#5
「大丈夫だ。……どこにも行かないから」
頭を撫でる、温かい掌。
帷が優しく受け入れてくれた時、再び涙が零れた。手を繋いだまま、彼の胸に額だけあてる。
「……っ」
狭い玄関で立ち尽くし、名前のない時間を過ごした。
「迎」
一時間ほど経っただろうか。
明かりを消した居間に戻り、互いに背中を向けてベッドで寝ていた。もう入眠したと思った帷が、突然俺の名前を呼んだ。
「……ん?」
「俺も、ずっと頭の中とっ散らかってる」
彼は「家の中もぐちゃぐちゃだけど」と苦笑混じりで付け足した。
当然だ。恐らく、お母さんが亡くなってからそう日が経ってないのだろう。
精神的にまいっている。このアパートの前で座り込んでいた時も、きっとお母さんのことを思い出していたんだ。
なのに全然力になれていない。むしろ助けてもらってばかりだ。
「ごめん、帷」
自分が許せない。悔しくて情けなくて、歯ぎしりした。
「いっぱいいっぱいな時に、こんな……無理に引き留めて」
段々思考の糸も解けて、気持ちが落ち着いてきた。勢いよく上体を起こし、隣で寝ている帷に向き直る。
「そ、そうだ。悪い、すぐタクシー呼ぶ」
家に帰さないなんて、ほとんど拘束してるようなもんじゃないか。急いでテーブルに置いてるスマホを取ろうとすると、後ろから腕を掴まれた。
「帷?」
「眠いんだ。このまま泊まらせてくれないか」
「で、でも。自分の家の方が、落ち着いて寝られるだろ?」
「家じゃ眠れないんだよ。……色々考えちゃって」
帷の声は低く、抑揚がない。疲労がたまってることは容易に想像できた。
でも、だからこそ申し訳ない。そんな時に家に呼んで、ご飯を作ってもらってたんだから。
けど帷は、俺の思考も全て読み取っていた。
「迎。変なこと考えるなよ」
「変なことって?」
「俺に罪悪感とか覚えてそうだから」
帷は苦笑し、静かに息をついた。
「実際はお前に会えて、すごく楽になった。飯作るときは何もかも忘れられるし……こうして独りで夜明かさずに済むのも、内心ホッとしてんだ」
彼は手を離すと、俺の背中に寄りかかった。重いけど心地良い。独りじゃないと安心できる重さだった。
こんな俺でも、支えることができる人がいる。そう感じられる重さた。
なんて有り難いんだろう。
「独りの夜って悪いことばっか考えるだろ?」
「……そうだな」
帷の言葉に頷く。確かに、夜は恐ろしい。昼間のポジティブどこ行った? って訊きたくなるほど、不透明な未来に押し潰されそうになる。
誰にも助けを求められない。その事実だけで、息が止まりそうになる。
「帷……マジで帰んなくていいの?」
「あぁ。むしろ帰りたくないから、泊まらせてくれ。頼む」
帷はややげんなりした顔で答えた。もう家よりここの方が居心地良いんだ、と頭を押さえている。
「そっか。……ありがとう」
スマホをテーブルに置き、笑いかけた。
優しい彼のことだから、俺を気遣って無理してるんじゃないか。それだけが心配だったが、すっかり寛いでる帷を見てホッとした。
ここが彼の第二の安息の地になるなら、そんな嬉しいことはない。
「帷、俺さ……信じられないと思うけど、今までは何でも器用にこなしてたんだよ」
心の状態が部屋に現れると言うけど、まさにそれだ。片付かないこの部屋は、現状維持しようと殻にこもる俺を表している。
「でも、ちょっと転んだらがたがたに崩れた。独りになるまで、自分がこんな弱いと思わなかった」
帷は少し考えて、「お前だけじゃない」と呟いた。
「……弱いのは皆同じだよ」
帷は俺の隣に移動し、微笑んだ。
電気も点けてない、真っ暗な部屋。窓から射し込む月明かりだけを頼りに見つめ合う。
「独りになってようやく、誰かと一緒にいたいと思うんだ。だから俺らは、良いタイミングで会えたんじゃないの?」
「はは。……そうかも」
淡々と生活できてるようで、実はずっと温もりを求めていたんだ。
でも指摘されなければ気付かなかった。帷が優しく寄り添ってくれたから、独りの怖さも、繋がりの大切さも実感できた。
彼には感謝しかない。
「ありがとう、帷」
「お互いさまだろ。声掛けてくれてありがと、……迎」
帷は嬉しそうに目を細める。その目元は、わずかに光って見えた。
彼も泣いてるんだろうか。手を伸ばして確かめようとしたが、やめた。
泣きたいときは思いっきり泣けばいいんだ。さっき俺が泣かせてもらったみたいに。
夜は安心できる人の傍で、疲れるまで泣けばいい。
そしたらいつの間にか眠って、眩しい朝が来る。
────大丈夫。
明日からは俺が、帷を笑顔にする。
横になり、瞼を伏せる。夢の世界に傾くまで、迎は心に強く誓った。
◇
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい!」
一週間後。迎はアパートの二階から、教習所へ行く帷を見送った。
帷との半同棲生活は現在だ。
休日に教習を入れてると、帷は必ずその前夜にやってくる。なので、教習前夜は泊まりが定着した。
夕食を食べ、朝ご飯も二人で食べて、帷は向かいの教習所に行く。
出勤の見送りみたいで、専業主夫になった気分だ。
( 帷の奥さんになる人は幸せだなぁ )
キッチン周りは綺麗に、また使いやすくレイアウトされていた。自分だったら一生思いつかない配置で統一されて、ひたすら感動してしまう。
自分は使わないからと、迎の為にお洒落なカップやコーヒーメーカーも持ってきてくれた。コーヒーがあるとないとでモチベーションがだいぶ変わるので、これも本当に有り難い。
帷は何をするにも俺の確認をとる。
ちょっと気を遣いすぎてる面がある。迷惑かけてるのは俺の方なんだから、気を遣わなくていいって何度も言ってるけど……律儀な彼は、俺の心の中までは踏み込んでこなかった。
程よい距離を保とうとしてくれてる。
何でもないようなことに思えるけど、実際はすごいことだ。
相手の生活を守りながら、相手の部屋で過ごす。逆の立場だったら、俺はそんな完璧に振る舞えるだろうか。……正直、ちょっと自信ない。
「……お」
空が夕闇に変わりつつある頃。窓から下を覗き込むと、ちょうど帷がアパートの入り口を抜けるところだった。
「帷っ。おつかれ」
「あぁ。疲れた……」
帷はこちらに気付いて、ゆっくり階段の方へ回った。
「早く涼みな。アイスあるよ」
軽く手を振ると、彼は子どもみたいに笑った。
冷房をつけた部屋で、ちょっと高めのアイスを二人で食べる。棒アイスだからか自然と無言になる。俺は床に座り、帷はソファに座りながら、ぼうっと天井を見上げていた。
帷の前で大号泣してしまった日から、確実に何かが変わった。でも“何”が変わったのか分からずにいる。
ぶっちゃけ自意識過剰で、俺だけがそう思ってる可能性があるけど。……でも、何か。
「迎」
「ふぁ」
突然後ろから、顎に手を添えられる。気付かなかったが、アイスが口元についてたみたいだ。
「服に落ちるぞ」
「あ、ああ。ゴメン」
急いで残りのアイスを頬張り、ティッシュを取る。しかしそれすらも、帷が代わりにやってくれた。
「夜に洗濯機回すとうるさいからな」
「そうだな。このアパート壁薄いし」
家事もほとんど帷の領域。俺がやることが日々減っていってる気がする。
そう。俺が抱いてる違和感。否、危機感はこれだ。
帷って、俺に甘過ぎんか……?
同い年の、最近知り合った男の接し方じゃない。もちろん、寄りかかってる俺も相当やばいけど。
いくら帷が面倒見良いからって、これはまずい。
帷が自分の家に帰ってから、冷静に考えた。
少し真面目に、堕落した生活を整えよう。まずは早寝早起き。大学最優先、それから収支を把握して、家計を管理する。
家賃や光熱費も、引き落とされる口座がバラバラなんだよな。今度の休みにちゃんと確認して、銀行に行こう。あと不要なものを捨てて、家の中を大掃除する!
それと……。
「あと何ヶ月残ってるっけ……」
いつしか積まれた本の一番下敷きになった、教本や契約書。ずっと目を背けていたことに、そろそろ向き合わないといけない。
帷が頑張ってんだから、俺も前を向かないと。
短いため息をつき、窓の方に向く。遠くに見える建物を見て、迎は目を眇めた。
◇
「はぁ……」
暑い。
それなりに寝て、食べて、大学に行って。いつも通りの毎日を送ってるのに、気温が高いだけで疲れが倍増する。
帷は自動車学校の窓から、風に吹かれる雲を眺めた。
学科教習は耳だけ集中していればいいから気楽だ。教官の話に合わせてペンを動かして、大切な箇所に線を引く。
答えがあることは優しい。答えがない問題について考えるのは頭が痛い。
というか、まただ。暇さえあれば彼のことを考えている。
いつも明るくて、無邪気に笑う彼のことを。
こんな気持ちになったのは初めてだ。そもそも男に対して“可愛い”と思うなんて。
でもいい加減、認めざるを得ない。
「お疲れ様です、帷さん。次はとうとう仮免許ですね」
「ありがとうございます」
次の教習を入れる為、窓口で手続きした。受付の女性はてきぱきとパソコンに入力していたが、ふと思い出したようにこちらを向いた。
「そういえば、本当に良かったです。以前学校をやめるかもしれないと仰っていたから」
「ええ……」
そう。本当は、教習所に通うのをやめるつもりだった。
バイトを入れて、大学に通いながら稼ぎたい。一度払った入学金は勿体ないが、教習所にかける時間も勿体なかった。悩みに悩んで、やめる決断をしたのだ。
しかしそうしなかった。
理由は、自分を取り巻く世界が変わったからだ。
「では、頑張ってくださいね」
「はい。……あ」
荷物をまとめて立ち上がったが、つい気になって、女性に尋ねた。
「やっぱり、卒業しないでやめる人って結構います?」
「え? そうですね。一定数いらっしゃいますよ。それぞれご事情もありますし」
「……俺みたいに、何ヶ月も来なくなる人も」
「えぇ。帷さんと同じ大学生で、楽しそうに来てたのに来なくなった子もいて……また来てくれると良いんだけど」
彼女はなにか思い出したように眉を下げ、ため息をついた。
……心配だけど、あくまで仕事上の関係。深く踏み込むことはできないんだろう。
もう一度だけ頭を下げ、教習所を後にした。ほとんどの生徒は最寄り駅に向かう送迎バスに乗るが、帷は門を抜けてゆっくり歩いた。
向かうは、教習所の目の前にあるアパート。その二階にある部屋。
早く会いたい。
本当は階段を駆け上がりたいぐらいだったが、逸る心を抑え、帷は深呼吸した。
◇
「お。帷〜、おかえり」
「……ただいま?」
「あはは。疑問形なんだな」
夜の十九時過ぎ。
いつものように教習所帰りの帷に、迎はミネラルウォーターを手渡した。
もはや、帷が部屋にいない方が違和感を覚える。互いにだらだらして、黙々と勉強して、夕食を食べる。
そして電気を消し、静寂に抱かれて眠る。
ただそれだけの関係だ。しかし赤の他人と言い切るには奇妙な絆がある。
迎は帷がつくった鶏大根とほうれん草のおひたしを完食し、手を合わせた。
「ご馳走さまでした。やー、ぱっと作ってこんなに味が染みてんの、マジですごいよ」
「作り方教えるから、今度作ってみろよ」
「うーん……できるかなぁ」
「できるよ。やったことないから不安なだけだ」
二人で台所に立ち、洗い物をする。洗った皿を帷に渡し、手早くシンクを掃除した。
「全く触れたことのない分野って、難しそうって思うだろ。でも難しくしてんのは自分なんだ。自分が一番の壁だよ」
「ほ〜。案ずるより産むが易しってやつ?」
「そう。やってみたら案外簡単」
手を拭いて、二人で窓際に移動する。窓を開けるとやはり蒸し暑い風が吹いたが、気持ちは晴れていた。
帷は腕を伸ばし、懐かしそうに話す。
「車も同じ。初めは運転席に座ることすら非現実的だと思った。でも今は教官の様子見て、時間気にしながらすぐ発車してる。ていうか発車しないといけないし、運転できなきゃいけない。座っていいのかな? って躊躇う時間なんてない」




