婚約破棄されました——ええ、冷酷で結構。ですので“私が切り捨ててきたものの価値”を、これから国ごと理解していただきます
謁見の間に、静寂が落ちた。
それは不自然な沈黙だった。百を超える貴族たちが居並ぶ大広間で、誰一人として咳払いひとつしない。シャンデリアの蝋燭が揺れる音さえ、やけに大きく聞こえた。
王太子アルフレッド・ルシアン・エルンスト・フォン・ヴァルトハイムが、玉座の前に立っていた。二十三歳、黄金の髪に青い瞳、民衆が「太陽の君」と呼ぶ、その顔。整った容貌に、今は感情が滲んでいた——苦悩と、それを振り切ったような決意が。
その視線の先に、ヴィクトリア・エレナ・フォン・クロイツベルクが立っていた。
公爵家の令嬢。二十一歳。黒髪を厳格に結い上げ、群青色のドレスをまとい、背筋を定規で測ったように伸ばして。表情は、なかった。正確には——どんな感情も、外へ出ることを許されていないような顔だった。
「ヴィクトリア・エレナ・フォン・クロイツベルク」
アルフレッドの声は、よく通った。
「私はあなたとの婚約を、本日をもって破棄する」
ざわ、と広間が揺れた。予期していた者もいた。だが実際に言葉にされると、その重さは別物だった。三年間の婚約。次期王妃として確定していた女性の、公開の場での罷免。
アルフレッドは続けた。声に、力を込めて。
「あなたは冷酷だ。民を数字としか見ない。先月も貧民街の施療院への補助金を打ち切り、冬を越せない者を何人も出した。半年前には、地方貴族フォン・ハルバッハ伯爵家の全資産を没収した。理由は帳簿の不正——しかしその処罰は、伯爵夫人と幼い子供たちをも路頭に迷わせるものだった。あなたの政策は、常に弱者を踏みにじる。そのような方が、この国の王妃になることを、私は認められない」
静寂。
今度は別質の静寂だった。全員が、ヴィクトリアを見ていた。
彼女は動じなかった。
瞬きの回数さえ変わらず、アルフレッドをまっすぐに見返して、ヴィクトリアはゆっくりと口を開いた。
「ええ、すべて事実ですわ」
また広間が揺れた。今度はより大きく。
「ご指摘の通り、施療院への補助金は打ち切りました。ハルバッハ伯爵家の資産は没収しました。他にも、あなたのおっしゃる"冷酷な政策"は、私の決定によるものです。否定するつもりはございません」
彼女は一礼した。流れるような、完璧な礼。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします。三年間、お世話になりました」
それだけ言って、ヴィクトリアは踵を返した。
誰も、止めなかった。
ただ一人——ヴィクトリアの背後に控えていた侍女のマリアンヌだけが、その背中を見つめ、唇を噛んでいた。
ヴィクトリア・エレナ・フォン・クロイツベルクの評判は、貴族社会においても、平民の間でも、一様に悪かった。
それは珍しいことだった。貴族に嫌われる貴族は多い——権力の座をめぐる嫉妬や競争は常にある。しかし平民にまで嫌われる貴族令嬢となると、よほどのことだ。
ヴィクトリアは、よほどのことをしてきた。
最初の大きな話題になったのは、彼女が王太子の婚約者として政務補佐の地位を得た、三年前のことだ。当時まだ十八歳だったヴィクトリアは、着任して一週間も経たないうちに、王家直轄の慈善基金の監査を要求した。
この基金は、孤児院や病人への施しを目的とした、国民に広く知られた制度だった。先王妃が設立し、貴族たちが競って寄付をする、いわば"善意の象徴"だった。
監査の結果は、凄惨だった。
基金の運営を委託されていた三つの貴族家が、総額で王国年間歳入の一・三パーセントに相当する金額を、二十年にわたって横流しにしていた。孤児院には本来届くべき物資の三分の一しか渡っておらず、慈善病院は王室の名のもとに寄付を集めながら、実態は貴族の別荘として使用されていた。
ヴィクトリアは三家の当主を全員、例外なく告発した。
情状酌量はなかった。「長年の功績」も「家格」も「子供がいる」という事情も、一切考慮されなかった。三家は資産の大部分を没収され、爵位を剥奪され、うち一家は当主が禁固刑を受けた。
貴族社会は震え上がった。
同時に、怒り狂った。
"冷酷令嬢"という陰口が生まれたのは、この頃だ。
しかし平民の間でも、ヴィクトリアへの印象は複雑だった。慈善基金の不正が暴かれたことで、孤児院や病院に届く物資は一時的に増えた。だが翌年、ヴィクトリアは「基金の運営を見直す」として、慈善基金そのものの規模を三分の一に縮小した。
「不正を暴いておきながら、基金を削るとはどういうことか」という声が上がった。
施療院の経営者たちは陳情に訪れた。孤児院の修道女たちは嘆願書を提出した。
ヴィクトリアは全員に会い、全員の話を聞き、全員の申請を却下した。
「予算の使途に透明性を確保できない施設への支出は、継続しない」
それだけが理由だった。感情はなかった。謝罪もなかった。ただ、数字と論理だけがあった。
施療院の老院長——五十年近くを貧者の救済に捧げた、白髪の老人——が、退室際に振り返って言ったという。
「あなたに、人の心はあるのですか」
ヴィクトリアは答えなかったと伝わっている。
この話は瞬く間に広まり、"冷酷令嬢"の名を不動のものにした。
フォン・ハルバッハ伯爵家の件は、婚約破棄の半年前に起きた。
伯爵のグスタフ・フォン・ハルバッハは、東部辺境の有力者だった。広大な領地を持ち、私兵を抱え、長年にわたって東方との交易路を掌握していた。王都では社交的で通っており、チャリティ舞踏会には毎年多額の寄付をし、民衆の間での評判も悪くなかった。
ヴィクトリアが問題にしたのは、帳簿の一行だった。
東方交易の関税収入の計上方法に、十年以上にわたる組織的な操作の痕跡があった。正確には「ない」ようにする巧妙な操作が。グスタフは交易路の管理権限を利用し、関税の一部を別名目で処理し、差額を私的に流用していた。総額は、庶民が生涯働いても届かない数字だった。
ヴィクトリアは証拠を揃えた上で、グスタフを呼び出した。
後に漏れ伝わった話によれば、グスタフはその場で土下座をしたという。泣いたとも言われている。「家族を守ってくれ」「子供には罪はない」「全額返還する」と。
ヴィクトリアの返答は、一言だった。
「それは裁判所に申し出てください」
グスタフは禁固十二年。資産は全額没収。伯爵夫人と三人の子供は、遠縁の家に引き取られたが、それ以前に一時、文字通り住む場所を失った。
王都の民衆の間でも、この件はよく知られていた。なぜなら伯爵夫人が、泣きながら馬車に乗せられる場面を、多くの人間が目撃したからだ。幼い子供たちが母親の手を握り、振り返りながら屋敷を去っていく。その光景は語り継がれ、語られるたびに「ヴィクトリア様の非情さ」の証拠として引用された。
被害者側の視点で語られるとき、ヴィクトリアに同情の余地はなかった。
誰も、帳簿の中身を詳しく知らなかった。誰も、グスタフが何年もかけて何をしていたかを、正確には理解していなかった。ただ「冷酷な令嬢が、泣く子供から家を奪った」という物語だけが、残った。
ヴィクトリアは訂正しなかった。
弁明もしなかった。評判を守ろうとする素振りも、なかった。
ただ淡々と、次の案件に移った。
それが、ヴィクトリア・エレナ・フォン・クロイツベルクという人間だった。
婚約破棄から三日が経った。
クロイツベルク公爵家の別邸——王都から馬車で一時間ほど離れた、小さな丘の上に建つ石造りの館——の書斎に、ヴィクトリアはいた。
机の上には書類の山。財務報告書、地方行政の視察記録、穀物の収穫高の推計、来年度の税収見込み。婚約者の地位を失っても、彼女の手元に集まる情報の量は変わらなかった。いや、正確には——それらの書類のほとんどは、もはや彼女が関与する必要のないものだった。王太子補佐の権限は、婚約と同時に返上した。
それでも書類は来た。
送ってくるのは、主に部下たちだった。
扉を軽く叩く音がして、マリアンヌが顔を覗かせた。二十五歳、ヴィクトリアより四つ年上の侍女兼秘書。クロイツベルク家に仕えて七年になる、実務能力の高い女性だった。
「カール・ハインツ様がお見えです」
「通して」
入ってきたのは、四十代半ばの男だった。ヴィクトリアの父の代からクロイツベルク家に仕える家令で、表向きは"令嬢の後見人代理"という肩書きを持つが、実態は公爵家が持つ情報網の管理者だった。髪は白髪交じりで、顔には深い皺が刻まれていたが、目だけが鋭く若かった。
「ご報告があります」彼は一礼して、書類を差し出した。「王太子殿下の側近、フォン・ライナー侯爵子息が、昨日より接触を試みています。面会の申し込みが三件」
「断って」
「承知しております。ですが」カール・ハインツは少し間を置いた。「フォン・ライナー家だけではありません。財務省の次官補、それから東部行政府の管理官も、個別に連絡を寄越しています。内容は、いずれも……」
「"戻ってこないか"という打診でしょう」
「はい」
ヴィクトリアはペンを置いた。
「全員断って。理由は特に要らない。ただ、記録だけはとっておきなさい。誰が、いつ、連絡してきたかの記録を」
「……本当によろしいのですか」
カール・ハインツにしては珍しい質問だった。この男は基本的に、主の決定に疑問を差し挟まない。それをした、ということの意味を、ヴィクトリアは理解していた。
「よろしい」
「殿下の新体制が動き始めています。財政顧問には、フォン・グラーフ男爵が就任するとのことで」
ヴィクトリアの指が、一瞬止まった。
グラーフ。東部の中規模貴族で、民衆への施しを惜しまない"善人"として知られる。貴族社会での評判は高く、王太子とは学生時代からの友人だという。財政の専門的な訓練は受けていないが、「民の声を聞く人柄」が買われたと、もっぱらの評判だった。
「……そう」
それだけ言って、ヴィクトリアは再びペンを取った。
「下がっていい」
カール・ハインツが退室する直前、ヴィクトリアは言った。背を向けたまま、書類を見ながら。
「あと二年は、ここにいる。それ以降は——状況次第ね」
家令は何も言わなかった。ただ静かにお辞儀をして、扉を閉めた。
マリアンヌは、その夜遅く、書斎に茶を持っていった。
ヴィクトリアはまだ起きていた。蝋燭の光の中で、計算用紙に数字を並べていた。婚約破棄から三日、王都でどれほどの騒ぎが起きていようと、この人の習慣は何一つ変わらない。
マリアンヌは茶を置きながら、ちらりと紙を見た。数字の羅列。穀物価格の推移と、それに連動する下層民の購買力の関係を、手計算で追っているようだった。
「お嬢様」
「なに」
「……悔しくはないのですか」
ヴィクトリアの手が、わずかに止まった。
「あの場で、あれほどの人前で。殿下のおっしゃったことは、事実の半分しかなかった。なぜ何も——」
「全部事実よ」
「ですが理由が」
「理由を言っても、聞かない人間に説明する時間は、私にはないわ」
ヴィクトリアは顔を上げず、ペンを走らせ続けた。
「殿下は私が嫌いだった。それは知っていた。最初から。国政の優先順位について、私たちの見解は根本から違った。それでも婚約が続いていたのは——」
彼女は少し黙った。
「まあ、それはもういいことね」
マリアンヌは、それ以上聞けなかった。
ただ一つだけ、気になったことを口にした。
「グラーフ男爵が財政顧問になったと聞きました」
「ええ」
「大丈夫なのでしょうか」
今度こそ、ヴィクトリアは顔を上げた。
蝋燭の光の中で、彼女の灰色の瞳が、静かにマリアンヌを見た。
「二年で、答えが出るでしょう」
アルフレッド・ルシアン・エルンスト・フォン・ヴァルトハイムの新政策は、発表と同時に民衆の熱狂を呼んだ。
婚約破棄から十日後のことだった。
王城の広場に集まった市民の前で、アルフレッドは宣言した。黄金の髪を風になびかせ、よく通る声で、真っ直ぐに民衆を見て。
施療院への補助金を、段階的に復活させる。
農民への農業税を、向こう三年間、二割削減する。
孤児を抱える家庭への支援制度を、新たに創設する。
地方の陳情窓口を各地に設置し、民の声を直接政策に反映させる仕組みを作る。
広場は割れんばかりの歓声に包まれた。
"冷酷令嬢"に苦しめられてきた民衆にとって、それは夜明けの宣言だった。泣く者がいた。跪く者がいた。「殿下こそが真の王だ」という声が、何百という喉から上がった。
アルフレッドは笑顔で手を振り、民衆に応えた。
その光景は、王都中に伝わった。
翌週には、各地方でも同様の歓迎が報告された。長年ヴィクトリアの政策に反発してきた地方貴族たちが、こぞってアルフレッドへの支持を表明した。東部の有力者たちは使節を送り、改革への協力を約束した。王都の商人たちは減税を見越して設備投資を拡大し始め、市場は活気づいた。
民衆の支持率という概念が当時あったとすれば、それは空前の高さだっただろう。
フォン・グラーフ男爵は、財政顧問として精力的に動いた。善良で、熱心で、民の陳情には必ず耳を傾けた。施療院の老院長がグラーフに面会したとき、男爵は老人の手を両手で握り、「遅くなって申し訳なかった」と頭を下げたという。この話もまた、瞬く間に広まった。
「これが本物の貴族というものだ」——人々はそう言った。
ヴィクトリアの名は、比較の文脈でよく登場した。「あの冷酷令嬢と違って」「やはり人の心がある方こそ」という形で。かつて施療院への補助金打ち切りを命じた女性は、今や民衆の記憶の中で、暗い時代の象徴として固定されつつあった。
別邸の書斎で、ヴィクトリアはそれらの報告を読んだ。
感情を持たない目で、ただ数字を追った。
減税の規模。補助金の増額幅。新設される支援制度の予算見込み。各地の財政状況。
計算用紙に、数字が積み上がっていった。
最初の半年は、本当に輝いていた。
市場の活気は本物だった。減税の恩恵を受けた農民たちの購買力が上がり、商人の売り上げが増え、都市部の雰囲気が明るくなった。施療院には物資が届き、路頭に迷っていた者たちに食料と薬が配られた。
アルフレッドは精力的に各地を視察し、民衆と直接言葉を交わした。その誠実さは演技でも計算でもなく、彼は本当に民のことを思っていた。心からそうしたかった。
誰もが、これが正しい国の形だと信じた。
グラーフ男爵も、その一人だった。
最初の予算審議が始まったのは、改革から七ヶ月後のことだった。
歳入の見込みと、歳出の計画を突き合わせたとき、財務省の主計官が青い顔をした。
数字が、合わなかった。
減税による税収減。補助金の増額。新設支援制度の運営費。各地への陳情窓口の人件費。設備投資への奨励金。積み上げていくと、翌年度の歳出見込みは、歳入見込みを大きく上回っていた。
グラーフ男爵は言った。「経済が活性化すれば、税収は自然に増える。今は先行投資の時期だ」
主計官は頷いた。
そうかもしれない、と思った。
そうであってほしい、とも思った。
ヴィクトリアならば、この時点で何かを言っただろう。数字を示して、反論して、不快な現実を突きつけただろう。しかし彼女はもうここにいなかった。
翌年度の予算は、楽観的な税収見込みのもとに組まれた。
誰も、強く異を唱えなかった。
最初の綻びは、小さかった。
改革から一年が過ぎた頃、東部の関税収入が予測を下回り始めた。担当官の報告によれば、交易商人の一部が申告を低く見積もっているらしいとのことだった。グラーフ男爵は調査を命じた。調査には三ヶ月かかった。その間にも、関税の漏れは続いた。
調査の結果、不正が確認された。
グラーフ男爵は、当該商人を呼び出して、厳重に注意した。
返納を求め、再発防止を誓わせた。
処罰は、しなかった。
「改革の初期に強硬な姿勢をとれば、民との信頼関係が損なわれる」というのが、男爵の考えだった。アルフレッドもそれに同意した。寛容であることが、この政権の根幹だった。
六ヶ月後、同じ商人が、同じ不正をより巧妙な形で繰り返していた。
そして今度は、別の商人もそれに倣っていた。
不正というものは、罰せられないと知られた瞬間に、伝染する。
それは税の問題だけではなかった。
各地に設置された陳情窓口は、当初の目的を少しずつ逸脱し始めた。民の声を聞くための制度が、有力者たちの便宜を図る窓口として機能し始めた。地方の顔役が窓口の担当官と親しくなり、陳情が優遇される代わりに、担当官の私的な利益が図られる。そういう構造が、いくつかの地方で生まれた。
告発は、ほとんどなかった。
なぜなら、告発した者が損をする空気が、いつの間にかできていたからだ。
「ヴィクトリア様がいた頃は、密告が奨励されていた。今はそんな息苦しい世の中ではない」——人々はそう言った。その言葉の裏で、不正は静かに根を張っていった。
別邸にカール・ハインツが来たのは、改革から一年半が過ぎた秋のことだった。
彼は分厚い資料の束を持ってきた。
「東部三州の税収動向です。それから、王都の卸売市場の価格推移、各施療院の実際の運営状況と公式発表の比較、及び地方陳情窓口の処理件数の内訳を、独自に調べたものです」
ヴィクトリアは資料を受け取った。
一枚ずつ、丁寧に読んだ。
マリアンヌは傍らで、主の顔を見ていた。いつもと同じ無表情だった。ただ読んでいる速度が、少し速かった。
「……よく調べたわね」
「お嬢様のご指示の通り、記録を取り続けておりました。判断はお嬢様に委ねます」
ヴィクトリアは最後の一枚を読み終え、資料を机に置いた。
「財政の悪化は、来年度に表面化する。補助金の支払いが滞り始めるのが、早ければ再来年の春。地方の統制崩壊は、もう始まっている」
断言だった。
「介入しますか」カール・ハインツが聞いた。
「しない」
「しかし——」
「まだ早い」
ヴィクトリアは窓の外を見た。秋の枯れ葉が、風に舞っていた。
「人は、痛みを感じるまで変わらない。数字を見せても、まだ信じないでしょう。あの方は——」
彼女は言葉を一瞬切った。
「アルフレッド殿下は、善意の人だ。善意の人が最も厄介なのは、自分の選択が正しいと確信しているときよ。外側からの声は届かない。内側から崩れるまで待つしかない」
「待っている間に、民が苦しみます」
「苦しんでいる民は、今も大勢いる」
ヴィクトリアの声は静かだった。冷たくはなかった——ただ、感情の起伏がなかった。
「私が補助金を削っていたとき、施療院で冬を越せなかった者がいた。それは事実。でも私が削らなければ、五年後に財政が完全に破綻して、施療院への補助金どころか、軍の給与も払えなくなっていた。その未来に死ぬ人間の数と、私の削減で死んだ人間の数を、誰も比べようとしなかった」
彼女は視線を戻した。
「私はずっと、見えない未来の人間のために、目の前の人間を切り捨ててきた。それが正しいかどうかは分からない。ただ、他に方法がなかった」
カール・ハインツは何も言わなかった。
ただ頭を下げて、退室した。
崩壊は、ゆっくりと来た。
劇的な破滅ではなかった。国が一夜にして傾くようなことは、起きなかった。ただ、じわじわと、水が土台に染み込むように、問題が積み重なっていった。
改革から二年目の冬、農業税の二割削減が予定通り実施された。農民たちは喜んだ。しかし同時期に、穀物の卸売価格が下落した。理由は複合的だった——前年の豊作、東方からの輸入増加、そして市場管理の弛緩。農民の手取りは、税が減った分を差し引いても、前年比でほぼ変わらなかった。
それでも誰も文句は言わなかった。少なくとも、表向きは。
問題が可視化されたのは、翌春の予算審議だった。
税収の実績が、見込みを一七パーセント下回った。
グラーフ男爵は対策を検討した。支出を削るか、借入を増やすか、新たな収入源を探すか。
削れるものを探したが、どこを削っても反発が予測された。補助金を削れば、アルフレッドが民に約束したことへの裏切りになる。人件費を削れば、改革を支える行政機能が損なわれる。
結論として、借入が選ばれた。
「一時的な措置だ」と、グラーフ男爵は言った。「経済が本格的に回り始めれば、税収は戻る」
翌年も、同じことが起きた。
そのまた翌年も。
借入の利払いが、新たな歳出となって積み上がっていった。
最初に「おかしい」と声を上げたのは、財務省の若い主計官だった。
名をハンス・フォン・エーベルトといった。二十七歳、平民出身の才媛で、ヴィクトリアが補佐の地位にあった時代に登用した人材だった。
彼は詳細な試算書を作成し、グラーフ男爵に提出した。現状の支出構造を維持した場合、五年以内に国債の返済が不可能になること。そのために必要な財政再建の規模と、それが持つ社会的コスト。
グラーフ男爵は試算書を読んだ。
顔が青くなった。
そして言った。「もう少し楽観的なシナリオで試算し直してくれないか」
ハンスは絶句した。
その夜、彼は別邸に手紙を書いた。宛先は、ヴィクトリア・エレナ・フォン・クロイツベルク。
返信は、翌日来た。
「試算書の写しを送ってください。受け取ります」
それだけだった。しかし、その三文字——「受け取ります」——が、ハンスにとっては何よりも心強かった。
アルフレッドに最初の衝撃が走ったのは、改革から二年七ヶ月が過ぎた冬のことだった。
北部の穀倉地帯の農民から、陳情が届いた。内容は、施療院への支給が遅れているという訴えだった。
調べると、問題は支給の遅れだけではなかった。陳情窓口を通じて処理されるはずだった支援金が、複数の案件で宙に浮いていた。担当官が交代しており、前任者との引き継ぎが不完全で、書類が一部消えていた。消えた書類の行方を追うと、窓口の元担当官と地方顔役との間に、不審な金銭のやり取りの痕跡があった。
アルフレッドはグラーフ男爵に処分を求めた。
男爵は、関係者を異動させ、書面で厳重注意とした。
翌月、別の地方で同種の問題が発覚した。
今度は規模が大きかった。関係者は四名、流用された金額は前回の十倍以上。
アルフレッドは初めて、怒りとともに、微かな不安を感じた。
「なぜ、こんなことが」と彼は呟いた。
傍にいた側近が答えた。「前の体制の悪習が残っているのでしょう」
アルフレッドは頷いた。
そう思いたかったから。
しかし夜、一人になったとき、脳裏にある光景が過ぎった。
三年前。まだ婚約が続いていた頃。ヴィクトリアが執務机の前で、財務報告書を見ながら言ったことがある。
「不正は、罰せられないと知られた瞬間に増殖します」
当時のアルフレッドは、その言葉を冷酷な考え方だと思った。人を信じることの大切さを、この人は分かっていないと思った。
今夜、その言葉が、妙に頭から離れなかった。
別邸に、一通の手紙が届いたのは、そのさらに三ヶ月後だった。
差出人の名はなかった。しかし封蝋の紋章を見て、ヴィクトリアは誰からかを理解した。
手紙は短かった。
「一度、会えないか」
ヴィクトリアは手紙を折り、机の引き出しに入れた。
マリアンヌが傍で見ていた。
「お嬢様、返事は」
「三日、待ちなさい」
「三日、ですか」
「急いで会うことが、誠意だと思われたくない」
マリアンヌは、その言葉の意味を測りかねた。拒絶なのか、受諾なのか。
三日後、ヴィクトリアは短い返信を書いた。
「十日後の午後、別邸にお越しください。お一人で」
使者が去ったあと、マリアンヌは聞いた。
「会うのですか」
「ええ」
「なぜ」
ヴィクトリアはしばらく黙った。
それから、ほんの少しだけ、窓の外に視線を向けた。
「……あの方が、自分の足で歩いてくるなら。それだけは、聞く価値があるかもしれないから」
マリアンヌには、それが答えになっているのかどうか、分からなかった。
ただ、主の横顔に、普段は見たことのない何かが、かすかに滲んでいた気がした。
感情と呼ぶには、あまりにも淡かった。しかし確かに、何かが、そこにあった。
十日後の午後、アルフレッドは約束通り、一人でやってきた。
護衛を館の門前で待たせ、従者も連れず、ただ一人で石畳の道を歩いてきた。ヴィクトリアは書斎の窓から、その姿を見ていた。
黄金の髪が、冬の午後の光の中にあった。三年前と変わらない、整った顔。しかし、何かが違った。肩の線が、わずかに落ちていた。歩き方が、以前より重かった。
ヴィクトリアは窓から離れ、椅子に座った。
マリアンヌが案内してきたアルフレッドは、書斎の扉のところで少し止まった。部屋を見渡した——書類の山、計算用紙、窓際の小さな暖炉。飾り気のない、仕事場そのものの空間。
「……変わらないな」彼は呟くように言った。
「どうぞ」ヴィクトリアは椅子を示した。
アルフレッドは座った。向かいに座るヴィクトリアを見た。彼女も変わっていなかった。黒髪を結い上げ、背筋を伸ばし、灰色の瞳が静かにこちらを見ていた。
しばらく、沈黙があった。
先に口を開いたのは、アルフレッドだった。
「財政の状況は、知っているか」
「概ね」
「概ね、か」彼は苦く笑った。「君のことだから、私より詳しく知っているだろう。正直に言ってくれ」
ヴィクトリアは一瞬だけ間を置いた。
「現状の支出構造を維持した場合、三年以内に国債の利払いが歳入の二割を超えます。東部の税収の漏れは、表に出ている数字の三倍以上と見ています。陳情窓口を通じた不正は、発覚しているものの四から五倍が未発覚のまま。農業支援の予算は、実際に農民に届いている分が全体の六割程度。残りは、行政の経費と、中間で消えている分」
アルフレッドの顔が、少しずつ蒼くなっていった。
「それは……」
「ハンスから試算書の写しを受け取っています。彼の数字は正しい。むしろ楽観的なくらい」
長い沈黙があった。
アルフレッドは両手を膝の上で組み、下を見た。
「なぜ」
ヴィクトリアは答えなかった。
「なぜ、教えてくれなかった」
彼の声に、怒りがあった。ただの怒りではなく——裏切られたような、置いていかれたような、子供じみた切実さを含む怒りだった。
「婚約を破棄したとき。いや、それ以前から、君はこうなると分かっていたんだろう。なぜ言わなかった。なぜ止めなかった。君が黙って引いたから、私は——」
「あなたは聞かなかったでしょう」
静かな声だった。遮るというより、ただ事実を置くような言い方だった。
アルフレッドが顔を上げた。
「私が補佐の地位にいた三年間、私は何度あなたに財政の見通しを示しましたか。不正処罰の重要性を説明しましたか。補助金の構造的な問題を報告しましたか」ヴィクトリアは続けた。「あなたはその度に、私の方法が冷酷だと言った。民の心を理解していないと言った。数字しか見えていないと言った。最後の半年は、政策会議で私が発言すると、側近の誰かが必ず話題を変えた。あなたもそれを、止めなかった」
アルフレッドは何も言えなかった。
「婚約破棄の場で、あなたは私の行いを"民を苦しめている"と言った。私は否定しなかった。なぜだと思いますか」
「……」
「否定しても、あなたには届かなかったから。そしてあの場で私が"実は理由があった"と説明し始めたとして、百人の貴族の前で、あなたは聞けましたか。聞いた振りはできたでしょう。でも信じましたか」
アルフレッドは、長い時間をかけて、息を吐いた。
「……分からない」
「正直な答えね」
暖炉の火が、静かに燃えていた。
マリアンヌが茶を持ってきて、そっと置いて出ていった。二人とも、すぐには手をつけなかった。
「教えてくれ」アルフレッドが言った。今度は命令ではなく、本当に請う声だった。「君が切り捨ててきたものの、本当の意味を」
ヴィクトリアは少しの間、茶器を見ていた。
それから話し始めた。
「ハルバッハ伯爵の件から始めましょう」
彼女の声は、いつもと同じ——感情の起伏が少なく、事実を積み重ねるような話し方だった。しかし今日は、どこかに微かな力が込められていた。
「グスタフ・フォン・ハルバッハが横領していた金額は、東部三州の道路整備予算の四年分に相当します。彼が二十年かけて抜き取った金で、東部の街道は補修されず、橋は崩れかけたまま放置され、山間の村々への物資輸送が毎年秋に滞っていた。その結果、冬の孤立で死んだ老人や子供の数を、誰かが集計したことがあったと思いますか」
アルフレッドは答えなかった。
「私が没収した資産の一部は、東部の道路補修基金に充てました。残りは国庫に戻した。伯爵夫人と子供たちが路頭に迷ったのは事実です。それは気の毒だった。しかしグスタフが今後二十年、同じことを続けた場合に東部で死ぬ人間の数と、どちらが多いかを、私は考えなければならなかった」
「……冷たい計算だな」
「ええ」ヴィクトリアは認めた。「でも誰かがしなければならない計算だった」
彼女は続けた。
「慈善基金の件も同じです。あの基金は"善意の象徴"でした。だから誰も監査しなかった。善意を疑うことは、冷酷な行いだとされていたから。二十年間、不正が続いたのは、誰もが善意を疑うことを恐れていたからです」
「補助金の削減は」
「施療院への補助金を削ったとき、私は全施設の実態調査を同時に行いました。補助金を正しく使えていた施設には、削減分の一部を別名目で補填した。ただし公表しなかった。なぜだか分かりますか」
アルフレッドは首を振った。
「公表すれば、正しく使えていない施設が猛反発する。政治問題になる。最終的に補填が全施設に拡大して、不正を是正する意味が消える。だから黙ってやった。結果として、私が全部の補助金を打ち切ったように見えた。それが評判を下げることは、分かっていました」
アルフレッドは、しばらく黙っていた。
「……全部、計算していたのか」
「全部ではない」ヴィクトリアは言った。「計算が外れたことも、判断を誤ったこともあります。私は完璧ではない。ただ——」
彼女は初めて、わずかに目を伏せた。
「私が切り捨ててきたものは、"不要なもの"ではなかった。すべて、本来は守られるべきものだった。ただ、今守れば国が死ぬもの、だった。それだけの違いです」
部屋が静かになった。
暖炉の火が、パチ、と音を立てた。
アルフレッドは、両手で顔を覆った。長い沈黙の後、その手をゆっくりと下ろした。
「私は、君のことを誤解していた」
「評判通りに見えたのでしょう。私はそう見えるように、振る舞っていましたから」
「なぜそこまで——なぜ、誤解されることを厭わなかった」
ヴィクトリアは少しの間、答えなかった。
それから、静かに言った。
「説明に使うコストで、もう一つの問題が解決できるなら、説明は後回しにする。それだけのことです」
アルフレッドは、その答えを聞いて、何かを悟ったような顔をした。そして同時に、その"何か"が今まで自分には完全に欠けていたことを、悟ったような顔をした。
「戻ってきてくれないか」
ヴィクトリアは、予期していたように、すぐに答えた。
「いいえ」
アルフレッドが顔を上げた。
「なぜだ。今の私には君が必要だ。国が——」
「同じことになるからです」
ヴィクトリアの声は、揺れなかった。
「私が戻れば、しばらくは改善するでしょう。でも根本は何も変わらない。あなたは理想を持ち、私は現実を押しつける。また同じ対立が生まれ、また私が悪役になり、またあなたは民衆に"冷酷令嬢を追い払った"と喝采を受ける。そしてまた、五年後か十年後か——同じことが繰り返される」
「では、どうすればいい」
「あなたが変わるしかない」
静かだが、明確な言葉だった。
「優しさだけで、国は守れません」
アルフレッドは、その言葉を、体に受けるように聞いた。
「理想は必要です。あなたの理想がなければ、民は希望を持てない。でも理想は、現実の土台の上にしか立てない。土台のない理想は、最終的に最も多くの人間を傷つける——あなたが今、目撃している通りに」
「君は……冷たいな」
「ええ」ヴィクトリアは答えた。「でも間違ってはいない」
アルフレッドは立ち上がった。窓の外を見た。冬の午後の光が、庭の枯れ木の枝を照らしていた。
「条件を聞かせてくれ。戻るための条件ではなく——私が続けるための、条件を」
ヴィクトリアは、少しだけ目を細めた。
その問いは、正しかった。
「三つあります」彼女は言った。「一つ。不正は必ず処罰する。情状酌量は裁判所に任せ、あなたは処罰の決定に介入しない。二つ。財政の数字から目を逸らさない。耳の痛い報告をした者を遠ざけない。三つ——」
彼女は一拍置いた。
「ハンス・フォン・エーベルトを財務次官に昇格させなさい。あの子は有能です。平民だからという理由で、これ以上埋もれさせてはいけない」
アルフレッドは振り返った。
「……最後の条件が、一番具体的だな」
「一番、急ぎます」
アルフレッドは、短く笑った。今日初めての、本物の笑いだった。
「分かった。約束する」
アルフレッドが帰った後、書斎にマリアンヌが入ってきた。
ヴィクトリアは机の前に座り、また計算用紙に向かっていた。来客があった前後で、何も変わらなかった。
「……よかったのですか」マリアンヌは聞いた。「戻らなくて」
「よかった」
「寂しくはないのですか」
ヴィクトリアの手が、一瞬止まった。
止まったのは、本当に一瞬だった。
「寂しいという感覚が、私にあるかどうか、自分でも分からない」
彼女はペンを置き、窓の外を見た。アルフレッドが去っていった方向。もう馬の姿も見えなかった。
「ただ——あの方が、今日ここまで来たことは」
彼女は言葉を選ぶように、少しの間黙った。
「……悪くはなかった」
マリアンヌは、それ以上聞かなかった。
翌春、ヴィクトリアはヴァルトハイム王国を離れた。
隣国カレンツィア大公国から、財政顧問の招聘があった。カレンツィアは小国だったが、東西の交易路の要衝に位置しており、正しく経営すれば十分な力を持てる国だった。
出発の前日、カール・ハインツが聞いた。
「本当に行かれるのですか。この国を、離れて」
「この国の仕事は、ひとまず終わりよ」
「殿下は変わると思いますか」
ヴィクトリアは少し考えた。本当に考えてから、答えた。
「変わり始めている。完全にはならないでしょう。でも、今日より明日が少しだけ良くなるなら、それで十分」
「……お嬢様らしい答えですね」
「そう?」
「はい。最低限で十分、とおっしゃる」
ヴィクトリアは珍しく、かすかに口元を動かした。笑いとは言えない、しかし無表情でもない何かが、一瞬そこにあった。
出発の朝は、晴れていた。
マリアンヌが馬車の荷物を確認している間、ヴィクトリアは館の前に立って、しばらく空を見ていた。青い空だった。
カール・ハインツが傍に来た。
「お嬢様。最後に一つだけ、聞いてもよろしいですか」
「なに」
「後悔は、ありませんか。あの三年間の、全てのことについて」
ヴィクトリアは空を見たまま、少しの間沈黙した。
それから、静かに言った。
「後悔は、分からない。ただ——」
彼女は一度だけ、目を閉じた。
「間違っていなかったとは、思っている」
馬車が動き出した。
石畳の道を、蹄の音が遠ざかっていく。
見送るカール・ハインツとマリアンヌの前で、馬車は丘を下り、やがて冬の名残を残す街道の先へと消えた。
その年の秋、ハンス・フォン・エーベルトが財務次官に昇格した。
翌年、東部の不正商人に対して、王太子直令による資産返納命令が出された。処罰は厳格だった。貴族社会は動揺した。しかし、アルフレッドは撤回しなかった。
民衆の間では、しばらく「以前のような冷酷な政治に戻るのか」という声が上がった。
アルフレッドは民衆の前に出て、言った。
「厳しさと冷酷さは、違う。私はそれを、学んでいる途中だ」
その言葉は、ゆっくりと広まった。熱狂ではなかった。しかし確かな、静かな支持として。
カレンツィアで、ヴィクトリアは働いた。
相変わらず評判は悪かった。無駄を削り、不正を罰し、感情に流れない判断を積み重ねた。カレンツィアの宮廷では「北から来た冷たい女」と呼ばれた。
彼女は気にしなかった。
五年後、カレンツィアの財政は安定し、東西交易の中継地として国際的な地位を確立した。その過程で何人かの貴族が没落し、何人かの官吏が罰せられ、何項目かの慣例が廃止された。
それを「冷酷な改革」と呼ぶ者は多かった。
ヴィクトリアは、それを訂正しなかった。
ある日、カレンツィアの若い文官が、おそるおそる彼女に聞いたことがある。
「なぜ、評判を気にされないのですか」
ヴィクトリアは書類から目を上げずに、答えた。
「評判は、死なない。国は、間違えると死ぬ。優先順位の問題よ」
文官は、その答えを長く覚えていた、という。
ヴァルトハイムから、年に一度、手紙が届いた。
差出人の名はなかった。しかし封蝋の紋章は、毎年同じだった。
手紙の内容は短かった。数字が並んでいることもあった。政策の報告のこともあった。あるときは、ただ一行だけだった。
「君の言った通りになっている」
ヴィクトリアはその手紙を、他の書類と同じ引き出しにしまった。
返信は、いつも短かった。
読んだ内容への簡潔な所見、必要な数字、必要な提言。感傷はなかった。
ただ、マリアンヌだけが知っていた。
返信を書き終えた後、ヴィクトリアがほんの少しだけ、封蝋を押す前に、書いた紙を見る時間が——通常の書類を処理するときより、わずかに長いことを。
悪役で構わない。
それで国が生きるなら。
ヴィクトリア・エレナ・フォン・クロイツベルクは、そう考えていた。
少なくとも——そう、考えることにしていた。
終幕




