが家に帰ってくる筈なのだから。
「昨日、九月四日は例年よりも……」
突拍子もない考えを、テレビが肯定した。という事は―――父さんは出張に行ったのだろう。確かに都合の良い話だが……有り得ない事は無い。
「―――」
体が痛い。固いフローリングに一日以上寝ていたらのだ、節々が悲鳴をあげている。
とりあえず起き上がるかと―――当然であるが―――思い至って、俺はその異常に気がついた。
「―――?」
動けない……?
感覚は有る。だが、まるで命令系統だけが途切れてしまったみたいに、俺の体が言う事を聞かない。そんなバカなと何度も試みるが、俺の体は一向に動く様子を見せない。
「―――」
あれこれ試行錯誤をしているうちに、俺の体が立ち上がる。なんだ動くじゃないかと安心したのも束の間、俺の肉体は俺の意思を無視して歩き出した。
「―――」
そうして気付く。俺は先程から、声すら出せていなかった事に。
それは言いようも無い程の恐怖だった。自分が自分でないみたいに、意思と行動が一致しない。まるで……誰かに体だけを乗っ取られたみたいだ。
―――少しばかり、『お前を借りる』ぜ?
……そういう、事か。
さっきまで見ていた夢の内容を思い出す。俺の貌をしたアイツ。アイツから逃げる俺。嘘みたいな話と首筋に噛み付かれた事。
あぁ、だから今、俺を動かしているのは俺じゃなくって……。
俺の貌をした、アイツなんだ。
荒々しく、俺の体は冷蔵庫を開けた。瞬間、アイツの感情が流れ込んでくる。
……とても、腹が減った。
冷蔵庫の中を手当たり次第に物色して、豚バラ肉のパックを見つける。俺の体は躊躇せず、ソレを生のまま貪った。
―――ガツガツガツガツ。
吐き気がした。冷蔵庫中の肉という肉を、俺の体は生のまま平らげたのだ。
そうして食べる物がなくなると、俺の体は歩き出す。何処に行くのかと推測する事一瞬、その考えに思い至る。
「―――」
俺の体が、ニヤリと微笑む。多分、俺の考えを肯定したのだろう。
ガチャリとドアを開けて、俺の体は家の外へと……より多くの肉がある街へと飛び出した。
◇ ◇ ◇
夕暮れ、黄昏、逢魔ヶ刻。昼と夜との境―――人と異形の時間の狭間を、人の形の獣が闊歩している。たぎる欲望……空腹を満たすただそれだけの為に、獲物を求めてさ彷徨っている。
あぁ、どうか、誰とも出くわさないで。獣の内の、ヒトの人格―――否、肉体の真の持ち主―――は、神にもすがる思いでそう祈った。
彼の意思に反し、彼の肉体はフラフラと街を進んでいく。目的地はない。エサと出会えれば良いと、運に任せて行動している。
荒い息遣い。狩りを愉しむ獣の様に、ソレは上機嫌に街を行く。
否、狩りを愉しむ獣などいない。彼らにとって狩りとは、生き残るための術なのだ。だから獣は生きる為に狩りをする。狩りが愉しいなど、自然の中では有り得ない。生命を弄ぶ事を、動物達は好まない。
だからこそその存在は異質であり、反自然的であった―――
愉しそうに……実に愉しそうに街を……狩場を行く獣。
―――趣味と実益が合致した、人の姿をした獣の存在は。
十分程歩き回ってみたが、一向に獲物は現れない。獣は場所が悪いのかと、狩場を変更する為に少しばかり入り組んだ道を行く。
それでもなお、彼は獲物を見つける事が出来なかった。空腹に耐えかねていっそ民家に侵入しようかと思い至ったその時、獣の嗅覚は獲物とは別のモノの匂いを感じ取った。
同時に、肉体の変調にも気がつく。せっかく奪った主導権が、再び元に戻ってしまう。
僅かばかり思案し、獣はその匂いの下へと向かった。
長い石段。神社の在る山の麓。天を見上げ、彼は階段に足をかける。あの世とこの世を繋ぐ黄泉平坂。この世ならざる異空間を、三段飛ばしで駆け上がる。
早く早く―――この体が、自由に動かせるうちに。
天へ天へと上っていながら―――地獄へ堕ちていくかの如き錯覚に囚われる。それでも良いさと獣は嗤った。そう、『鬼』はもともと地獄の住人。むしろそちら側こそが相応しいのだと。
そうして……獣は社に辿り着く。自分と同じ、古い匂い……時代を超えてきた、過去の遺物。
「―――」
コレでなら……或いは……。獣は期待に胸を膨らませた。
その時……。
「ソレヲ……ワタセ」
突如、声が響く。反射的に振り返ると、彼の正面には―――奇妙なモノが立っていた。
黒いトレンチコートを纏った長身の人物。その顔には、幾重にもわたって包帯が巻かれている。
包帯のせいで人種や性別は解らない。だが、少なくともそれが「人外」のモノであると、同じ人外の獣にはそう感じ取れた。
「ソレヲ……ワタセ」
感情のない、機械の様な声。
『ソレ』が何を指しているのかは解らないが……そんなこと彼には関係がない。
獣の胸中にあるものは一つ。
―――ただ、眼前のエサを喰らうのみ。
*11/22追記
本文を大幅に改変しました。