第三話:香に沈んだ妃
後宮、碧霞宮。
その東端にある離殿に、最近新たに迎えられた妃がいた。
名を──麗蕙妃。
元は地方官の娘。才色兼備と噂され、帝に召されてひと月。
だが最近、体調を崩し、香に過敏になったという。
「香司の目で一度診てほしい」との要請で、ソウカは初めて“個人の香務”に向かうこととなった。
案内役の女官、名はショウ。
「麗蕙様はお心の繊細な方。お気をつけください。香に過敏というより、気の迷いとお噂する者もおりますが……」
淡々と話すその顔には、微かに冷たい笑み。
(誰に対してのものかは、まだわからない)
殿の扉をくぐると、ふわりと華やかな香が満ちていた。
――沈香の香りに忍ばせたのは、甘い仄かな毒。
次回、「沈香の微笑み、仄かな毒」
蘭奢待に、沈香。
名香ばかりが惜しげもなく焚かれているが──
(強すぎる。まるで香の嵐だ)
敷かれた絨毯、帳、壁の飾りまでが香に浸っている。
室内の奥、几帳の向こうにいたのが、麗蕙妃だった。
長い黒髪に、透けるような肌。
だがその顔色は優れず、眉間に薄く皺を寄せていた。
「香司殿……か。あまり近くには寄らぬで。香は、もう……たくさんなの」
「承知しました。外から香気だけ拝見いたします」
ソウカは袖口から小さな香包を取り出し、鼻先へ。
──沈香の中に、異なる香調がひと筋。
(これ、ただの沈香じゃない)
「失礼いたします。妃様、使用されている香の粉、どこで調合されました?」
「数日前、南苑の宦官が持ってきたものじゃ。新たな沈香が入ったと──」
ソウカの目が細まる。
「その香には“麝香”が混ぜられています。量はごく微量ですが……体質によっては、頭痛や吐き気の原因に」
「……!?」
ショウ女官が目を見開く。
「でも……麝香は、帝の勅許がなければ使えぬはずでは……?」
「本来はそうですが、粉状にすれば見た目では分かりにくい。沈香に混ぜれば、香りも似通います」
麗蕙妃は唇を押さえた。
「わたくしは……毒を盛られていたというの……?」
「毒というほどではありませんが、意図的な“過香”──過剰な香による体調不良に誘導された可能性があります」
ソウカは、床の香炉に目を落とした。
その内側に、薄くこびりついた粉。
銀の香杓でそっと掬い、香包に収める。
「検香いたします。この香を調えた者──調べます」
麗蕙妃は、静かに目を伏せた。
そのまつげの奥に、わずかな怯えと怒りが混ざっていた。
(これは単なる香の事故ではない。誰かが妃の体調を崩すよう仕組んでいる)
その香を持ち込んだ宦官──
名前は〈ソク〉。南苑所属。
次に、訪れるべきは──“男たちの香の流通”の場所。
――妃の部屋に満ちる、甘く危うい香。
麝香を忍ばせた沈香が、彼女の体を蝕んでいた。
それは偶然か、意図された“過香”か──
次回、第四話:「沈香の微笑み、仄かな毒」
香の奥にあるのは、仄かに笑う誰かの気配。
活動報告の方で簡易ではありますが登場人物相関&後宮マップ公開させていただきますので、ご活用ください。