第56話 うたかたのゆめ。
瞬きをすると、目の前に楓の顔があった。
お互いのまつ毛が触れ合うほどの距離。
『この子、こんなに睫毛長かったんだ』
楓の深茶色の瞳は、凛の灰青色の瞳や琴音の灰茶色の瞳とも違う、きっと俺の本心なんてお見通しで、安心させてくれる色だと思った。
楓は、鼻と鼻が当たらないように少し角度をつけて、再び唇を押し付けてくる。それは男にはない柔らかさで、俺は、否応なしに楓が女性だと思い知らされた。
そして、息をするために少しあいた唇の間から、楓の舌が入ってくる。
「んっ、……はぁはぁ」
いつもとは違う楓の艶っぽい声が耳元で響き、口にミントの香りの余韻が残る。
「ちょっと、楓」
俺が楓の両肩を持って押し戻そうとすると、すぐに楓は背伸びして懸命に抱きついてくる。
そして、またすぐにキスをされた。
楓の唇はしっとりしていて、温かかった。
俺は、キスがこんなに気持ちの良いものだとは思わなかった。ググっと楓の舌が入ってきて、口の中で俺の舌に巧みに絡みついてくる。
数十秒ほどして、楓の唇が離れた。
楓は、はぁはぁと肩で息をしている。
真っ赤な顔をして、三つ編みの先を右手の指先で何度も摘み直すと、喃語のような甘えた声を出して、また抱きついてきた。
ふわっとシャンプーの香りがして、楓の控えめな胸が、俺に押し付けられる。
奥手なのにこんなに一生懸命で。キスの効果なのだろうか、いつしか俺の中に、目の前の女性を、愛おしいと思う気持ちが芽生えていた。
楓は話し始めた。
「ごめん。その……琴音ちゃんに言われて、れんが取られちゃうって思った。へんだよね。もともとわたしのものじゃないのに。でも、凛ちゃんなら仕方ないけど、他の子はイヤだったの」
楓は俺の首元に顔を擦り寄せてくる。
「あのね。わたし高三じゃない? だから来年卒業したら、ここのバイトもやめるかもしれないし。そうしたら、レンと接点無くなっちゃうし、会えなくなるかも。わたしね。バイトでレンと会えるの楽しみだったんだよ」
楓は俯いた。
その表情は俺からは見えない。
「ごめん。でも……。わたし、わかってる。わたしは、女の子っぽくないし、地味だし。可愛くないし。れんと付き合ったりできないって」
「いや、そんなことは……」
楓は少しだけ俺を見上げる。顔は赤くて、目に涙をためていた。
その涙は、表面張力の力を借りて、涙袋の上に辛うじてしがみ付いているようだった。
「そう思うなら、今日だけ夢みさせて。明日からはただのバイトの先輩に戻るから。凛ちゃんにも琴音ちゃんにも内緒にするから。今日ね。うち、誰もいないんだ。朝まで……ううん、夜だけでいいから、もう少し一緒にいて欲しいの」
それって、エッチの誘いだよね?
いや、正直、めっちゃしたい。
楓の華奢な身体をめちゃめちゃにしたい。
キスだけでも、これだけ興奮するんだ。
この続きは、どれだけ気持ちいいんだろうか。
楓は普通に可愛い。
平々凡々な俺には、もったいないくらいの相手だ。
いや、でも、だからこそ。
ダメだろ。
凛を裏切れないし(若干、手遅れ感があるが)。エッチしたら、きっと楓も泣かせることになる。
「ごめん、俺。好きな人いるんだ」
すると、楓は何度か瞬きをして、視線を俺からそらすと、軽く息を吐いた。
「そんなのわかってるよ。凛ちゃんでしょ? 分かってるから、泡沫でもいいから夢をみたい」
楓は、俺に伸ばしかけた右腕を左手で押さえると、ふぅとため息をついた。口元だけ笑顔になる。
「あははは。ごめん。冗談。……忘れて。あ、もうここでいいから。わたし、帰るね」
そう言った楓の顔は、表情に乏しく、視線も力なさげだった。
「いや、送るよ」
こんな顔の女の子を1人で帰らせられない。
俺は楓を家まで送った。
会話はほとんどなかったが、女の子だと意識してしまって、一緒に歩いていても俺が知っている楓じゃないみたいに感じた。
やがて家の前につき、玄関ドアをあけると、楓が振り返る。
「そういうところなんだよ。きみは、優しくて残酷だね」
「えっ?」
すぐに楓は笑顔に戻る。
「ううん、なんでもない。今日はありがとう。楽しかったよ。またバイトでね」
俺はとぼとぼと家路につく。
唇に楓の余韻が残っている。おれは右手で唇をさわると、ため息をついた。
ファーストキスしてしまった。
まさか、俺の相手は楓になるとは思わなかった。
凛のことを思うと胸が痛む。
『これ、凛に言えないよなぁ……』
だが、言わないで済むほど、世の中は甘くないらしい。そのしばらく後に、俺は、この判断を大後悔することになるのだ。