プロローグ ――崩れ始める均衡
由愛が去ってから、学園の空気は一度だけ静まった。
嵐の目のように。
だがそれは、落ち着きではない。
圧縮だ。
溜め込まれた感情が、内側で膨張している。
廊下ですれ違う女子学生たちの視線は、以前よりも鋭い。
羨望だけではない。
疑念。
苛立ち。
「王様、最近冷たくない?」
そんな声が、小さく漏れ始めている。
---
生徒会室。
麗華は書類を整理しながら、淡々と報告する。
「派閥が明確化しています」
机の上に並べられたデータ。
SNSの投稿分析。
支持率の推移。
炎上件数。
「透子派は縮小。ひより派は外部支持増加。中立層は減少」
数字が語る。
均衡は崩れつつある。
「制御できるか」
俺は椅子に座ったまま問う。
麗華は一瞬だけ視線を止める。
「“私”なら可能です」
“あなた”ではなく。
その含みが、はっきり伝わる。
俺は何も言わない。
言葉が、形にならない。
---
中庭。
ひよりがスマホを握りしめ、何かを叫んでいる。
カメラは回っていない。
珍しい。
「なんで何も言わないの?」
俺に向けられた声。
怒りと、焦りが混じっている。
「透子の件も、由愛のことも、全部だんまりだね」
周囲の視線が集まる。
公開の場だ。
だが俺は、声を荒げない。
「言う必要がない」
ひよりの表情が歪む。
「それが一番ずるいんだよ」
その言葉が、妙に引っかかる。
「何も言わないから、みんな勝手に想像する。苦しくなる」
俺は答えない。
答えられない。
沈黙は、また誰かを揺らす。
ひよりは唇を噛み、背を向ける。
「最低」
その小さな呟きが、はっきり聞こえた。
---
夜。
寮室。
以前は鳴り続けていた通知が、今は途切れ途切れだ。
減っている。
求心力が、落ちている。
だが同時に、批判は増えている。
王は、完璧でなければならない。
ボロを出した瞬間、崇拝は攻撃に変わる。
ベッドに座り、両手を見る。
この手で、誰かを救った。
この手で、誰かを惑わせた。
そして今。
何も掴んでいない。
虚無が、明確な形を持つ。
空洞ではない。
由愛の声が蘇る。
「王様は孤独だよ」
孤独。
その言葉を、初めて真正面から受け取る。
十人に囲まれていた。
だが今は、誰もいない。
麗華は秩序を見る。
透子は距離を取った。
由愛は去った。
残っているのは、“王”という役割だけ。
その役割は、俺を守ってくれる。
だが同時に、俺を閉じ込める。
鏡を見る。
整った顔。
完璧な輪郭。
だが目が、空いている。
満たされていない。
「何やってるんだ」
小さく呟く。
復讐のつもりだった。
証明のつもりだった。
だが気づけば、証明の先に何もない。
王の座は高い。
だが、立ち続けるには重すぎる。
ベッドに倒れ込む。
天井が、遠い。
初めて思う。
王でいる意味は、何だ。
その問いが、胸の奥に深く沈む。
崩壊は、静かに始まっていた。




