第十三話:白衡と密香、禁じられた調香
後宮、無香の間――。
香を一切焚いてはならぬはずのその場所に、わずかな香気が漂っていた。
ソウカは扉の前で一歩を止め、袖口の香包を鼻先に寄せる。
(これは……密香。極めて濃密、けれど、姿のない香)
香に仕込まれた意図は、ただの愉悦ではない。心を和らげ、問いかけの意識を鈍らせる――尋問の場に用いられる類のもの。
「香司殿、ようこそ。貴殿の働き、陛下もご興味を持たれている」
声とともに、奥から男が現れる。
白衣をまとい、仮面をつけた上宦――白衡。帝に最も近い香の管理者。
「白衡様……わたくしに何のご用でしょう」
「“清蓮”の香を追っていると聞いた。あれは、すでに帝のもとにある香だ」
ソウカの眉が動く。
「それは、どういう……」
「かつて杏花堂が焼かれた夜、清蓮の香だけは、帝の私庫に運ばれた。理由は……後宮を乱す香を封じるためだ」
白衡は壁際の棚を示した。そこには、封印された香符が並ぶ。
「だが近年、この香が再び動き始めた。誰かが、禁を破って“密香”を調えたのだ」
「それが……麗蕙妃の体調を崩した香」
「そう。おそらく“模倣”だが、原香に酷似している。問題は、それが帝の近くにも持ち込まれたこと」
ソウカは息を呑む。
(帝の香……そこに手を出す者がいると?)
「貴殿には、調香の真偽を見極める“目”がある。ゆえに招いたのだ」
白衡が差し出したのは、小さな香片と香符。封印を破られた跡がある。
ソウカは慎重に香を嗅ぐ。
(これは……清蓮の香と同じ源だ。でも、何かが歪んでいる。香の構成が、どこか濁っている)
「これは、“毒”です。心を鎮める香ではない。感情を抑え込み、意識を支配する類……」
白衡が頷いた。
「貴殿の見立てどおりだ。すでに、帝も不調を訴えておられる」
「……!」
「そこで頼みたい。“真なる清蓮の香”を調べ、帝を蝕む偽香を暴いてほしい」
ソウカはしばし沈黙し、香符を胸に収める。
(これは、帝をも巻き込む“香の政”――)
「わかりました。ですが、一つだけ……」
「何か?」
「偽香を調えた者の名前。それを突き止めた時、わたしのやり方で公にします。それでも?」
白衡の仮面の奥で、笑みが動いた気がした。
「構わぬ。真実は、香に刻まれている。貴殿がそれを嗅ぎ分けるなら――止めはしない」
その瞬間、ソウカは覚悟を決めた。
かつて、すべてを奪われた香司の名。今、帝の傍にて歪められようとする香。
(そのすべての“痕跡”に、香で答える)
香司として、真実を暴くために。
仮面の宦官・ソクが語る沈黙の真実──
その背後に立つのは、帝の側近にして後宮の香を統べる上宦・白衡。
香に仕掛けられた意図、そして“清蓮”という名を消した者の正体とは。
ソウカは導かれるまま、帝の密香が眠る聖域へと足を踏み入れる。
次回、第十四話「仮面と密香、白衡の誘い」




