第九話:秘め香と宦官、沈む名のゆくえ
南苑──男たちの香が行き交う場所。
香を焚き、装いを整え、帝に仕える宦官たちの務めの裏には、密やかな香の取引もまた存在する。
ソウカは香包を懐に、苑の外れにある香庫へ足を運んだ。
「ここが……南苑の香庫か」
門前には、二人の宦官が立ち塞がる。
「香司殿でも、ここはご自由に出入りいただける場ではありません」
「勅命を得ているわけではないが、後宮内の香について調査を依頼されております。協力いただきたい」
「……お待ちください。内官ソク様に確認を──」
その名に、ソウカの目が僅かに細まった。
(やはり、ここにいたか)
しばしの後、内から細身の男が姿を現す。年の頃は四十手前。目元に愛想を浮かべているが、どこか空虚な笑み。
「これはこれは。香司殿がいらっしゃるとは……どういったご用向きで?」
「数日前、麗蕙妃に届けられた沈香に、規定外の麝香が混ざっていた。調香元は貴苑からと伺っています」
「……はて、麗蕙妃に沈香をお届けした宦官などおりましたかな」
「お名前は〈ソク〉。あなたでしょう」
その笑みが、一瞬で剥がれた。
「そのような証拠が?」
ソウカは香包を取り出し、封を解いた。中には、前夜麗蕙妃の離殿から持ち帰った香炉の残り香。
「検香済みです。沈香に麝香、それも揮発を抑えるような特殊な練り合わせ方。これは通常の調香ではありません」
「……ほう。香司殿は、たいそう鼻が利くのですね」
ソクの声色が変わる。柔らかさの裏に、鉄のような冷たさ。
「だが、その香を調えたのが私だという確証はどこに」
「この香符に押された印を見てください。あなたの印と一致するものが、南苑の過去帳からも確認できます」
ソウカは巻物の一部を開き、香符を指し示す。
「そして──この香符は、本来の書式と違う。紙質も異なり、調香者名も抜かれている。なぜでしょう?」
ソクの目に、静かな焦りが浮かぶ。
「妃に届けた香が妃の体調を崩し、その上、香符には偽り。意図的な操作があったとしか思えない」
「……ふん。私一人の判断ではない。香を届ける役目など、いくらでも代わりが──」
「ですが、調香は“名を持つ者”の責任です。その名が抜かれていれば、誰が責任を問われると思いますか?」
ソウカの声は淡々としていた。
沈黙の中、ソクはわずかに視線を逸らした。
その背を見送りながら、ソウカは確信した。
(まだ奥に、何かがある。香を操作することで、後宮の力関係を動かす者が──)
それは、香だけの問題ではない。
“名なき香司”の存在。そして、意図的に偽装された香符。
次なる手がかりは、過去に葬られた“名”にある──
偽りの香符、抜かれた名、そして沈香に仕掛けられた密かな意図。
ソウカは、香の帳の奥に潜む“名なき調香”の真相に踏み込む。
次回、第十話:「沈む名を探して、香符の闇へ」




