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前編

「ミーシャサナリア様、お疲れ様でした。これを以て婚前の施術は最後となります。明日は誰もがミーシャサナリア様に魅了されてしまいますわね」


ベッドの上で横たわる私に向かって、手に香油が染み込んだ侍女は明るい声音でそう告げる。その表情を見れば、心からそう思っているのが伝わってくる。

お世辞や忖度ではないのだから、喜ぶべきだろう。


私は今するべき表情――にっこりと微笑んで頷いた。


「私どもは下がりますが、何かあればベルを鳴らしてくださいませ。すぐに参ります。では、ごゆっくりお休みください。良質な睡眠はより肌を美しくしてくれますから」


「ありがとう」


寝間着に袖を通した私を残し、侍女達は部屋から退出した。ふとテーブルの上を見れば、温めたミルクが置かれている。


 安眠のために用意してくれたのね……


告げなかったのは、寝る前に飲む習慣がない私が気を使って無理に飲んだりしないようにだろう。


彼女達の好意を無下にはしたくはない。


カップを手に取り口をつけると、蜂蜜の香りがふわっと口内に広がる。ミルクの甘さしか感じない。甘味を好まない私に合わせて、香り付け程度にほんの少しだけ入れているのだ。


至れり尽くせりな心遣い、それはこの国――ボロスワット国に迎え入れられた一ヶ月前から続いている。


私はみなから祝福された花嫁だから。




私――ミーシャサナリアは明日結婚する。相手はボロスワット国内でも有力貴族の筆頭に名を連ねるスタンツ公爵家の跡継ぎ――ガイアン。


彼とは私の母国であるガローナジャ国の夜会で出逢った。誰かに紹介されたわけではなく、その出会いは本当に偶然。いいえ、彼に言わせれば運命。


 ……そう、私は彼の番だった。



『私はガイアン・スタンツと申します。お名前を聞かせていただけますか? 私の番』


『えっ、ツガイ……』 


彼は跪いて、私に向かって手を差し伸べた。それは求婚を示す行為だった。


彼の国は獣人を祖とする人々が暮らす国。長い年月によって尻尾や耳などの特徴は失われており、姿形は人と変わらない。しかし、腕力や俊敏さなどは人よりも遥かに優れており、人種的に優劣をつけるなら、彼らが上で間違いない。


そんな彼らが人を結婚相手に選ぶことは基本ない。

番という運命の相手と出逢えなかったとしても、獣人の血に誇りを持っている彼らは同族との婚姻を望む傾向にあるからだ。


ある意味、閉鎖的な国。


だから、長い歴史を遡っても、嫁ぐためにボロスワット国にやって来たのは数人しかいない。その中で【番】は私だけ。あとの人達はやむを得ない政略だったと聞いている。



「ねえ? あなたは今幸せ?」


鏡に映った自分自身に問いかける。


艷やかな髪は絹糸のよう。香油で丹念に磨き上げられた肌は真珠のように白く、爪は桜貝のように輝いている。

磨き続けられた結果は、誰が見ても『幸せな花嫁だ』と称賛するであろう姿。


こんなふうに迎え入れられたのは、()だからではない。



――番だから。



ガイアンはとても誠実で優しい人。でも、彼が好きなのは私ではなく、番という存在。でなければ、私を選んだりはしなかったはず。


私達の関係は複雑だ。


 ……いえ、そう思っているのは私だけだったわね。



彼の養父は私の実父でもあった。



私の母はやむを得ない政略で、この国に嫁いだ花嫁の中のひとりだった。


母国で侯爵令嬢だった母は、スタンツ公爵夫人としての務めを十二分に果たせる教養を持ち合わせていた。父と母はおしどり夫婦とまではいかないまでも、良好な関係を築き、私という娘を授かった。



何もかも順調だった。



ずっとこの安穏が続くと思っていた。



なのに、私が五歳のときの父が番と出逢ったのだ。


どこの国でも婚姻は法によって守られている。でも、ボロスワット国には例外があった。


――『番のために婚姻を解消する権利を何人たりとも侵すことはできない』と。


番を求める心には抗えない。息を吸うのを止めることができないように。

だから、番と出会ったら離縁できると法で定められていた。


父は正当な手続きを踏んで円満に離縁し、母とともに私も戸籍から排除した。


私は父と戸籍上は他人となった。


父は番のために戸籍を綺麗にしたのだ。新たな門出に番を煩わせるような余計なものは要らない、と思ったのだろう。


そして、番であるローズマリーと再婚し、その連れ子を養子にした。

彼女は父と違って、結婚相手と死別していた。そのうえ、ガイアンを生んだ時にもう子は望めない体になってしまっていた。

鬼籍に入っている前夫に嫉妬するよりは寛大な自分を見せたほうがいい。父は番に好かれたいがゆえに、そう判断したのだろう。




そして、十五年振りに再会した父は、ガイアンと仲睦まじい親子となっていた。


『まさか、こんな形でまた義親子になれるなんて。親馬鹿と思うだろうが言わせて欲しい。ガイアンは我が息子ながら良い男だ。彼に選ばれることを望まぬ令嬢はいないほどにな』


『父上、やめてください。親馬鹿にも程があります』


『ふふ、だって我が子が可愛くて仕方がないのだからしょうがないわ。ね? 旦那様』


ローズマリーがそう言うと、父は胸を張って答える。


『そなたに似た子を愛しいと思うのは当然だ』


ガイアンにとって父は養父ではなく、もう父だった。父にとってもそれは同じで、養子縁組を行った連れ子は名実ともに実子となっていた。


目の前で繰り広げられる仲睦まじい家族の会話。

そこにあるのは、花嫁となる私を歓迎する温かい雰囲気だけ。


私と父の関係を知らないわけではなかった。でも、彼らにとってそれは遠い過去――気にする価値もない――になっていたのだ。



『番という運命が、また我々を引き合わせてくれた。神に感謝しよう』


父は何度となく嬉しそうにこう告げた。自身の番を愛しげに引き寄せて。親子三人の楽しげな声が響く。



 ああ、そうか。彼らは今――曇りなど一点もない完璧な幸せ――に満足しているのだ。


そして、私も同じだと疑うことなく思っている。だから、聞かないのだ。私がどんな気持ちなのか。


 ……教えてあげないわ。


だって、言っても彼らには理解できないから。







「だからね、忘れられない結婚式にしてあげるわ」


鏡に映る私は微笑んでいる。

こんなふうに笑ったのは、いつぶりだろうか。思い出せない、それくらい昔のことだった。



母国に戻った母と私を待っていたのは、蔑みと憐れみだった。

獣人を祖に持つ者達にとって番は特別。でも、人にその感覚は分からない。


目に見えて何かがあるわけではない。一方的に番だと主張するだけなのだから。


獣人の血が薄まった結果、互いに番と認識することはまずないのが実情。とても曖昧なもの。



番と出逢った者には離縁の権利が法で定められているといっても、”人”側からすれば捨てるための方便でしかなかった。


瑕疵があるから離縁されたのだ――とまことしやかに囁かれた。


『親子ともに捨てられるなんて、何をしでかしたのやら』


『全く我が国の恥だな。よく戻って来られたものだ』


心無い言葉に心が抉られた。

耳を塞いで『イヤイヤ、帰りたい』と泣く私を、母は優しく抱きしめてくれた。


『もうあちらに戻っても居場所はないの。ミーシャ、あなたは前だけを見てなさい。そして、可愛い笑顔を見せてちょうだい』


母は私が泣き止むまで、何度も何度も優しくそう言い続けた。


今思えば、居場所がないという言葉は自分自身に言い聞かせていたのだろう。逃れられない現実に耐えるために。


離縁された元侯爵令嬢に力も居場所もない。母の生家は、駒として(厄介者)をいいように使った。母の美貌を権力者に楽しませたのだ。

私を抱きしめる母の腕は、日に日に細くなっていった。


『お母様、大丈夫?』


『ええ。あなたがいれば、それだけで幸せよ』


『本当に?』


『ええ、本当よ。だから、笑顔を見せてちょうだい、私の可愛いミーシャ』


大丈夫ではないと分かっていたから、笑えなかった。

でも、どうしようもなかった。……幼い私にできることは何もなかったから。


 もう少し大きくなったら、助けて差し上げます、お母様。


そう心のなかで唱えるのが精一杯だった。


でも、その日が来る前に母のために弔いの鐘が鳴った。私が十歳のときのことだ。

棺に収められたやせ細った母に向かって私は聞いた。


『お母様、もう辛くはないですか? もう誰かに酷いことをされたりしませんか?』


私の涙が母の頬を濡らした。泣いているのは母でないと分かっていたけど、ずっと泣けなかった母がようやく泣くことができたのだと感じた。



『解放された……のですね、やっと。お母……様、っう、うぅ……』


泣きながら笑ったのを思い出す。




 ……そうか、十年ぶりだったのね。



あの時とは違う。鏡のなかで静かに笑っている私はとても幸せそうだ。



 これって、お母様が望んだ笑顔……ですよね。









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