第四話:沈香の微笑み、仄かな毒
碧霞宮の朝は、沈香の香りで始まる。
柱の間を渡る風に乗って、ふわりとした重い甘みが広がっていた。
「今日の香、昨日と何か違う気がする……」
小さくつぶやいたのは、ソウカだった。
香炉にくべられた香材は、たしかに沈香だ。目視でも違いはない。けれど、鼻が告げていた。
――沈香の下に、何かが混ざっている。
微量すぎて、ほとんど誰も気づかない。けれど、その“何か”が、沈香の厚みをわずかに歪めていた。
「ショウさん、この香、いつもの香庫から届いたものですか?」
「ええ。昨日と同じ香庫。宦官のソクが届けに来ましたよ」
ソクの名に、ソウカの眉がわずかに動いた。
あの事件のあと、彼は表向き処罰もなく、香庫の仕事に戻っていた。だが、その態度には妙な落ち着きがある。まるで、自分が無実であることに確信があるように――あるいは、何も証拠が残っていないと知っている者の顔。
「この香の使用記録は残ってますか?」
「ええ。そちらに、昨日からの納品簿があります」
ショウ女官が手渡してきた帳面を、ソウカは静かにめくる。
沈香──五両。朝用。調香者:不明。刻印:なし。
「……刻印が、ない?」
香司が調香した香には、必ず香符と呼ばれる印が押される。それがなければ、正規品とは言えない。
「この香、もしかすると――」
「ソウカ様」
声をかけてきたのは、先ほどの女官とは別の者だった。
「麗蕙妃様より、お召しがございます」
ふたたび訪れる事件の匂い。
ソウカは顔を上げた。
「……わかりました。案内をお願いします」
そして、香の奥に潜む仄かな“毒”に気づいた彼女は、再び歩き出すのだった。
――刻印のない沈香、仄かに混ざる薬香の兆し。
妃の香炉に潜んでいたのは、名もなき毒か、あるいは――。
次回、第五話「香司の手と、仄めく妃の秘密」