火種
カフェを出てしばらく歩いたところで、背後から足音が追ってきた。
軽い、だが迷いのある足取り。
「天宮様」
振り向くと、白鳥透子が立っていた。
さきほどよりも顔が赤い。
目元がわずかに腫れている。
泣いたのだろう。
だがその瞳は、怯えではなく、強い決意を宿している。
「どうした」
柔らかく言う。
透子の指先が、ぎゅっとスカートの端を握る。
「さっきの言葉は本気、ですか」
何の言葉か分かっている。
“君のほうが綺麗だよ”
俺は数秒、黙る。
わざとだ。
沈黙は、期待を膨らませる。
透子の呼吸が浅くなる。
「どう思う?」
問い返す。
彼女は一瞬戸惑うが、目を逸らさない。
「嬉しかったです」
声は震えている。
「ずっと、言われたことがなかったから」
この世界で、整いすぎた顔は評価されない。
彼女はそれを知っている。
だからこそ、あの一言が刺さった。
俺は一歩、距離を詰める。
近い。
透子の心拍が早まるのが分かる。
「俺は嘘は、つかない」
断言はしない。
だが否定もしない。
その曖昧さが、彼女の想像を膨らませる。
透子の目が潤む。
「また、話してもいいですか」
小さな願い。
俺は少しだけ笑う。
「それは君次第だ」
責任を返す。
選ぶのは俺だが、来るかどうかは彼女次第。
透子は強く頷く。
「また、来ます」
その声は、さきほどよりもはっきりしている。
依存の芽。
まだ小さい。
だが確実に根を張り始めている。
その瞬間。
視線を感じた。
斜め向かいの廊下の端。
鷹宮麗華が立っている。
腕を組み、こちらを見ている。
表情は変わらない。
だが、その瞳の奥には明確な熱がある。
見せつけるつもりはなかった。
だが、結果的にそうなっている。
俺は透子から一歩離れる。
「今日はこれで失礼します」
透子は名残惜しそうに頷く。
去り際、もう一度だけこちらを見る。
その視線に、明確な感情が宿っている。
期待。
独占欲。
不安。
全部混ざっている。
廊下を進む。
麗華が立ち塞がるように前に出る。
「随分、優しいのですね」
声音は冷静。
だが、僅かな棘が混じる。
「そうか?」
「不用意に火をつけると、燃え広がります」
正論だ。
だが俺は首を傾ける。
「燃えたほうが面白い」
麗華の瞳が、わずかに見開かれる。
「あなたは」
言葉を選ぶように沈黙する。
俺はその続きを待たない。
「嫉妬してるのか?」
軽く言う。
空気が止まる。
麗華の呼吸が乱れる。
ほんの一瞬だけ。
すぐに整える。
「勘違いなさらないでください」
だが、声がわずかに低い。
図星だ。
俺はゆっくりと近づく。
彼女の視線が揺れない。
強い。
だからこそ、面白い。
「俺は誰も選んでない」
はっきり言う。
「まだな」
“まだ”。
その一言で十分だ。
麗華の瞳の奥に、明確な競争心が灯る。
透子だけではない。
ひよりもいる。
自分もいる。
誰が選ばれるか。
誰が中心に立つか。
争いは避けられない。
「秩序は、私が守ります」
麗華は言う。
だがその声の奥にあるのは、決意と焦り。
俺は肩をすくめる。
「守れるならな」
すれ違う。
背中に強い視線を感じる。
透子のものとは違う。
麗華の視線は、戦う者の目だ。
廊下の先で、再びスマホが震える。
【透子、再接触】
【麗華、怒ってる?】
【ひより次どう動く】
火種は置いた。
小さく。
確実に。
俺はガラス窓に映る自分を見る。
整った顔。
揺るがない視線。
胸の奥で、静かに確信が固まる。
焦らない。
確定させない。
期待だけを膨らませる。
与えるふりをして、縛る。
救うふりをして、依存させる。
誰が最後まで残るか。
それを決めるのは俺だ。
廊下の向こうから、女子学生たちのざわめきが聞こえる。
競争は、もう止まらない。
そして俺は。
その中心で、笑っている。




