九条ひより
廊下を抜けた先にあるカフェスペースは、他の場所よりも騒がしかった。
と言っても、大声ではない。
ひそひそと抑えられたざわめきが、空間を満たしている。
俺が足を踏み入れた瞬間、そのざわめきが一瞬止まる。
数十人の視線が、一斉にこちらへ向く。
スマホを構えている者もいる。
画面越しの光が、ちらりと見えた。
配信。
すでに“公開性”が始まっている。
カフェの中央、窓際の席に座る一人の女子学生が、ゆっくりと立ち上がった。
華奢な肩。
小さな顔。
大きな瞳。
長いまつ毛が影を落とす。
この世界では「整いすぎ」と言われる顔。
だが前の世界なら、CMや雑誌に引っ張りだこだっただろう。
彼女はスマホを持っている。
画面にはコメントが流れているのが見える。
生配信だ。
「みんな、静かにして」
柔らかい声。
だが不思議と通る。
「噂の方、来ちゃった」
コメントが加速する。
《本物!?》
《顔映る?》
《ひより近づけ!》
ひより。
九条ひより。
さきほど学内SNSで何度も見た名前だ。
フォロワー数百万の配信者。
この学園でも、影響力は圧倒的だろう。
彼女は一歩、こちらへ歩み寄る。
視線がぶつかる。
その瞬間、彼女の瞳の奥で何かが弾けた。
興奮。
高揚。
そして、計算。
「こんにちは」
カメラをこちらに向けながら、笑う。
愛嬌のある笑顔。
だがその奥に、したたかさがある。
「自己紹介、してくれます?」
配信中だ。
断れば、それも話題になる。
受ければ、拡散される。
どちらに転んでも、波紋は広がる。
俺は、ほんの少しだけカメラを見つめる。
数万人、いや、もっとかもしれない。
画面の向こうで、視線が集まっている。
「天宮朔也だ」
短く名乗る。
ひよりの呼吸が、わずかに乱れる。
コメント欄が爆発する。
《声いい》
《整いすぎてやばい》
《ひより距離近いって》
ひよりは笑みを崩さない。
「緊張してる?」
「してない」
即答する。
その返答に、ひよりの目がきらりと光る。
「余裕なんだ」
「そう見える?」
「うん」
数秒の沈黙。
視線の応酬。
周囲の女子学生たちが、息を潜めている。
ひよりはカメラを少し下げる。
俺にだけ聞こえる声で言う。
「透子、泣いてたよ」
試している。
揺らそうとしている。
俺は肩をすくめる。
「泣くほど喜んでくれたなら、悪くない」
ひよりの口角が、わずかに上がる。
「優しいんだ?」
「さあな」
断定しない。
余韻を残す。
その曖昧さが、コメント欄をさらに燃やす。
《意味深》
《ひよりも落とされる?》
《もうハーレム始まってる》
ひよりはカメラを自分に向け直す。
「みんな、見た?この余裕」
笑いながら言う。
「面白い人だね」
そして、俺を見つめる。
「今度、コラボしよ」
コラボ。
配信での共演。
公開の場で、距離を縮めるということ。
俺は少しだけ考えるふりをする。
すぐには答えない。
沈黙を挟む。
その数秒が、焦燥を生む。
「時間があればな」
曖昧な返答。
断らない。
確約もしない。
ひよりの目が、わずかに細くなる。
計算が走っている。
自分の影響力と、俺の価値。
掛け合わせれば爆発する。
それを分かっている。
「約束ね」
勝手に言う。
確定させようとする。
俺は笑う。
「それは俺が決める」
静かに。
はっきりと。
一瞬、ひよりの呼吸が止まる。
コメント欄が荒れる。
《強い》
《主導権やば》
《ひより押されてる》
ひよりはすぐに笑顔を取り戻す。
「そっか。選ぶ側なんだ」
その言葉に、わずかな悔しさが混じる。
俺は視線を外す。
「またな」
それだけ言って、カフェを出る。
背中に、強烈な視線が刺さる。
透子のものとは違う。
ひよりの視線は、狩る側の目だ。
だが今日は。
狩られる側は俺じゃない。
廊下を歩きながら、スマホを見る。
【ひより、生配信で接触成功】
【透子 vs ひより?】
【生徒会長はどう出る】
波紋が広がる。
まだ契約もしていない。
だが、競争は加速している。
胸の奥が、じわじわと熱い。
楽しい。
だが同時に。
どこかで、冷たい自分がいる。
これは感情じゃない。
構造だ。
与える。
揺らす。
確定させない。
期待だけ残す。
ガラス窓に映る自分を見つめる。
整った顔。
余裕のある表情。
ゆっくりと、口角が上がる。
この世界は単純だ。
顔が価値。
希少が力。
ならば。
徹底的に利用する。
まだ始まったばかりだ。
そして俺は、その中心に立っている。




