第一話:香の謎と帝の御前
「今日の香は、すこし違う気がする……」
ソウカは納品用の香木を包んだ布を手に、後宮へ向かう道を歩いていた。
帝都で最も格式の高い香の老舗《瑞花香堂》。その香司見習いとして働く彼女は、祖母から託された仕事をこなすため、初めて後宮へ足を踏み入れる。
静かに門をくぐり、案内役の女官に導かれて翠燕妃の私殿へ。
空気は重く、沈黙が広がっていた。
「妃様、お香のお届けに参りました」
小さく告げた声は誰にも届かず、皆が何かに気を取られている。
——中央の畳の上に、若い侍女が倒れていた。
血色を失い、唇は紫に染まっている。
すでに息はない。
「…急に倒れたのです。朝食を下げに来たところで…」
そう説明した女官の顔も青ざめていた。
ソウカは言葉少なに状況を見つめながら、そっと鼻を鳴らす。
——血の匂い、香木の燃えかす、茶器に残る梅の香…
だが、それ以外に、微かに何か違和感のある“香り”が混ざっていた。
「外から…?」
直感でそう思ったソウカは、部屋の縁側に向かい、地面の上にしゃがみ込む。
近くに落ちていた枝を拾い、乾いた土にそっと文字を書き始める。
「毒の香は、後宮のものではない」
「香炭に仕込まれていた可能性がある」
「部屋に入ったのは侍女だが、毒はすでに部屋にあった」
周囲の者たちは呆然とその様子を見ていた。
「……お前、誰だ?」
居合わせた侍従が声をかける。
ソウカは黙って、祖母の名を出した。
「瑞花香堂の孫です。香司見習いです」
それだけを答えると、また視線を地面に戻した。
その夜、事件の詳細が帝の耳に入る。
“無言で土に真相を記した少女”がいたと。
帝は静かに告げた。
「面白い。名をソウカと言ったか。その者を、後宮に召し抱えよ」
こうして、香司の少女は、誰も予想しなかった運命の渦へと巻き込まれていくことになる。
――少女が地面に書き遺した“答え”が、帝の運命を変えていく。
次回、第二話「香司、後宮へ入る」