「やっと手に入った」
結局その夜は、玲奈を帰してからもしばらく何も手につかなかった。
ソファは少しずれたまま。
クッションにはまだ体温の名残があって、空気には玲奈の甘い匂いが残っている。
それだけで、さっきの熱がすぐ戻ってくる。
胸を掴んだ感触。
首筋へ唇を落とした時の震え。
押し倒しかけた時の、玲奈の少し潤んだ目。
「...くそ」
低く漏れた声が、自分でも思ったより熱を帯びていた。
最後まで行けた。
たぶん、あのままなら普通に行っていた。
玲奈も止めなかっただろうし、自分も止まる気がなかった。
その事実に、少しだけ頭が冷える。
でも冷えたのは頭だけで、体の奥はまるで落ち着いていなかった。
スマホが震える。
玲奈だ、と見る前からわかった。
**最悪**
まずその一言。
続けて、
**でも、途中で止められたの初めてかも**
さらに、
**続き、したい**
最後の一文を見た瞬間、腹の底がまた熱を持つ。
続き。
そんなの、自分だってしたいに決まっている。
今までなら、ここで少し時間を置いたのかもしれない。
でも、もうそんな余裕はなかった。
むしろ玲奈のほうが先にそう言ってくるなら、こっちだって隠す意味がない。
**俺も**
送る。
数秒もしないうちに既読。
**いつ?**
早い。
でもその早さが、今はちょうどよかった。
**明日**
打ってから、朔也は一瞬だけ止まる。
明日。
そんなにすぐ。
でも、体はもうその約束だけで反応している。
**ほんとに?**
玲奈から来たその一文には、珍しく確認の響きがあった。
いつもの軽さじゃなくて、少しだけ本気で嬉しそうな温度。
朔也は画面を見つめて、それから短く返す。
**今度は邪魔入らないとこで**
送信。
しばらくして返ってきたのは、
**好き**
の二文字だけだった。
その二文字が、妙に強かった。
◇
翌日は朝から、玲奈のことで頭がいっぱいだった。
何を着ていくかとか、どこで会うかとか、そういう表向きのことももちろんある。
でも本当は、そこじゃない。
会ったら何をするか。
どこから触るか。
キスしたら、今度はどこまで行けるか。
そういうことばかり考えている自分に、少し引く。
でも、それ以上に正直だった。
前の世界では、女の体なんて妄想の中のものだった。
見たくても見られない。
触りたくても触れない。
自分の欲はいつも一方通行で、現実へ向ける前に自分で潰すしかなかった。
でも今は違う。
相手も自分を欲しがっている。
しかも、その相手が玲奈みたいな女だ。
我慢できるわけがない。
「今日は妙に機嫌が悪いですね」
昼前、紗良がそう言った。
「悪くない」
「そういう顔をしています」
「顔わかりやすぎるだろ」
「わかりやすいです」
またそれだ。
でも今日は、いつものように噛みつく気力が少し足りなかった。
噛みつくより、早く夜になってほしかった。
「夜、少し出るわ」
言うと、紗良の動きがわずかに止まる。
「理由は」
「外の空気吸いたいから」
「雑ですね」
「散歩だよ」
「嘘ですね」
「ほんと、お前そればっかだな」
さすがに全部は隠せない。
でも全部を言う必要もない。
紗良はじっと朔也を見てから、小さく息を吐いた。
「帰宅時間は」
「遅くならない」
「具体的には」
「じゃあ、日付変わる前で」
「さらに怪しいですね」
「うるさい」
紗良はそれ以上追及しなかった。
でも、完全に見逃したわけでもない顔だった。
その視線を背中へ感じながら、朔也は自室へ戻る。
着替えを選ぶ。
変に気合いを入れて見えるのも嫌だ。
でも適当すぎるのも違う。
そうやって服を選んでいる時点で、もう完全に浮かれている。
自覚はある。
あるのに止まらない。
シャツを一枚、捨てる。
別のものを出す。
胸元が少しだけ開くやつ。
玲奈が首筋を見たがるのを、何となく覚えていたからだ。
「...何やってんだ俺」
呟く。
でも、手は止まらない。
◇
待ち合わせ場所は、駅から少し外れた高級ホテルだった。
玲奈が指定してきた時、朔也は一瞬で意味を理解してしまった。
カフェでもレストランでもなく、最初からホテル。
そこに妙な遠慮がないのが、玲奈らしかった。
ロビーで会った玲奈は、昨日までより少し落ち着いた格好をしていた。
でも落ち着いているだけで、地味ではない。むしろ余計に女っぽく見える。
柔らかい色のワンピース。
胸元は深くないのに、体の線は隠しきれていない。
髪はゆるく下ろしていて、動くたびに甘い匂いがする。
「待った?」
玲奈が笑う。
「待ってないよ」
朔也も答える。
たったそれだけのやり取りなのに、二人とも少しだけ息が浅い。
「ほんとに来るんだって思った」
「呼んだの玲奈だろ」
「でも、来るって決めたのは朔也くんじゃん」
その言い方が、妙に正しい。
たしかにそうだ。
今日ここに来たのは、自分の意思だ。
欲しくて来た。
玲奈の体を。
玲奈の反応を。
その事実が、自分でもひどく下品で、ひどく興奮した。
「...行こ」
玲奈が小さく言う。
朔也は頷いた。
エレベーターに乗る。
無言。
でも沈黙は気まずくない。
むしろ、音が少ないぶん、隣にいる玲奈の気配だけが濃い。
腕が少し触れる。
それだけで、昨日の続きみたいに熱が戻る。
玲奈のほうを見れば、玲奈もこっちを見ていた。
「なに」
朔也が聞く。
「いや」
玲奈が少しだけ笑う。
「今日の朔也くん、最初からやばそうだなって」
「何それ」
「目」
また顔か。
でも今度は否定する気になれなかった。
エレベーターの扉が開く。
廊下を歩く。
カードキー。
部屋に入る。
扉が閉まった瞬間、玲奈が振り返る。
「ねえ」
「ん」
「今さらだけど、やめる?」
「やめない」
即答だった。
玲奈の喉が上下する。
「だと思った」
「玲奈は」
「やめるわけないよ」
そう言い終わる前に、朔也はもう玲奈を引き寄せていた。
今度は最初から遠慮しなかった。
腰を抱く。
細い。
でも抱くとちゃんと女の重さがある。
そのまま壁際へ押しつけるように距離を詰める。
「っ...」
玲奈が小さく息を呑む。
「早...」
「待てないって言っただろ」
返しながら、朔也はもう唇を重ねていた。
深いキス。
昨日より、最初からもっと深い。
玲奈の唇はすぐに開く。
でも主導権は朔也が取る。
舌先が触れる。
玲奈の肩が震える。
「んっ...ぁ...」
その声が、ひどく煽った。
朔也は玲奈の背中へ手を滑らせる。
肩甲骨。
そのまま腰。
くびれを掴む。
玲奈がシャツを掴んだ。
「朔也、くん...やば...」
「何が」
「今日、ほんと...容赦ない」
「したくて来たんだろ」
「そうだけど...」
「俺だってそうだよ」
言いながら、首筋へ唇を落とす。
「っ!」
玲奈の体がびくりと跳ねる。
耳の下。
そこを軽く吸うように触れてから、喉元へ。
玲奈はもう自分から朔也の肩へ腕を回していた。
「そこ、ほんと...だめ...」
「昨日も言ってた」
「だって、弱いもん...」
「知ってる」
そう返して、もう一度同じ場所へ口づける。
玲奈の膝が少し揺れる。
その反応を見ると、もっとやりたくなる。
前の世界では一生見ることがなかったかもしれない、美女が自分の手で崩れていく顔。
それが気持ちよすぎる。
朔也は玲奈のワンピースの肩へ手をかけた。
「...見る」
玲奈が小さく言う。
「見てるよ」
「そういう意味じゃなくて...見たい顔してる」
「見たいから見てる」
「...っ」
玲奈がまた赤くなる。
その反応が可愛い。
綺麗な女が、自分の視線でここまで熱くなる。
それだけで腹の底がきゅっと熱を持つ。
朔也は肩の布を少しだけ落とした。
白い肩。
鎖骨。
呼吸に合わせてわずかに上下する胸元。
「やば...」
今度は朔也のほうが呟く。
玲奈が目を細めた。
「そういうの、言うんだ」
「だって、やばいだろ」
正直に返す。
玲奈の胸元へ、視線が落ちる。
隠す気もなかった。
「見すぎ」
「見るに決まってる」
「何でそんな堂々と...」
「興奮してるから」
その言葉に、玲奈が本気で言葉を失う。
この世界では、女が男を欲しがるのは自然だ。
でも男がここまで露骨に、女の体へ欲を向けるのは珍しい。
だから玲奈は、嬉しいのに戸惑う。
それがまた、朔也にはひどく効いた。
朔也の手が、玲奈の胸元へ伸びる。
服の上から。
掌で包み込むように。
重みを確かめるみたいに。
「っ......ぁ、さく...」
玲奈の声が甘く崩れる。
その瞬間、朔也の頭の中で何かが切れる。
柔らかい。
ちゃんと女の胸だ。
前の世界で、見ることすらまともに許されなかったものが、今、自分の手の中にある。
それだけで、理性がどこかへ飛ぶ。
「すご...」
自分でもひどく情けない感想だと思う。
でも本音だった。
玲奈が目を閉じる。
「そんなの...言われたら、恥ずかしい...」
「じゃあもっと恥ずかしがれよ」
言ってから、自分でびっくりする。
こんなこと、普通に口から出るんだなと思う。
でも玲奈は、その言い方にまた震えた。
「ほんと...最低」
「知ってる」
返しながら、胸をもう一度確かめるように揉む。
玲奈の脚が少しもつれる。
そのままベッド際へ連れていく。
「朔也...待って」
「待たない」
「うわ...ほんと容赦ない...」
「玲奈が煽ったんだろ」
「そうだけど...」
「じゃあ責任取れよ」
玲奈がそこで本気で黙った。
その黙り方さえ煽りに見える。
そのままベッドへ押し倒す。
玲奈の髪が広がる。
ワンピースの裾が少しずれる。
脚の線が目に入る。
綺麗だ。
下品なくらい興奮する。
朔也は覆いかぶさるように体を寄せた。
キス。
首筋。
胸元。
手が自然に腰から太腿へ滑る。
「っ...そこ...」
「嫌?」
「嫌じゃないけど...やばい...」
玲奈のその言葉を最後に、灯りの色だけが静かに揺れて、あとの時間は熱と匂いと乱れた呼吸の中へ沈んでいった。
◇
目が覚めた時、天井の色が少し白んでいた。
最初に感じたのは、重さだった。
眠気ではなく、熱の名残の重さ。
体がだるい。
でも、それは嫌なだるさじゃない。
満たされたあとの倦怠に近い。
隣を見る。
玲奈がいた。
シーツに半分埋もれるように眠っている。
髪は少し乱れたままで、肩のあたりには自分が残したらしい薄い赤みがある。
ワンピースはもう脱いでいて、代わりに薄いホテルのガウンを雑に羽織っていた。
その胸元が少しだけ開いていて、寝返りの加減で白い肌が覗いている。
「...」
朔也はしばらく黙って見た。
綺麗だと思う。
同時に、また触りたいとも思う。
最低だな、と頭のどこかで思う。
でも、その最低さを否定するほどの気力はなかった。
玲奈が小さく動いた。
「...起きてる?」
「今起きた」
玲奈が薄く目を開ける。
朔也を見る。
その顔が、ひどく柔らかかった。
「おはよ」
「...おはよう」
「すごい顔してる」
「どんな」
「満たされてる顔」
そう言って玲奈が笑う。
朔也は返事をしなかった。
たしかに体は、変なくらい満たされていた。
触れた。
見た。
欲しいものをちゃんと手に入れた。
しかも玲奈は、幸せそうだった。
自分に抱かれて、乱れて、そのあとでこんな顔をする。
それが気持ちよかったのも本当だ。
「ねえ」
玲奈が少しだけ近づいてくる。
「どうだった?」
「何が」
「昨日の続き」
朔也は一瞬だけ黙る。
どうだったか、なんて。
そんなの、言葉にしたらもっと露骨になる。
「...すごかった」
「ふふ」
玲奈が嬉しそうに笑う。
「朔也くん、途中からほんとに余裕なくなるよね」
「玲奈がそうさせるんだろ」
「そうかも」
玲奈はそう言いながら、朔也の胸元へ指を滑らせた。
軽い接触。
それだけなのに、体はまだ正直に反応しそうになる。
「またすぐそうなる」
「うるさい」
「だってわかりやすい」
玲奈は本当に楽しそうだった。
その顔を見ていると、朔也の胸の中にも少しだけ満足が広がる。
こんな女を、自分がこうしている。
それが、やっぱりどこかで優越感だった。
でも。
窓のほうへ目を向けた瞬間。
白い朝の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいるのを見た瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけ冷えた。
「...朔也くん?」
玲奈の声がする。
「何でもない」
そう答えるしかなかった。
本当に、何でもないのかもしれない。
ほんの一瞬のことだ。
なのに、そのほんの一瞬だけ、昨日の熱が急に遠くなった気がした。
女を抱いた。
しかも自分から欲しがって。
前の世界なら夢みたいな出来事だ。
なのに、朝の光の中でそれを思い返すと、少しだけ胸が寒い。
理由はまだわからない。
わからないから、朔也はそのまま目を逸らした。
考えたくなかった。
玲奈がまた近づいてきて、顎先へキスを落とす。
「ほんとに、また会おうね」
「...うん」
答えながら、朔也は玲奈の髪を一度だけ撫でた。
その手つきに嘘はない。
欲も、熱も、ちゃんと本物だ。
それなのに、その奥のほうでだけ、小さな冷えがまだ残っていた。
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