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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

春日和に愁う

作者: 灰藤 景
掲載日:2026/02/04

 朝も早くから、ウグイスの鳴き声が響いている。

 赤信号で待つ車の中、わずかに開けた窓からよく聞こえるほどだから、よほど近くの街路樹にでも止まっていたらしい。

 雲一つない晴天の下、暖かな陽気にも恵まれ、まさに春日和。

 脇に見える大きな環水公園では桜の花が咲き乱れ、今日という日を思い思いに楽しむ人々が見える。


 だが、その様子を眺める辻木敬悟つじきけいごの表情は何とも悲しげだ。

 今の彼にとって、この明るい光景はただ鬱陶うっとうしいものにしか見えなかった。






 一〇年前、敬悟が二七歳の時に一人の女性と結婚した。

 名は三浦絵美子みうらえみこ、小学校からの同級生である。

 三年後には女の子も生まれ、子育てに奔走することとなった。

 敬悟の仕事の稼ぎだけでは生活費が心もとなかったため、子供を保育園に預けられる頃になると絵美子も仕事を始めた。

 共働きしてどうにか暮らしをやりくりする日々を送っていた。


 異変があったのは、五年前のことだ。

 絵美子が右肩の痛みを訴えるようになった。

 最初はただの肩こりだろうと思い、敬悟も絵美子もあまり気にしていなかった。

 だが、日が経つにつれて徐々にその痛みが背中にも及び始め、ついには激痛で動けずテーブルに突っ伏すようになってしまった。

 整形外科に通ってみるも改善は見られず、まさかと思い内科で診てもらって、ようやくその原因が判明した。


 ――乳がん、ステージ4。


 これは、がんの転移が身体中に広がってしまっている、ということを意味していた。

 原因の病巣を取り除いたところで、もう完治は見込めないそうだ。

 整形外科で治るはずもなかった。

 右鎖骨と骨盤の右側、右肺までもがすでにがんの転移でむしばまれていたのだから。

 医師からの診断結果を聞き、敬悟は絶望に打ちひしがれた。


 折しもその日は春日和だったが、いつもは心地よい穏やかな陽気も、微笑ましい人々の賑わいも、その時の敬悟にはものにしか思えなかった。

 なぜ気づけなかったのか。

 思い起こせば、兆候はあったようにも思う。

 だが、仕事と子育てのせわしさにかまけて、その対処を後回しにした。

 大丈夫だろうと、楽観視したのだ。

 その結果がこれとは、なんと皮肉な事か。


 すぐに絵美子は入院することになった。

 放射線治療や抗がん剤を用いた治療で、その闘病生活は長く、とても辛く苦しそうにしていた。


 また、敬悟も苦労の連続だった。

 毎日仕事をしつつ慣れない家事をこなし、まだ幼い子供の面倒までも一人で見なければならなかったのだから。

 幸いにも敬悟の勤め先は融通を利かせてくれる会社で、無理のないシフトを組んでくれたため、何とか一日ずつを乗り越えることができた。

 いつか、絵美子が帰ってきてくれると願いながら、必死で頑張り続けた。


 その祈りが通じたのか、絵美子の容態は少しずつ良くなっていった。

 まだ致命的な箇所へのがんの転移が見られなかったことが幸運だったようだ。

 四肢の関節がやられていたら腕や足が動かせなくなり、最悪立てなくなっていたかもしれないというのだから、心底ほっとしたものだ。


 三か月という長い入院期間を経て、絵美子は退院した。

 思うように会えなかった愛娘との再会を、とても喜んでいた。

 半年後には仕事にも復帰し、精力的に働き始めた。

 完治こそしていないが、病気に倒れる前と同じ暮らしができるまでに回復したのだ。


 それから三年の間は、小康状態のまま何事もなかった。

 もちろん月に一度は病院に通って検査を受け、薬でがんの進行を抑え続けてはいたが、本当に平穏な日々だった。

 こんな日々がもっと続いてくれるだろうと、敬悟は強く信じていた。


 ところが、去年の冬頃から絵美子の体調が再び悪くなり始めた。

 貧血を起こすようになったのである。

 一度輸血してもらったのだが、一週間もたつと再び貧血気味になってふらふらになるのである。

 どうやら、正常に血が作られていないらしい。

 がんを抑える薬の副作用なのか、それとも薬の効きが弱くなり抑えきれなくなっているのか――どちらにせよ、良い状況ではない。

 度々、輸血をしてもらわなければならなかった。


 それでも絵美子の症状は改善せず、やがて食欲が目に見えて減り始めた。

 再入院を余儀なくされ、そこで医師からの告知を聞かされ、敬悟は絶句した。


 ――転移性がんによる肝不全の末期。


 肝臓が良くならなければ、がんの薬が効かないという。

 だが、肝不全の末期となると、ろくに食べることができない。

 食べることができなければ回復することもできず、生きてはいけない。

 それは、非情な宣告だった。


 毎日見舞いに来るたび、日に日にせ細り衰えていく彼女の姿は見るに忍びなかった。

 それを助けることもできず、ただ見守ることしかできない自分の、何と無力なことか。

 人知れず、涙せずにはいられなかった。


 それでも、敬悟は信じた。

 絵美子が再び元気になることを。

 もう一度、自分と娘の元へ戻ってきてくれると。


 ――だが、その想いは届かなかった。

 奇しくも、絵美子が静かに息を引き取ったその日もまた桜咲く春日和の一日だった。






 ふと、悲しい過去の記憶にこみ上げてくる涙を我慢しつつ、敬悟は助手席に座る少女に視線を向けた。


 自分と絵美子の愛の結晶、理絵りえ

 最期まで絵美子が気にかけた、最愛の娘だ。

 あれからちょうど一年、すっかり大きくなり、今や小学校三年生である。

 今日は娘を連れて、病院へ血液検査をしてもらいに行くところだ。


 昔、絵美子から聞いた話によると、絵美子の母親もまた乳がんで亡くなっているとのことだ。

 もしかすると、絵美子のがんは遺伝的なものが関係していたのかもしれない。


 つまり、その娘である理絵にも、その遺伝の特性が受け継がれている可能性があるということだ。

 それを確かめ、もしもの時にはすぐに対応できるように用意しておかなければならない。


 亡き妻の悲劇を繰り返さぬために。

 もう二度と、あんな思いはしたくない。

 娘にも、同じ思いをさせてはならない。

 いつの日か、しっかりと言い聞かせてやらなければならないだろう。

 それが、残された自分に託された使命のはずだ。


 信号が、もうすぐ青に変わる。

 去り際に、敬悟は今一度、和やかな春の公園を一瞥した。


 やはり、春日和は嫌いだ。

 辛い思い出を思い起こしてしまうから。


 多分、これからもずっと。

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