ホタルノヒカリ/闇夜にて
◇ ◇ ◇
眼前のモノを『敵』だと認識するやいなや、青年の体は行動を開始する。
疾風の如き疾走。一目散に駆け出した青年は、黒色の巨人……魔術師の使役する使い魔へと数瞬で肉薄した。
ヒュっという、短い呼吸。振り抜かれた青年の腕には、破魔の刀が握られている。
二度の実戦を経験した青年は、まるで瞬きをするような自然さで羅刹を具現化する事が出来るようになっていた。
一呼吸遅れて、黒い巨人の片腕が雲散する。同時に、ソレに刺し貫かれていた女性が地面へと落下した。
ドスンという鈍い音。続いて、うぅ、という呻き声が聞こえた。
生きている!
亮は僅かに安堵した。
長くは持たないだろう……医学的な知識のない彼にさえそう思えるほどの失血量……だが、不死身の異能を吸収した亮の血液には傷を治癒する力がある。眼前の敵を倒しさえすれば、彼女を救うことは可能なのだ。
片腕を失った巨人。黒い質量を前にして、亮は羅刹を正眼に構えた。
羅刹のなせる業である。もともと亮は、剣術というモノを知らない。
だが、羅刹にはその創造から今に至るまでの宿主の技が記録されている。
鬼の歴史は古い……羅刹にもまた、古代より続く長い歴史がある。その長い歴史の中には、剣に秀でた宿主も存在していた。
亮は、羅刹に記録されているその技を自身にフィードバックする事で、蓄積された経験をも自身のモノとして扱うことが出来るのだ。
……。
時間にすれば数秒の、僅かな沈黙。深く沈んだ、静止した時を破ったのは、漆黒の巨人であった。
意思を持たない筈のソレが、まるで腕を切り落とされた怒りを表すかのように、顔にあたる部分を鈍く発光させる。
―――ざざ、と、空間がざわめいた。
神秘を成す力……魔力と呼ばれるモノが、公園に広がる血溜りを呼応させる。
次の瞬間、赤い液体はまるで生きているかのようにその姿を刃へと変えた。
ゆらゆらと隆起したソレは、眼前の敵を排除すべく地面を疾走する。
一直線に伸びる赤い刃。地面を抉りながら青年へと迫るソレは、魔力によって生じた高圧の凶器だ。直撃すれば、ただでは済むまい。
だが、異能の『眼』を持つ青年にとって赤い刃は、欠片ほどの脅威にすらならなかった。
スローモーションの攻撃を横っ飛びに躱すと、流れる様な動作で巨人へと斬りかかる。
否、斬りかかろうとした。
振り上げた刀を止めたのは、背筋を震わせる様な悪寒だ。
……な……に……?
そして青年は目撃した。たった今躱した筈の赤い刃が、グニャリと軌道を曲げる瞬間を。
同時にソレは地面から、あろうことか青年の首に目掛けて『発射』された。
「っ……うおぉおおおおおおお」
咆哮した。
巨人を攻撃する為の行動を、飛翔する凶器を払う為の動作へと瞬時に切り替えるには、肉体の限界を超えねばならない。故にソレは、酷く滑稽である。だが確かに、彼の刃は赤い凶器を斬り払った。
雲散する血液。
闇雲に刀をぶつけただけでは、魔力の刃を止める事は出来ない。巨人から発せられた魔力は血液全てに満ちているのだ。斬られたところで分裂し、青年を穿つだろう。
だが亮の握る神剣は、その魔術行使そのものを無効化した。
……長い年月を経たモノには、霊的な力が宿る事がある。
気の遠くなるほどの時間に練磨された羅刹にはいつの頃からか『ただ斬りつける』だけで魔力を拡散させる、破魔の力が宿っていた。
神秘を行うモノ達にとっては天敵とさえ言える力である。
先日青年達を襲った残留思念を打倒し得たのも、強力な破魔の力に因る。
本来ならば斬撃の通用しない概念的なモノですら、その存在が魔力に起因するのなら、この刀は本来以上の威力を持って断ち切る事が出来るのだ。
限界を超えた筋肉が軋みをあげる。痛みという信号を無視して、青年は体勢を立て直した。
無茶な動作は彼の筋繊維をいくらか断裂させていたが、それも数秒の間に回復している。
破魔の刀と異常治癒能力……強力な盾と矛を持った青年に対し、心すら持たない使い魔ではその戦力に大きな差があった。
勝敗は既に決していると言っても良い。
だが、使い魔である巨人に撤退という概念はない。
巨人の顔が、再び発光する。
迸った魔力が血液を満たすその前に、青年の体が弾けた。
だん、という踏み込み。射程圏内に到達するやいなや、青年は手にした凶器を振るった。
銀光が、二度閃く。一度目は巨人の腰を、二度目はその首を……狙い過たず切断した。
「……!」
声にならない声。音無き断末魔をあげて、巨人はその姿を消した。
◇ ◇ ◇
「よし、後は……」
地面に倒れ伏した女性に駆け寄る。夥しい出血……あと数分も持たないだろう。
「俺の血液で……」
俺は羅刹を固く握り締めると、自分の左腕に押し当てた。
自分を切るという行為……予想されうる痛みに、一瞬だけ躊躇する。大きく深呼吸し、歯を食いしばって……。
左腕を深く切りつける。
―――瞬間、俺は我が目を疑った。
「●●●●ーーーーー!!!」
言語にすらならぬ、苦悶の絶叫。眼前の女性は、あろうことか自身から溢れる血液によってその身体を切り刻まれた。
「な……っ」
突然の出来事に……脳がついていかない。
「なんで……?」
敵は……黒い巨人は……倒した筈だろ?
なんで……こんな……。
「ほう……何やら騒がしいと思えば、新しい羊か……」
宵闇を凝縮したような声。身に纏いしは漆黒……他を拒絶するかの如き黒色の外套。
「お前が……魔術師……」
「いかにも……我が名はロード=ヴァレンディア・アトラクト」
呟きに答える様に、黒衣の魔術師は名乗った。
―――果てしない……憎悪の表情を湛えて。