夜景校舎/氷桀結界
◇ ◇ ◇
境界が変容した。
昏々とした闇の上を、白銀が跳ねていく。
不可視の力がセカイを白く塗りつぶし、辺りはその様子を一変させた。
眼前に広がるは、荒涼たる雪原。
一呼吸のうち、学舎は狩猟場へと変化した。
そこに在るモノは二つ。狩る者と狩られる者。被害者と加害者。
白い世界は、相克を内包していた。
雪原は狩猟場であると同時に、闘技場でもあったのだから。故にその意味は通常のソレとは異なっていた。
本来、捕食とは一方的なモノである。被食者は、その身を護る為に渾身を持って逃走する。そう、被食者が捕食者を狩るなどという事は、世の理から外れた起こり得ない異常であり、お互いに相手を打倒する手段を有しているのなら、それは狩りではなく闘争だ。
そういった意味では、その雪原は紛れも無く闘技場である。命を奪うために対峙する、という意味では。
白い世界が狩猟場と呼ばれる所以は、別にある。
雪白の空間。その中心に、狩人がいた。抜き身の刀を思わせる鋭い殺気。両の眼は、ただ獲物だけを凝視している。
手にする凶器は長弓。三日月を模したような鉄製のソレが軋みをあげて、十五メートル程先にいる標的へ、鏃が向けられた。
男から発せられている殺気が、鋭さを増す。引き絞られた弓。照準は狩人としての経験と勘。
猛る心臓。反面、その思考は澄んだ水面のようであった。
紛れも無く、この男は本物だ。
死の淵に立たされた獲物は、逃げる事をしない。
否、逃げる事が出来ない。蛇に睨まれた蛙の様に、刀を手にした青年はその動きを停止していた。
長く伸びた廊下。弓を手にした狩人の支配する狩猟場。必殺の手段を有しながら、それを行使できない空間。故に其処は闘技場ではなく、けれど本質的には狩猟場とも異なる。
紛うことなき結界領域―――超常の蔓延る、人外魔境であった。
「……ッ」
僅かな呼吸音。脳からの指令である電気信号が、男の隅々まで伝播した。
体が、人を殺めるモノへと変化する。
形が変わるのではない、その在り方が変わるのだ。極限まで研ぎ澄まされた感覚。無駄を排除した男の集中力は、獲物以外を視界の外へと追いやった。
当たる!
予感ではなく確信。命中のイメージ……標的へと吸い込まれる矢を想像し、ソレを放つ自分を空想した。現実に想像を投影して、必中のソレを模倣する。
重ね合わせられた自分。
虚像と実像が結びついた瞬間。
限界まで張り詰めていた緊張が開放された。
空気を切り裂く発射音。
十分の一秒に満たない飛翔。狙い過たずソレが目標へと直進したのを、男はしかと見届けた。
無論、その後の怪異も。
「ほう……」
鉄と鉄のぶつかる甲高い音。
狙いは正確である。だが、男の放った矢は標的である青年を傷つける事が出来なかった。
「おもしろい」
男は再び弓を構えた。それでこそ狩りがいがあると微笑して。
◇ ◇ ◇
―――境界が変容した。
セカイが傾いだ様な錯覚。次の瞬間、目の前に白い雪原が広がった。
「なッ!」
すかさず身構える。なんて事はない、これはただの幻覚だ。左腕で頭部を庇う様にしながら、一瞬で敵の位置を確認する。
廊下の中央に人影。俺は確信した。間違いない……アイツが、敵。
脳が判断した瞬間、俺は得物を狩る獅子の様にソレに向かって全力疾走した。
否、全力疾走したつもりだった。
「え?」
異変に気付く。
足が―――
「なん……で」
―――動かない。
まるで磔にされたかのように、足の裏が地面から離れようとしないのだ。
予想外の出来事に、俺は混乱した。
これも幻覚なのだろうか。いや、『幻覚を見せる』力では肉体を停止させることは出来ない筈だ。
鉄が軋む音が響く。
考えている暇はない。俺は羅刹を固く握り直す。敵の得物は弓矢……呆けていたら良い的だ。
予想される事態に備えて身構える。
「全開まで発揮すれば未来予知レベル……だっけか」
先程聞いた瑞希のセリフを思い出して、小さく呟いた。
「なら……やるしかないだろ」
敵の能力は解らない。勝算だって、有りはしない。だからって、諦めるわけにはいかない。護るって、そう決めたんだから。
空気が震える。
両目が熱い。放っておいたら、きっと蕩けてしまうだろう。
だが構わない。ただ眼前の事象だけに集中する。
時間がまるで逆行したみたいに、その事実を告げた。
発射に至るまでの動き。
高まる緊張。鋭い眼光が俺を捕らえた直後、蓄えられた弾性エネルギーが一気に開放される。
その刹那、俺の体は前方より飛来する凶弾を叩き落とすべく行動を開始した。
コマ送りの凶器。
勿論現実において発射された矢の速度は俺が刀を振るう速度を遥かに上回っている。それを迎撃するためには、矢が射出されるより前に行動を開始しなければならない。飛んでくる矢に刀をぶつけるのではなく、振るわれた刀に飛んでくる矢をぶつけなければならないのだ。
そして解理の眼は、その為に必要な情報を俺に与えてくれていた。
鉄と鉄がぶつかる甲高い音。
俺は確かに、その初弾を迎撃した。