第二話:香司、後宮に入る
後宮の門は、朝霧に沈んでいた。
灰青の瓦、朱塗りの柱、どこまでも張り詰めた静寂。
その先に広がるのは、香と嘘と、美と権力が折り重なる場所──。
「ソウカ、お前が……あの文字を書いたというのか?」
玉座の間にて。
帝の問いに、ソウカは頷いた。静かに、淡々と。
「その場に、香の違和がありました。あの死体の周囲だけ、白檀の香りが変質していました。香盤に入っていた香木は未加工で、それが犯人の落とした証拠です」
帝は沈黙した。
金の冠をいただくその横顔には、威厳と警戒が交差している。
「ならば──お前に命ずる。後宮に入り、“香司”として仕えよ。真実の香を嗅ぎ分け、その鼻で、後宮の闇を暴け」
「……承知いたしました」
祖母と暮らしていた香の老舗〈千蕊香堂〉に突然、御触れが下ったのは昨日のこと。
ソウカは納品に訪れた先で事件に遭遇し、何の因果か帝に見初められ、香司として召し抱えられることになった。
後宮で働く女性のほとんどは、宦官の管轄下にある。
だが“香司”だけは例外だ。香りは医と密接に関わり、帝の寝所にも関わる以上、内密と信頼が求められる。
(……あの殺人に、違う匂いがした)
宮廷に入った今もなお、ソウカの鼻腔には、あの奇妙な香が微かに残っていた。
血の匂いに混じっていたのは──毒の香り。
白檀に偽装された、死を招く調合。
(あれは偶然の事件じゃない。香を操った誰かが、後宮にいる)
「案内いたします、香司殿。これより“碧霞宮”があなたの執務場所となります」
案内に現れたのは、年若い女官。
細い目の奥に、ほんのわずかに警戒が見える。
「ここでは言葉が命取りになります。お気をつけくださいませ……香司様」
ソウカは、静かに微笑んだ。
そして、袖に隠した香包を指先で撫でる。
──香りは、真実を隠せないのだから。
仄かに甘い香に潜んでいたのは、妃の身体を蝕む微量の“毒”。
誰が、何のために――?
沈香に混ぜられた麝香、曖昧な納品記録、静かにほほ笑む妃と女官。
香は嘘をつかない。だが、それを使う者の意図は見えにくい。
導かれる先は、香を操る“男たちの裏側”。
香司ソウカが辿る、香の痕跡のその先にあるものとは――。
次回、「第三話:香に沈んだ妃」