第十六話:仮面の裏、香を封ずる者
帝香の間。
それは、後宮の奥でもさらに奥──香すら許されぬ禁域の中にあった。
仄暗い石造りの廊下を進んだ先、白衡が立ち止まる。
「ここが、帝のためだけに調えられた香の間だ」
白衡の手が扉を押し開けると、淡い光と共に、かすかに薫る香が漂ってきた。
(これは……沈香に、白檀、そして、麝香……いや、もっと深い……)
ソウカの鼻が震える。
香は、時間とともに層をなしていた。
最初は甘やかな誘い。次に、深い沈静。そして最後に、何かを覆い隠すような、無香の壁。
「この香は……記憶を封じる香だ」
「その通り」
白衡が頷いた。
「帝は──かつての出来事を、香で忘れることを望んだ。香には、心と記憶に作用する力がある。妃たちの“忘却”もまた、この香により成されている」
「そんな……」
「清蓮は、この香に異を唱えた。香は癒しであるべきだと。しかし……帝の命令に背くことは許されなかった」
白衡の目が、過去を見つめるように細められる。
「私は、清蓮を守れなかった。香を知りすぎた者は、この後宮では消される。だが……あなたには、選ばせよう」
ソウカは静かに前へ出る。
「香は真実を語る。たとえそれが、誰かの記憶を暴くものであっても──」
仮面のソクが進み出て、一枚の香符を差し出す。
「これは、清蓮が最後に記した香符です。禁じられた調香の記録。帝の香の“中核”にあたるものです」
「これが……」
香符に記された配合は、常識を逸したものだった。
香の層に記憶を沈め、代わりに“偽りの安心”を焚き続ける。
──香で、帝の意識そのものを支配する調香。
「あなたなら、清蓮の遺志を継げるかもしれない」
白衡の声には、希望と諦念が交じっていた。
「では、あなたはこれまで帝に仕えて、その香を守ってきたと?」
「香を支配するのは帝だ。私はその香を調えるだけ。だが……これ以上は、続けられない」
白衡が仮面のソクに目配せする。
「ソウカ。帝に謁見する覚悟はあるか?」
ソウカは、香符を胸に抱いた。
「香司として、真実に背を向けることはできません」
白衡は静かに笑い、扉のさらに奥──帝の座する間へと、道を開いた。
扉の先には、まだ見ぬ香が、息を潜めていた。
帝香の間。
香の気配に満ちたその場所で、ソウカはついに「記憶を封じる香」と対峙する。
明かされる清蓮の最期。
仮面を脱いだソクの過去。
そして、“帝”という存在に仕組まれた、香による真実の封印。
香は記憶を操るのか。
それとも、記憶は香によって守られていたのか。
次回、第十七話「帝と香、封ぜられし記憶の奥で」




