第十話:沈む名を探して、香符の闇へ
「……それを見たということは、もう引き返せぬぞ、香司殿」
ショウ女官の声は静かで、けれど、そこには鋼のような響きがあった。
ソウカは香包を手にしたまま、彼女を見返す。
「これは……清蓮の刻印。杏花堂の、最後の香司の名」
「そうだ」
ショウはゆっくりと歩み寄り、几帳の傍らに立った。
「彼女は、生きていた。そして、名を棄てて後宮に潜った」
「あなたが……?」
「違う。私は、彼女の弟子だった者よ」
その言葉に、ソウカの背が粟立つ。
「杏花堂が焼かれたあの日、すべてが奪われた。香司の名も、技も、そして“清蓮”という存在も。だが、香だけは──残ったの」
ショウの手が懐から、小さな香符を取り出した。
それは、先ほど見たものと同じ、清の一文字が刻まれていた。
「後宮に入り、私は香を見続けた。偽りの香、権力のための香、誰かを傷つけるための香。清蓮様が築いた調香の誇りが、穢されていくのを見てきた」
「だから……過香で妃の体を?」
「違う。わたしは証を残すために動いていた。あなたが香の異変に気づいたとき、試したの。見極めたかった。あなたが“本物の香司”かどうか」
「……!」
ショウは、香包をソウカに差し出す。
「清蓮様は亡くなったが、その香は今も生きている。あなたが“継ぐ”というなら、教えるわ。奪われた名を、取り戻す術を」
ソウカの胸に、激しい感情が渦巻いた。
怒りではなく、希望でもない。静かな決意。
(わたしは、香で真実を嗅ぎ分ける者……香司として、生きる)
「その申し出、受けます。ですが……その前に」
ソウカは、ショウの目をまっすぐに見据えた。
「宦官ソクを使って、誰が“毒の香”を調えたのか。それを突き止めます」
ショウは、かすかに口元を緩めた。
「ならば、あなたに必要なのは“香の記録”だ。沈香の誤魔化し、麝香の混入、すべての香符を保管している場所がある」
「どこに?」
「皇帝の私庫──“無香の間”」
その名に、ソウカの眉が動いた。
(後宮で唯一、香が禁じられた部屋……)
そこにこそ、すべての香の記録と、消された真実が眠っている。
沈香、麝香、白檀――
あらゆる香の記録が封じられた、後宮最奥の“禁じられた部屋”。
香司として踏み込む覚悟を胸に、ソウカは沈黙の扉を開く。
次回、第十一話「無香の間、沈黙の香符」




