後編
翌日。侍女達によって髪は丁寧に結い上げられ、時間を掛けて化粧を施され、最後に花嫁衣装を纏った。
「ほぅ……」と感嘆の声が侍女達の口から漏れる。姿見に映る私はとても美しかった。
「ミーシャサナリア様、なんとお美しいこと」
「この場に立ち会えたこと光栄に思います」
目尻に涙を浮かべる侍女達に、私は「ありがとう」と笑みで応える。
鏡に映る私は幸せそうに笑っている。……とうとうこの日がやって来たのだ。
母を捨てた父を憎んでいた。
大好きだった生まれ育った国を嫌いになった。
でも、復讐なんて考えていなかった。そんなことをしても、亡くなった母は蘇らないから。
父のことを忘れ、母との美しい思い出だけを胸に仕舞って生きていこうと思っていた……なのに、神は私に【番】という枷を与えた。
……なぜ……ですか……
私の嘆きに、神が応えることはなかった。
スタンツ公爵家は婚姻の申込みをしてきた。厄介者が金のガチョウになったと、親戚は嬉々として私を差し出した。
そして、私はこの国に戻ってきて思い知った。決して過去を忘れてはいけないのだと。
再会した父は母や私に対して罪悪感を感じてはいなかった。それは、ローズマリーも同じだった。
でも、二人だけではない。ガイアンも、優しい侍女達も、この国の者達はみな同じ。
番という絆は尊く、何人たりとも侵してはならないものと教えられてきたから。
番という概念を受け入れられない者の気持ちなど分からない。それこそ、どうして出逢えた彼らの幸運を喜んであげられないの? となる。
だから、私に屈託なく笑い掛けられる。後ろめたいことなど一切ないから。
分かりあえないこともこの世にはたくさんある。
人種や宗教や性別や身分など、些細な違いが壁となる。乗り越えられることもあるけど、無理なときもある。
――それも当然。
でも、自分の当たり前を押し通そうとしたら、何も始まらない。
母は私のために父と話し合おうとした。でも、父は向き合うことすら拒み、周りもそれを容認した。
この国は【番】という、尊くも甘美な呪いに縛られている。
この先も、母のようにやむを得ない政略でこの国に嫁ぐ女性が出てくるだろう。
婚姻後にもし相手が、番と出会ってしまったらどうなるだろうか。きっと、母と同じ結末が待っている。
――悲惨な最期。
母は助けられなかった。でも、第二第三の母を生み出さないようにはできる。
番は抗えない本能なのだという。だとしても、勝手な価値観を押し付け、相手を踏み躙ることは許されない。
支度を終えたあと、ローズマリーが控室へと入ってくる。
侍女達は彼女のために、私から少し離れて場所を譲った。彼女がこのタイミングでここに来ることは決まっていた。
花婿の母は花嫁に新鮮な朝露を贈る慣習があるのだ。
「ミーシャサナリア、あなたが私の義娘になってくれて心から嬉しいわ」
「私もこうして、縁を結べて嬉しく思っております。お義母様」
「番に愛される人生ほど素晴らしいものはないわ。私達はふたりとも幸運だったわね」
彼女はにこやかに、私の返事を待っている。
その幸せが誰の犠牲の上に成り立っているかなんて考えることもなく。
「……はい」
朝露が入った小瓶が手渡される。
侍女達が温かい眼差しで見守る中、私はその中身を飲み干した。
その瞬間、口内に含んでいた丸薬を噛み砕いて飲み込む。……誰も気づいていない。
私が飲んだのは十分後に効く毒薬。
だから、参列席に戻るローズマリーに続いて、すぐに控室を出た。もちろん侍女達に囲まれて。朝からそうしてきた、最後までそうする。
幸せな花嫁の一挙手一投足を、彼らには覚えてもらわなければならないから。
――私が自ら口にしたのは、義母から渡された朝露のみと。
調べれば毒によって死に至ったと分かるはずだ。
番に愛されている幸せな花嫁が自ら死を選ぶなどあり得ない、と誰もが思うだろう。番に選ばれるということは、そういうことなのだ。
となれば、疑いの目は小瓶を渡した者に向けられる。
でも、決定的な証拠は出てこない。なぜなら、義母は何もしていないから。あるのは状況証拠のみ。
……それだけで十分よ。
番を失ったガイアンは冷静ではいられない。
母を疑い責め立て、その先もあるやもしれない。
だが、父がそれを許すはずはない。番を守るためなら我が子同然のガイアンの命を奪うことも厭わないはず。
でも、それをローズマリーが耐えられるはずはない。必死になって父を止め、息子に『母を信じてちょうだい』と訴えるだろう。
番至上主義を貫くゆえに、彼らは終わりのない輪に一生囚われる。
この悲劇は語り継がれ、”人”との婚姻への抑止力となるだろう。
この国の人達の番への考えは変えられない。それを逆手に取るのだ。彼らは悲劇の原因を【番】以外に求めるだろう。誰しも己にとって神聖なものを穢すような答えを無意識に避ける。
そして、彼らは都合の良い答えに縋る――私が”人”だったから起こったことではないか、と。
荘厳な鐘の音とともに、ヴァージン・ロードをひとりで進んでいく。本来なら父と歩くものだが、彼は番の隣に立つことを選んだ。
絶え間なく降り注ぐ祝福の声が、私の声を消してくれる。
「番との愛を何よりも重んじるのなら、その愛を思う存分貫いてください。お父様」
ベールの下の私はふふっと声を上げて笑う、と同時に膝から崩れ落ちる。
「ミーシャサナリア!」
駆け寄って来たガイアンが、床に横たわる私の体を掬い上げる。よく効く毒だ。もう体の感覚はない。
「ミーシャ、ミーシャ!」
彼は悲痛な声で何度も私の名を呼ぶ。
いいわ、もっと呼んでちょうだい。盛り上げて……
「一体どういうことだ!? ミーシャサナリアに何があったんだ! 誰が……」
父の怒声が響き渡る。
口から血を流している私は、どう見ても害されたようにしか見えないはず。そういう毒を選んだから。
「ミーシャサナリア様が口にしたのは、朝露だけでございます。緊張して、朝食はいらないと……」
震えながら答える侍女に、参列者がどよめく。
朝露を集めて渡すのは、ひとりしかいないと誰もが知っているからだ。
「……わ、私は何もしていない……わ。ただ、朝露を渡した……だけ。旦那様、信じて!」
きっとローズマリーは今、父の胸に縋っているのだろう。そして、父は青褪めながらも、そんな番を大切そうに抱きしめているはず。
横たわる私には、彼らの姿は見えないけれど分かる。それこそが番。だから、こうなった。
「ミーシャサナリア、頑張れ。すぐに医者が来るから」
「……えぇ……」
毒の影響で声が震える。演技には自信がなかったけど、その心配はなかった。
誰から見ても愛されることを受け入れている番にしか見えない。
「……ゴフッ……」
血を吐き出す私をガイアンは躊躇うことなく抱きしめる。
温かいはずなのに、体が氷雪のように冷たくなっていく。寒くて堪らない。そろそろフィナーレにうつらなければ。
「ぉ、願い……生き……て……」
私のあとなんて追わせない。
「ね、約束……して、ガイア……ン」
番の願いを断れないのが番のサガというなら、それをとことん利用するわ。
ガイアンは素晴らしい人だ。たぶん、こんな形で出逢わなかったら違う未来があったかもしれない。
――彼は知らない。
私の血が、彼は【私の番】だと告げていることを。
……教えてなんかあげない。
だって、母を死に追いやった【番】なんて大嫌いだから。
私は番に囚われたりしない。
私だけは母を裏切ったりしない。……いいえ、してはいけないのだ。
私まで番という存在に翻弄されたら、母の不幸を肯定することになってしまうから。
……番を求める心には抗えないなんて嘘。
母に対する罪悪感と、番への想いに挟まれて、私はずっと苦しくてしかたがない。もし、何よりも優先される想いなら、こんなふうにはならないはず。
そうですよね? お母様
母は答えないけど、私は間違っていない。甘美な呪いに負けていないのが、何よりの証し。
――間違ってない。
本当に?
――間違ってなんかない。
後悔しない?
ああ、煩い、煩い、煩い……
頭の中の二つの声。番と出逢った日から煩くて堪らない。いい加減にして欲しい。
そんな声をガイアンが打ち消す。
「約束するよ、ミーシャサナリア」
「……ありが……う。うれし……い……」
歓喜で声が震える。約束は必ず果たされる――呪詛は完成した。
何よりも尊い永遠の愛に従って、彼らはこれからどう幸せになっていくのだろうか。結末を見られないのは残念だけど仕方がない。
どうぞ、存分に本能とやらを優先してくださいませ。できるものなら……
祝福の鐘がまだ鳴り続けている。
このまま鳴り続ければいい、私のための弔いの鐘として。
赤く染まった花嫁衣装を纏った私は、今心から笑えている。
――ようやく、すべてから解放された。
「ミーシャサナリア、私の愛しい番。愛して……いるよ」
ガイアンは嗚咽しながら愛を告げてくる。
今までずっと私は、強張った笑みで応えるだけだった。怖かったのだ、言葉にしたら囚われてしまう気がして。でも、もう大丈夫。だって、最期だから。
「……あ、いして……ます……」
……やっと言えた……
――とても幸せ。