第八話:奪われた名と、香の証
麗蕙妃の殿を辞したソウカは、その足で南苑へと向かった。
宦官たちの詰所があり、香の流通を裏で担う場所――男たちの香が行き交う地である。
「宦官のソクに、至急、香の調達について確認をとりたいのですが」
詰所でそう口にすると、居並ぶ宦官たちが一斉に目をそらした。
誰もが、彼の名に触れることをためらっているようだった。
やがて、口の重そうな一人が小声で答えた。
「……ソク様なら、今日は香庫の裏に。新しい香材の仕分けに立ち会っておられます」
ソウカは一礼して詰所を後にし、香庫の裏へ向かった。
風通しの良い一角に、香材が並べられ、宦官たちが慎重に取り分けていた。その中に、ソクの姿があった。
「ソク様」
声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。
細く笑む唇の奥に、油断のない眼差しが光っていた。
「香司殿……何か御用で?」
「麗蕙妃殿に届けられた沈香に、麝香が混じっていたことをご存知ですか?」
「ほう。それは……大変ですね」
他人事のような口ぶりだった。
「妃殿下が倒れるほどの“過香”でした。あなたが届けた香が原因です」
「それは、証拠がおありで?」
静かに言われた一言に、ソウカは香包を取り出した。
「香炉に残された香の粉です。沈香に、麝香と、さらに一種――未記録の香材が含まれていました」
「なるほど。検香なさったと」
「ええ。しかもその香には、香符がなかった。正規の香司が調えたものではない」
ソクは目を伏せ、小さく笑った。
「香符があれば、調香した者が明らかになります。なければ、逆に──誰かの名を隠せる」
ソウカの視線が鋭くなった。
「なぜ、そんなことを?」
「……私ではありませんよ」
その言葉に、かすかに苛立ちが混じっていた。
「だが、ひとつ言いましょう。名を持たぬ香司が、今も後宮にいます。香符を押せない立場でありながら、香を調えている者が」
「名を……持たぬ?」
「あなたも、すぐ気づくでしょう。後宮に潜む“本当の名を奪われた香司”に」
そのとき、ひとりの女官が慌てて駆け寄ってきた。
「香司ソウカ様! 碧霞宮にて、また香による騒ぎが……!」
ソウカはソクを一瞥し、踵を返した。
「もうひとつ、聞かせてください。……その者の名、あなたは知っているのですね?」
「もちろん。名を知ることは、香を支配すること。だからこそ、奪った者がいる」
不敵な笑みを残し、ソクは香材の陰へと姿を消した。
ソウカは小さく息を吸い、香包を握り締めた。
(名を持たぬ香司……。誰が、なぜ、そんな影に身を置いてまで香を操るのか)
そしてまた、香の痕跡を辿る道を歩き出す。
南苑の宦官〈ソク〉が持ち込んだ、名を隠した香。
その出所を追い、ソウカは禁域に近い〈香の保管庫〉へと足を踏み入れる。
だがそこには、表に出せぬ“香”と、ある男の影が──
次回、第九話「秘め香と宦官、沈む名のゆくえ」
隠された香と、消された名。
香司の嗅覚が、沈む真実を暴き出す。